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〈流山の運河と町並み〉吟行記
平成二十九年十月十一日(水) 一二三壯治 記
■水運時代の遺産
「吟行がなければ、流山なんて来る機会がなかったかもね」
楽しげにそう言ったのは、木の葉さんである。集合時刻(午後1時)を1時間早め、東武野田
線の運河駅前で昼食のラーメンを食べている時だった。もう一人、ありふみさんも「確かにそう だね」と同意された。
流山市は千葉県北部に位置し、西を江戸川に接している。市域は34・32?、東京23区では
葛飾区とほぼ同じ。東京からは常磐線柏駅乗り換えが速い。この日のメンバーは、ひでを宗匠 と木の葉さんが常磐線ルート、ありふみさんと舞九さんが埼玉の大宮から東武野田線で逆ル ート、筆者はつくばエクスプレスの流山おおたかの森駅乗り換えルートを選んだ。つくば発が最 も近い。
メンバーが揃い、まず利根運河へ向かう。江戸川と利根川を東西で結ぶ人工河川で、全長
8・5qある。市街の北端にあり、運河大橋を越えれば野田市に入る。徒歩5分ほどで掘割と いった風情の幅5?6メートルの運河の流れに着く。大橋の畔から水辺公園と呼ばれる長い河 川敷に降りた。
秋明菊利根の運河に揺れてをり 木の葉
川端には多種の秋草がなびき、市民の憩いの場と呼ぶにふさわしい。幼児を連れた若いマ
マたちが3組ほど集まっていた。聞くところによると、流山市は子育て世代に手厚い福祉政策 をとっていて、移住者が年々増えているらしい。
川幅の狭い場所に、大人二人が身を躱してようやく渡れる程の橋が架かっている。ドラム缶
に板を敷いた安直な構造だ。後で対岸に渡っておくべきだったと悔むのだが、こんな橋は運河 の随所に架けてあるだろうと思われた。
鷺休む運河公園秋深し ありふみ
…といった長閑さである。曇天で肌寒いのに堪えれば、句材はいくらも転がっている。土手道
を元来た方へ戻り、そのまま大橋の下を潜って東の方へ進む。蓮池、ひょうたん池などの湿地 帯が野田市側にある。
秋風の中を運河の幾曲り 舞九
木の葉さんと筆者は、偵察隊のように足を速めて先へ先へ急ぐ。池のある方へ向かう橋を探
すためである。ところが、行けども行けども対岸への橋がない。草花に埋もれた築山のような 見晴し台で後続を待った。橙色のキバナコスモスが賑やかに揺れている。虫の声も聴こえた。
野辺の虫左右へ移るやうに鳴く 壯治
見晴し台からは池のある辺りの森が望める。宗匠が到着したので「どうやら池の方に渡る橋
がなさそうです。すみません」と詫びた。「まあいいよ。大したことはないだろう。蓮池と言っても 今は敗荷(やれはす)の時期だし…」と慰められた。
利根運河について補足すると、日本初の西洋式運河でオランダ人技師ムルデルらの尽力で
明治23年(1890)に開削工事が竣工。ムルデルの顕彰碑が水辺公園に設置されているが、 これも見ずに来てしまった。今は運河を往来する船も見えない。ただ水害を防ぐ貯水タンクの 役目だけを果たしている。
どうも幸先の悪いスタートになった。旧市街はどうか。タクシーを一台呼び、5人ギューギュー
詰めで流山本町を目指した。
■ぶーらりゆるり一茶が愛した流山
タクシーは一茶双樹記念館の前に着いた。寄せ棟造の商家建築で、低い二階建てが当時の
人々の体格をしのばせる。観覧料が一般100円、70歳以上無料と極めて良心的なのは、市 が管理・運営しているお陰だろう。
