5月墨東吟行記

〈墨東向島界隈〉吟行記  平成二九年五月十日(水)
一二三壯治 記 

■向島百花園から

 今、「墨東」などと呼ぶ人は少ないだろう。どうしても永井荷風の『墨東綺譚』に描かれた抜
けられます≠フ赤線街寺島町、玉の井のイメージが先行し、現代の観光感覚に合わないから
かもしれない。隅(墨)田川の東側の意味で、昔は森鴎外、幸田露伴、吉川英治などの文人墨
客に愛された閑雅な郊外だった。
 今回の墨東への吟行は、東京都が〈舟運社会実験クルーズ〉と銘打って企画する大森海岸
コースが未だ調整中のための代案である。とは言え、この地には向島百花園や木母寺、長命
寺、三囲神社、それに東京スカイツリーの諸施設が揃い、俳句の種は無数に転がっている。そ
の種で花を咲かすのが俳人の才。と、言うわけでまず百花園からスタートした。入場料は一般
150円、65歳以上が70円と安いのは都立公園のいいところ。天候は曇り。

   異形なる松の花あり百花園    かおる

 一か所だけの出入口(入場受付)は松と若楓の木陰にある。園の名は「百花繚乱」から得た
のだろう。門扉には、右に「春夏秋冬花不断」左に「東西南北客争来」と詩が刻まれている。開
園は、江戸文化爛熟期の文化・文政頃(1804?30年)。当初は360本の梅園で始まり、徐々
に植物の種類が増えた。 
 
  いくつもの筋の垂れをり藤の花  ありふみ

「藤の花」が盛りである。淡い紫色が近くは雨粒、遠目には雲かと見まがう。時期外れの〈秋の
七草〉が寄せ植えされた後方に、気だるげな姿を見せていた。 
 メンバー各自が、〈花の案内板〉で好きな花を目当てに小径を辿るのが楽しい。樹木や草花
には逐一小さな表示札が立てられ、あるいはぶら下がっている。 

   ジシバリも札を賜はる五月かな   三酉

「ジシバリ(地縛り)」は茎が水平に広がり、文字通り地を縛る≠謔、に繁茂するところから付
いた名らしい。キク科の黄色い可憐な花を咲かすが、逞しさゆえに雑草とされる。植物の世界
に差別やランキングを持ち込んだのも、人間にほかならない。それが「文化の起源だ」と言わ
れれば一言もないが…。
 それにしても、三酉さんの眼差しの低さと優しさには敬服せずにいられない。 

   卯の花の色失ふて匂ひをり    壯治

 欧米では薔薇が〈花の王〉だろう。中国では蘭か牡丹か。日本では桜で異論はないだろう。そ
の頂点の美≠基準として、おそらく各国国民の美意識も定まっていったかと思う。では、白
い花はどうなのか。素朴な疑問が湧く。

   萩若葉連なるトンネル百花園   かおる

 かつて十四、五年前の九月に園内の〈御成座敷〉を借りて句会を催したことがある。折よく萩
の花が鉄製のドーム型ネットを覆い、赤紫の星降るトンネルを作っていた。今はまだネットの下
40?50センチを若葉の枝が這っているだけだ。
 萩のトンネル辺りまでが西側半分で、東側半分は南北に長い池を巡るコースとなる。池には
二つの橋が架かり、変化に富んだ生物や景色が楽しめる。

   春の池浮ぶあぶくは鯉の吐息   ひでを

 立夏を過ぎているので暦の上では初夏だが、池の「鯉」はまだ「春」を謳歌しているらしい。つ
まり「恋」の季節か。

   睡蓮のしらじら明けか花一輪    壯治

 めざめて咲き、ねむくなれば閉じてを繰り返す。睡蓮も人も変わらない。

   風の来てあやめの水玉滑り落つ   ありふみ

 昨夜は雨が降った。走り梅雨の気配もあり、雨滴が植物を生き生きと輝かす。

   梅の実を愛でて帰りぬ百花園舞九

 江戸時代、園の主役だった梅は結実の秋(とき)を迎えている。花も実もある≠ニくれば、植
物のみならず人としても望ましい気質や生涯を言う。
 園内には、大小29もの碑が建つ。山上憶良の歌碑、松尾芭蕉の句碑、最後の浮世絵師と
呼ばれた月岡芳年の碑など。庭園に欠かせない石碑だが、東端に多く建つのは起承転結を
付ける造園上の演出のようにも見えた。
 約1時間半の滞在で、向島百花園を出る。園内はくまなく散策した。内周は200メートルもな
いだろう。絵画のクラブか、同年代の女性たちがスケッチをしていた。言葉は交わさなかった
が、公園という船に同乗したような近しさを覚えた。
 明治通りをゆるゆると墨堤の方へ向かう。途中に小さな鯛焼屋があった。俳句で「鯛焼」は冬
の季語だが、一つ一つ丁寧に焼く、通の間では天然もの≠ニ呼ばれる上等品なので、全員
で味わうことにした。

