![]()
平成二十九年三月八日(水) 一二三壯治 記
■旧千住宿の土地柄
江戸時代にできた五街道をご存じでしょうか。東海道、中仙道、甲州街道、日光街道、奥州
街道がそれ。すべて日本橋を起点とし、旅の便がよくなった。
俳聖松尾芭蕉は、『奥の細道』への旅を日光街道第一の宿場千住からスタートした。元禄二
年(1689)晩春のこと。〈矢立(やたて)初(はじめ)〉の簡略な儀式を素盞雄(すさのお)神社で行った。 境内に、その碑が建っている。旅に野晒しとなって死すとも悔いなしを誓ったのである。
〈前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ〉と記し、一句をし
たためた。
行春(ゆくはる)や鳥啼(なき)魚の目は泪 芭蕉
われらセミの会メンバーが南千住駅に集合し、おもむろに歩き出したのは翁より少し早い三
月初旬。春光の中に余寒が宿る。まず駅に隣接する小塚原の延命寺に向かった。
料峭や冤罪あらん小塚原 ひでを
時代劇では「こづかっぱら」と庶民に呼ばれ、死の穢れが染み着いた土地として描かれる。
元は火事の延焼を防ぐ火除け用の原っぱで、罪人の処刑や弔いを担った役所と寺院(回向 院)が置かれた。年代記的に見れば、幕末近く杉田玄白らが罪人の死体で腑分けを行ったり、 昭和になってからは吉展ちゃん誘拐事件の重大現場として知られる。ひでを宗匠は、駆け出し 記者の頃「吉展ちゃん発見」の一報に触れ、いち早く現場に駆けつけた話をされた。
小塚原巨き地蔵や浅き春 かおる
何はともあれ、地霊とともに有縁無縁の仏に手を合わせ、半日の旅の安寧を祈願しておいて
損はない。首切地蔵は、特にねんごろに……。
そこから素盞雄神社までは、ほんの五、六分の距離。よろこぶさんから、先に到着していると
の連絡があった。社は日光街道に沿って建つ。その辺りから旧千住宿となる。千住大橋の架 かる隅田川を挟んで手前が小千住、先が大千住とも呼ばれた。今は南千住、北千住である。 陸橋と地上と二重構造の街道を車が忙しく行き交っている。
桃の花矢立初めの地に来たる よろこぶ
神社境内は、荒ぶる神の素盞雄を祀るにしては賑々しく、赤い幟と桃の花が競うといった風
情。ここで芭蕉翁が「矢立初」の儀を行ったのは、素盞雄が『古事記』に載る求婚の歌〈八雲立 つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を〉によって、歌の神とされていることに崇敬の念 を表す意味からだろう。みちのくへの旅は、先人たちを句によって鎮魂するのが主な目的だっ たと言われる。
神社本殿脇の階には雛壇が設えられ、古式蒼然とした雛人形たちが白々した顔を輝かす。
その配置は、どこか雑然としている。これも翁が千住に入る前、弟子杉風の深川下屋敷に移 って詠んだ〈草の戸も住み替る代ぞ雛の家〉にちなんで、か。
結界に雛のひしめく千住かな かおる
「ひしめく」と言うのは、決して誇張ではない。集会所と資料館を兼ねたような社務所には、数百
から千体にも及ぶ雛人形が乱雑に並べられていた。人形は、それぞれ地域や作者、製作年代 によって顔も衣装も異なるようだ。きっと全国の篤志家が続々と奉納したのだろう。あるいは、 ねんごろに人形供養をするのかもしれない。
ひな千体われと似た顔ありぬべし 壯治
無事によろこぶさんと出会い、本日のメンバー五人が揃った。五人囃子ではないが、笛太鼓
ならぬおしゃべりが賑やかになる。
神社の創建は延暦十四年(七九五)と古い。尻を上げて構える狛犬像、銀杏、松などの古木
が、そこはかとなく昔をしのばせる。比して社殿は、千木の無い八幡造りを踏襲したようで新し い。近隣六十一町の総鎮守で、六月には天王祭が盛大に行われることからも威勢のほどが知 れる。ただ、浄め祓いを司る神社にしては、装飾過多の印象を拭えない。札を収める囲いの中 には、参拝客の引いた小さな傘の形のおみくじが、張り巡らされた糸に木の実のようにぶら下 がっていた。
春風や小さくゆらぎて傘みくじ 木の葉
■大川に沿って流れ行くもの