流山行きが決まったのは1週間前なので、小林一茶と流山の関係をほとんど知らないまま訪
れた。「双樹」と併記しているのは、みりん醸造で成功した当家の主人・五代目秋元三左衛門 (1757?1812)の俳号を伝える。俳名の高かった一茶を招き、幾度となく句座を開いたらし い。
正面の二階建て本家遺構は、受付やみやげ物売り場になっている。一茶の句集や絵はが
き、一筆箋などと地元の特産品が混在して並ぶ。奥へ抜けると、低い植込みのある露地で、双 樹亭と一茶庵が棟つながりに建つ。左奥の一茶庵で靴を脱ぎ座敷へ上がった。
一茶庵には、四畳の水屋と八畳の茶室がある。一茶は八畳間に寝泊まりしたのだろう。広庭
に面した双樹亭からみれば「離れ」といった趣だ。双樹亭には廊下伝いに行く。順に奥の間(十 畳)、中の間(八畳)、茶の間(八畳)と続く。欄間の彫刻、床の間や付書院の造りにも、最近で は珍しくなった職人の丁寧な仕事ぶりが感じ取れる。メンバーは各間の端や縁側に座蒲団を 敷き、庭と対峙するようにでんと座った。
大ざくろぶーらりぶーらり一茶庵 ひでを
涸れ池の右脇に、赤い石榴の実が生っていた。曇天の薄暗い庭をほのぼのと灯すようだ。
秋の心と眼は、おのずから紅い色を求めるのかもしれない。楓の紅葉には少し早く、葉の端が わずかに色づくほど。今は実石榴の独壇場だ。
実ざくろの三つ四つ七つ一茶庵 舞九
飛び石を伝ひし先の石榴かな ありふみ
実石榴や双樹の庵の枯山水 木の葉
亭では、さまざまな茶と菓子を注文できる。煎茶、そば茶、抹茶オレや生姜茶が取り揃う。温
かな茶を一服すれば、ほうっと心が緩む。ははあ、それで一茶庵か≠ニ、口には出さず独り 笑みを噛み殺す。ここで駄洒落を言うのは、静かな空気を乱す無風流者と言われかねない。
色変へぬ松を眺めつ落雁を ひでを
下世話な話だが、和菓子が付いて300円はうれしい。清貧を売り物にしたような一茶ゆかり
の庵なら、それも当然か。座敷は、句会や茶会の会場として貸出もするというから、市民には 文化伝承の拠点であろうと察せられる。
時間の許すかぎり、ここに留まりたい気もする。庭に回って実石榴を間近で見たり、その傍の
句碑を眺めたりした。達磨のような形の無骨な石に〈夕月や流残りのきりぎりす〉と刻んであ る。秋の句でよかった。時空を超えて一茶翁に返してやろう。
一茶の碑読めば残り蚊ゆるり刺す 壯治
小さな生き物たちを友としたような一茶翁なら、「残り蚊」にも深い憐憫の情を持ったに違いな
い。流山で詠んだ句には、次のようなのもある。
行秋をぶらりと大の男哉 一茶
偉そうに言うが、セミの会にも招きたいような詠みっぷりである。私たちと似通った気分を感
じる。そんな一茶に共感を覚えたはずのメンバーは、一筆箋や菓子などのみやげを買いもと め、ぶらりぶらりと表通りへ出た。
■江戸回廊を流れゆく
ここ流山本町は江戸川と指呼の間にあり、流山でも水運の恩恵に最も浴した地域かと思え
る。路面から3?4m迫り上がった堤防にはコンクリートの階段を上る。かつてはこれほど高くな かっただろう。ここもまた土木行政の横暴さに抗せず、かえって人心を荒ませたように見える。 流域を眺めると、さすがに大河の趣でこれもゆーるりゆーるりと流れている。帆掛け船や手漕 ぎ舟の往来を想像してみれば、にわかに往時の活気が蘇ってくるようだ。
日本橋へ運河を急ぐさんま舟 ひでを
房総沖で捕れたさんまも、この江戸川を通って日本橋の魚河岸に向かったか。昔の船舶の