   草餅の鯛焼になる水曜日     ひでを

 尻尾まで餡がたっぷりで美味しかったが、縁側のバリは残してほしかった。

木母寺を訪ねて
 高速道が高架上を走る墨堤に突き当たり、右に折れて木母寺の方へ向かう。梅若丸の墓所
として知られ、ひでを宗匠が「墨東へ行くなら、ぜひ寄ろう」と望まれた。

   都鳥に昔を尋ぬ梅若忌   ひでを

 梅若忌は旧暦三月十五日、現在は四月十五日になり、木母寺でも法要を行う。改めて梅若
について語るなら、謡曲『隅田川』に拠るのがよかろう。平安中期、吉田少将(しょうしょう)惟房
(これふさ)と長者の娘・花御前の間に生まれた梅若丸は、父の死後、比叡山月林寺の修行僧
となる。寺僧との諍いから転落の人生が始まり、ついには非情の人買いに東国まで連行され、
墨東・関谷の里で絶命する。時に十二歳。辞世は〈尋ね来て問はば応へよ都鳥隅田川原の露
と消えぬと〉(謡曲作者の作だろうが下手な歌だ。業平の〈名にし負はばいざ言問はむ都鳥?〉
を俤にしたか)。
 謡曲『隅田川』のクライマックスは、梅若丸を訪ね来た母親がとうとう里人の建てた梅若塚を
見つける場面である。すでに狂女となっていた母は、悲しみのあまり川に身を投げて死ぬ。
 梅若丸が誰か実在の人物をモデルにしているとすれば、よほど高貴で才気にもあふれてい
たのだろう。我が国に多くある御霊(天神菅原道真に代表される祟り神)信仰の物語(貴種流
離譚)のように思える。 
 木母寺への道は、老いの脚には遠く感じられる。視界が遮られているせいで、気も紛れな
い。高速下から堤防側の高い道へ出てみた。対岸が大きく開け、川を往き来する遊覧船も見
える。中空を「都鳥(カモメ)」が群れ飛んでいた。 

   あてもなく大川端を花は葉に     舞九

 元より墨堤両岸は桜の名所として知られる。ものの本によると、幕府が墨堤に初めて桜を植
樹したのは、享保二年(1717)とされる。八代将軍吉宗の時代だが、この春に花見をした王
子飛鳥山も確か吉宗公の発案で植樹されたと記憶する。墨堤の方は、それ以後も篤志家が
代々百株、二百株と植樹を続け、今日の壮観を生み出すに至った。
 いったん水神大橋まで行き、再び高架下を少し戻る形で木母寺に辿り着いた。木母寺とは、
梅若の「梅」の字を「木」と「母」に分けて付けた寺号である。正式には〈天台宗梅柳山木母
寺〉。寺より先に〈梅若塚〉が平安時代に建てられ、天正十八年(1590)に徳川家康公から山
号を贈られたと、寺が配布する『略誌』にはある。今の梅若塚は富士山を模した富士塚に似
て、石塊を集め固めたようなオブジェじみている。

   つくりものの如きあやめの木母寺    かおる

「つくりものの如き」は的を射ている。梅若丸そのものが伝説の人物で、何を理由にそれほど
尊崇を受けるのか、筆者にはよくわからない。狭い境内に咲く「あやめ」だけでなく、梅若念仏
堂に安置された立像三体の生々しい極彩色、ガラス張りの堂宇などもキッチュ(俗悪芸術)の
臭みがある。荷風流に言えば、
淫祠(いんし)=地蔵や絵馬堂、稲荷など民間信仰の対象≠ノ堕した感が否めない。

   アイリスもあやめも分かぬ廃寺かな三酉

 木母寺は、明治期の廃仏毀釈の時勢に呑み込まれ、一時「廃寺」となった。その後、仏僧ら
の運動が実って明治二十一年(1888)に梅若堂として復活。この頃には御霊信仰ではなく、
文化財保護の意識が強くなったらしい。能役者が参拝するのは、『隅田川』を演ずるに当たっ
ての鎮魂が目的なのだろう。
 木母寺の裏へ抜けると、数棟も連なる都営住宅の敷地に入る。その一画に梅若公園が設け
られ、榎本武揚像がひっそりと建っていた。