千住大橋を渡る。その手前にある誓願寺は、狭い門構えに比して瀟洒な本堂と庭園を持つ。
建築に造詣の深いかおるさんが、「ここはなかなかのお寺だわ。庭も手入れが行き届いている もの」と絶賛する。京都新京極・誓願寺の末寺だろうか、京の箱庭を思わせる三坪ほどの植え 込みが静寂を生む。椿と馬酔木の花が瑞々しく咲いていた。
春寒し千住は橋にはじまれり よろこぶ
よろこぶさんは、池波正太郎作の『鬼平犯科帳』に「千住を舞台にした名作が多い」と言われ
た。鬼平の密偵として働く大滝の五郎蔵とおまさが理無(わりな)い仲になったのも「千住だっ た」とも。後日読み直してみたが、二人が出来た≠フは狂言で夫婦になって盗人宿を偵察 するシリーズ(九)〈鯉肝のお里〉の巻で、場所も柳町となっていた。よろこぶさんの記憶違いだ が、確かにシリーズでは千住宿がよく舞台になる。人の往来が盛んな土地柄で、無数の出会 いと別れのエピソードに満ちているからだろう。芭蕉翁の旅立ちもまた…。
池波氏は、「往還」という表現を使う。古風で、人々の息遣いも春風のように感じられて好き
だ。たとえば…上野山下から、坂本、金杉、三ノ輪を経て千住大橋へ通ずる奥州・日光街道の 道すじにあたる往還の…といったぐあい(〈犬神の権三〉の巻より)。土地(これも池波氏によれ ばところ≠ニ、ルビが入る)の気風が、人間の行動を規定すると考えていたのかもしれない。 事件や異変は、然るべき土地で起こるべくして起こる。
芭蕉が旅立った元禄年間から鬼平の天明・寛政年間まで、ほぼ百年の隔たりがある。当時
の百年はゆったりとしていて、現代ほど目まぐるしい変化はなかっただろう。隅田川(大川)の ように滔々と流れていたはずである。
春の日を映してしづか隅田川 ひでを
大橋の手前には、橋の守護神として熊野神社が建つ。橋の架け替えの度に、工事の安全祈
願と社殿修理が行われるという。
行く春や千住大橋渡りけり 木の葉
大橋を渡ると、左手に大橋公園、その奥にも橋戸稲荷神社が祀られている。橋の両岸に神
社を建立するところからも、災害や事故を恐れる江戸人の気持ちが伝わってくる。
江戸の物流は、水運が主体であった。大川が高速道、縦横に掘られた運河が一般道に該当
し、必然、大川に面した千住は大ターミナル基地といった機能を担った。人や物が船で運ばれ るゆっくりした時代なればこそ、芭蕉翁も大景を叙し得たのではないかと思う。『奥の細道』冒 頭には、「舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を 栖とす」とある。
泪滲む古千住河岸や春の潮 壯治
足立市場を覗くが、市場も併設の飲食店もひっそりしている。午後の休憩と言うより、開店休
業のような静けさだ。人や車の出入りもない。市場前の旧日光街道入口手前に芭蕉像とやっ ちゃ場跡の碑が建つ。「もう歩き疲れた」とおっしゃるよろこぶさんには、タクシーで先に北千住 駅前に行っていただいた。
■旧街道の商店街
旧日光街道は道幅も狭く、側道の趣である。板に大書した免許のような札を掲げる仕舞屋(し
もうたや)が続く。かつて市場と取引があった店舗の名残を伝えているのだろう。今はマンション や住宅に住み替る代ぞ=Aである。北千住は、住宅地として都内でも指折りの人気を誇るら しい。
墨堤通りを過ぎると、浄土宗稲荷山勝林院源長寺がある。門構えが立派で、旧宿場町では
よほど信仰を集めた気配がある。江戸時代に大火で焼け残ったという大欅を保存してあった。 その脇に多坂梅里という儒者を顕彰する碑が建つ。地元の人々を教育するために私財をなげ うったとある。
「昔は偉い人が多かったわねえ」と、かおるさんがしきりに感心する。
偉くない現代人としては、そろそろ休憩したくなった。小塚原ならぬ「小腹」も空いた。自転車
を止めて信号待ちの女性に宗匠が、「この辺に喫茶店はありませんか」と尋ねる。年の頃は五 十前後か。化粧っ気はないが、筆者好みの大人の色気がある。池波氏なら、どう描くだろう か。