技術では、波の荒い海より河川を行く方が安全で速かった。前にも北千住の吟行記に書き留 めたが、水運の視点から江戸と近郊を見直してみるのは、歴史研究家やタモリ氏のような好 事家ならぬ身にも面白そうだ。
秋風や翁の江戸川蒸気船 木の葉
話が前後するが、木の葉さんが最後に行った〈寺田屋茶舗・見世蔵(万華鏡ギャラリー)〉で
地元のお年寄りに「蒸気船が運航していた」話を聴いたらしい。その「翁」が子供の頃だそうで ある。戦前のことだろうか。
今は川底の砂も浚渫されず、大きな船の航行には馴染まない。宗匠は「ミシシッピ川みたい
にショーボートでも浮かべたら楽しいよ」と、観光庁の役人に聞かせたいアイデアをぼそっと言 われた。その辺り、日本人は真面目すぎる。
流山陣屋跡に向かう。陣屋とは代官所のことで、関八州の天領(徳川幕府の支配地)に置か
れた。ここで新撰組の局長だった近藤勇が明治新政府軍に捕えられた。盟友土方歳三と別離 を決めた場所でもある。
流山烈士流れて行く秋ぞ 壯治
史談風に述べると、近藤と土方が流山に辿り着いたのは、勝海舟が江戸城無血開城を行う
ために、抵抗勢力で邪魔な新撰組を甲陽鎮撫隊として甲州(今の山梨県)へ追い遣り、むざむ ざと敗走させたからだった。慶応4年(1868)4月3日近藤捕縛、同月11日江戸開城という流 れになる。「行く春ぞ」と言うべきか。
今も新撰組ファンが多いのは、土方や沖田総司ら美男剣士が女性を魅了する面もあるが、
近藤らの決死の生き方に共感するのが主な理由だろう。舞九さんも敵方だった土佐(高知県) のご出身ながら、「近藤勇の陣屋跡を見たいので…」と日中だけ吟行に参加された。
ちなみに陣屋跡は元々酒造家の土地で、記念碑も地元のキッコーマン創業家が建てた。隣
の案内所では新撰組資料のほかに旗や羽織のレプリカなどを展示。みりんや味噌、醤油など も販売している。
ここで、私たちも二手に分かれた。舞九さん、ありふみさん、木の葉さんは「万華鏡ギャラリ
ー」へ。宗匠と筆者は、閻魔堂横丁を通って常与寺、そして流山電鉄流山駅へ向かった。どち らかと言えば、万華鏡ギャラリーの方が土方風で函館に行って戦い抜く≠謔、な決意を感じ る。
万華鏡回せば深みゆく秋思 舞九
万華鏡と歴史回廊が一緒くたになって、実際には見なかった筆者にも想像の上で大回転す
る様が見えた。歴史も万華鏡のように千変万化する。
その舞九さんを流山駅に見送り、残りのメンバー4名は割烹料理の〈柳家〉へ向かう。柳家は
大正6年(1917)の創業で、初め旅館だったのを割烹に改めた。30分前に予約したので、 「鰻料理でよろしければ…」との条件付きで受け入れてもらった。旅館の趣を感じる玄関正面 に幅一間ほどの階段があり、二階へ上がると六畳ほどの個室に通された。廊下はきれいに磨 き込んである。日本建築の座敷に上がっただけで、もうご馳走だと感じられる。
鰻の肝焼き、お新香などでビールや熱燗を飲み、締めは鰻重というコースだ。句座の話題は
運河や河川をめぐって転々とする。宗匠が思い出せずに、筆者に振られた質問がある。
「マリリン・モンローの『帰らざる河』で辿り着いた街はどこだったかな」と。後日インターネットで
調べると、カウンシルシティとあった。紙上を借りてお答えしておきたい。
こうして半日を過ごしてみれば、流山も見どころが多く、再訪してみたい気持ちも湧く。今さら
ながら、吟行は実に楽しい。
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