   墨東に棲み馴れし身や苔の花   壯治

 よく知られるように、榎本武揚は幕臣から海軍副総裁となって函館戦で敗れたが、維新後も
新政府に招かれて要職に就いた。まさに波瀾万丈の生涯の晩年、向島に住み、百花園で季
節の花々を眺め暮らしたという。自作の『燗酒の歌』が残っている。〈朧夜や誰れを主と言問は
む鍋焼きうどんおでん燗酒〉。どうも熱血漢揃いの薩長政府をおちょくっているようだ。その豪
放磊落な人柄を偲んで、有志が像を建てたものと思われる。

   いざ食はむ言問団子業平忌    舞九

 在原業平がモデルとされる『伊勢物語』は、「昔、男ありけり」の書き出しで知られる歌物語。
業平が実際に「墨田のほとり」を訪れたわけではなく、物語の作者が選んだ歌枕の一つに過ぎ
ない。謡曲『隅田川』も同様で、和歌から想を得るという伝統に則っただけだろう。
 私たち後世の俳人も、事蹟や措辞などからさまざまなインスピレーションを得ている。「言問
団子」は実際に食べなかったが、古人の心情や気分をそこはかとなく感じとれる墨東なのであ
る。 

■天空の句会
 降りみ降らずみの空模様だが、大雨にはならずに過ぎた。句会場は、吾妻橋畔のアサヒビ
ールタワーと決めてある。東武スカイツリーラインに乗って移動する。鐘ヶ淵の駅まで、またゆ
るゆると歩いた。

   姫卯木スカイツリーは雲の中   舞九

 吟行の計画に「スカイツリー」も入れようとしたが、ひでを宗匠を始め誰もあまり関心を示され
なかった。まだ、俳句に詠むほどの歌枕ならぬ〈俳枕〉には成熟していないということだろうか。
宗匠は、この界隈にまつわる思い出話を二つ、三つ披露され、昭和の雰囲気の残る床屋や飲
食店などを「ああ、まだ残っていた」と眺めていた。
 鐘ヶ淵の地名も鐘ヶ淵紡績の〈カネボウ〉でなつかしい。〈カネボウ〉が衰勢となった今日、地
名を偲ぶよすがも頼りなくなる。辛うじて残る鐘ヶ淵の駅に着くと、すぐに列車が入ってきた。急
くこともない。「次ので行きましょう」と、メンバーに声を掛けた。こうなれば、俳人の時間にとっ
ぷり浸るのがいい。
 次の電車に乗って三駅目が「とうきょうスカイツリー」駅である。駅名からして子ども向けで、ど
うやら我々はターゲットでないと知れる。駅の真ん前にそびえ立つスカイツリーは、2012年の
オープンなのでもう6年経つ。一度くらいは展望台にでも昇ってみようか。
 東武浅草駅に着く。吾妻橋を渡って、アサヒビールタワー最上階の22階に上る。タワーはジ
ョッキに注いだビールの形を模していて、この階は泡の部分に当たる。「金の雲」のシンボルで
知られるアサヒビール本社ビルに隣接する。かおるさんのお薦めで、イタリアンの〈ラ・ラナリー
タ〉に入った。

   浅草や上へとけぶる初夏の川    三酉 

 午後5時を回ったばかりで客も少なく、窓際の眺めのいい席に案内された。川を隔てて浅草
方面の展望が開け、遠くほど夏霞に朦朧としている。ぽつぽつと明りが灯り出し、あたかも句
会の始まりを祝福するようだ。
 アサヒビールの経営とあって、ビールの品揃えが良い。各々好きなタイプを選び、まず乾杯。
料理は生ハムのピッツァや牛の胃袋を豆と煮込んだトリッパなど、ビールやワインに合うもの
を次々に注文した。
 酒杯を重ね、句廻しをするうちに周囲は宵闇を深めていく。スカイツリーに薄紫の灯が点る
と、ますます幻想的な景色になった。回転しながら光芒を放つ。ありふみさんが「まるで天空の
句会だね」と、感嘆の声を発した。「まさにそうだ」「いいですね」と、他のメンバーも口々に同調
する。いつにも増して終わるのが惜しまれる句会となった。
 後日、ありふみさんからEメールで〈天空の句会〉と題する写真が届いた。ひでを宗匠に二句
添えていただくことにした。
 
   天空の句会となりぬビールの夜      ひでを
 
   ビールタワーにふはり上り来きん斗雲   ひでを

以上









トップへ
トップへ
戻る
戻る