女性が去ってから、宗匠も「なかなかの美形だな」と大らかに笑って女性が教えてくれた店を
めざした。
店の名は〈Sand・Sand(サンド・サンド)〉。「三度三度の飯」を洒落ているのか、様々なサン
ドイッチと飲み物を出す。コーヒーや紅茶のほかに、アルコール類も置いているのがうれしい。 宗匠は白ワイン、かおるさんと木の葉さんはスパークリングワイン、筆者はジンジャーティー。 そのジンジャー(生姜)が話の発端になる。
「イギリス人は、ジンジャーが良いとなると何にでもジンジャーを入れるんだよ」と、宗匠。確か
にジンジャーエールやポークジンジャー、ジンジャーワインなどがある。
「紅茶のアール・グレイは首相でもあったチャールズ・グレイ伯爵、サンドイッチはポーカーをや
りながら食べたのが起源で、こちらもサンドイッチ伯爵のジョン・モンタギューにちなんでいるら しい」
宗匠はイギリスやアイルランド各地を旅行されていて話が尽きない。
春夕のサンドイッチ食み英国談 壯治
かおるさん、木の葉さんが注文したのは〈エビフライのタルタルソース〉と〈ハムカツとたまご〉
サンドだが、女性店長が「お味見をどうぞ」と〈自家製あずきのホイップサンド〉も出してくれた。 かえってイブニングティータイムによい。イギリスならスコーンにホイップクリームを付けて食べ ながら、夕刻を楽しむところだ。小一時間を豊かに過ごし、ジンジャーの効果か体もぽかぽか と温まった。うれしくなって、ティーバッグをみやげに買う。
店を出て、また旧街道へ。カタカナ書きから漢字・ひらがなの世界に戻ったようだ。町筋ごと
に商店街の名が異なり、ここは〈かもん宿商店街〉。高札場跡を過ぎると、〈千住本町商店街〉 に入る。
句会場に適した飲食店を物色しつつ行くと、レトロな店構えの佃煮屋〈鮒秋〉が目に付いた。
大正六年創業とある。昭和の一番いい頃を知っている者には、ただただ懐かしくて素通りでき ない。ガラス張りのショーケースに佃煮が飴色の輝きを放っている。小分けした袋詰め、パック 詰めがまたいい。いかにも「お酒の当てにどうぞ」と誘っているような。左党の宗匠と女性陣 は、葉唐辛子の佃煮やじゃこの釘煮などを買った。
北千住駅前は程近い。古くから栄えた街だけあって、飲食店が狭い路次に野草のような逞し
さで彩りと勢いを競っている。五時前だと言うのに、立ち飲み処などはすでに立錐の余地もな い。キャバクラや美人スナックといった色気で売る店は、表にホステスの顔写真を貼り出す念 の入れよう。実にどうも殿方には極楽のような猥雑さである。
白首の昔は知らず春の宵 ひでを
千住宿には、それこそ白粉臭い宿場女郎が多く居て、公娼としては他の三宿(品川、板橋、
内藤新宿)と並んで二番目の格(第一は吉原)であった。そういう土地の気分も伝統として残る のだろうか。筆者などは、落語の郭(くるわ)ばなしに親しんだ方なので、一軒一軒その如何わし さを確かめたいほどだが、蕪村風に言えば俳句は俗語を用いて俗を離れる≠是とする文 芸。いくら偉くない現代人と言っても、俗っぽくなり過ぎるのもいけない。
そもそも今回の吟行は、宗匠から「旨い葱鮪鍋が食えるらしい」との情報を得て計画した面も
ある。ところが、少々時季外れだった。駅前で葱鮪鍋を出す店は見当たらない。魚介類が食べ られそうな和風居酒屋を句会場に予約して、よろこぶさんを迎えに行った。その間に、かおるさ んと木の葉さんが歩き回り、小洒落たイタリア料理店〈ノヴェッロ〉を見つけてくれた。すぐにそ ちらに変更した。
ノヴェッロの角をまがりて白木蓮 木の葉
イタリア語で〈ノヴェッロ〉とは、フランス語の「ヌーヴォー(ボージョレ・ヌーヴォー、アール・ヌー
ヴォーの)」と同じく「新しい」を意味する。古い街に来た古い俳人たちには、心身がリフレッシュ されるようでうれしい。焼いた有機野菜にバルサミコ&魚醤ソースを掛けたのやプロシュート、 ピッツァマルゲリータなどをビール、ノヴェッロ(新酒)のワインと共に頂いた。
新旧あるいは東西の文化の融合と調和が、偉くない現代人の直面する課題と言えるのかも
しれない。
![]() |