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〈横浜・根岸・中華街〉吟行記
平成二十八年五月一一日(水) 一二三壯治 記
■競馬と名馬語りつつ
神奈川県横浜市は、日本の近代化を象徴する諸事物の発祥地として知られる。欧米人の居
留地として開港されたのだから、当然と言えば当然である。欧米の生活習慣や文化に関連す る事物の苗木が、まず横浜に移植された。例を挙げれば、鉄道、日刊新聞、ガス灯、写真、ビ ール醸造、洋式理髪店、クリーニング、テニスなど、枚挙に暇がない。
今や国民的な娯楽の一つになっている「競馬」も例外ではない。横浜の根岸を最適地と見た
英国人によって、日本最初のレースが開催された(慶応三年=1867)。
…と、ここに反論する者が現れる。「日本にも古来競べ馬≠ェある」と。今も毎年五月五日
京都上賀茂神社境内で、馬二頭によるマッチレースが繰り広げられるという。『枕草子』『徒然 草』にも描かれている。俳句の季語でさえある。
…まあ、よい。競うのはあくまでも馬であって、人間が鼻息荒く起源を主張し合うのは、和を
以て貴しと為す我らセミの会の気風にもそぐわない。
さて、根岸線根岸駅に集合した会員七名。タクシーに分乗して「根岸競馬場跡」へと向かっ
た。現在は根岸森林公園として市民の憩いの場になっている。公園東端の正門から植え込み の薔薇を眺めつつ行くと、子犬ほどのシンザン像が荘厳な姿で迎える。
根岸公園シンザン像が南風のなか ひでを
「木下君は、シンザンの種付けを取材したことがあるんだったな」と、ひでを宗匠の学友でもあ
るよろこぶさんが言う。
「うん、まだ駆け出しの頃だったなぁ」と、宗匠は笑みを浮かべながら、若き
記者時代を懐かしむ様子。
「やっぱり当て馬≠使ったんですか」と、これは好奇心が人一倍強い筆者。王者シンザン
には特別な作法でもあるかと思い、つい口を差し挟んだ。
宗匠は「場合によるということだったよ」と、笑みを湛えたまま答えた。当て馬≠ニは、母と
なる牝馬を色仕掛けで昂奮させ、種付けのお膳立てをする馬のこと。牝馬が昂るだけ昂ったと ころで退場し、代わって現れたシンザンのような本命馬が「据え膳食わぬはなんとやら」とばか りに事に及ぶ。馬ながら実に羨ましい。
薔薇の種(しゅ)と名馬の胤(たね)と幾かさね 壯治
シンザンは戦後初の三冠馬となった。それほどの名馬になれば、引退後は種馬として手厚く
遇される。無論、いい子孫を残すためである。複数の種付けをした中では、ミホシンザン、ミナ ガワマンナが重賞レースで勝利し、なんとか貴種の面目を施した。
根岸とふ元競馬場若葉風 よろこぶ
競馬と言えば、セミの会でよろこぶさんの右に出る者はいない。競馬ファンで知られる寺山修
司氏の元夫人(田中映子さん)が健在のころ、会で競馬に行ったことがある。夕方開催のトゥイ ンクルレースである。そこで勝ち馬を当てたのが、よろこぶさん一人だった。北海道生まれで、 道産子馬に慣れ親しんだ環境が彼を馬の目利きにしたのかもしれない。
トキノミノル見しは札幌競馬場 よろこぶ
JRA(日本中央競馬会)運営の〈馬の博物館〉に入る。1階の受付でチケット(100円)を求
め、地下の展示室へ降りる。根岸競馬場開設150周年記念で、『馬(うま)鑑(かがみ)』山口晃 展を開催していた。
山口晃画伯は、いま最も脂が乗ったアーティストの一人。その画風は日本画とポップアートを
融合させて、混沌とした人類の三世(過去・現在・未来)を画布にとどめるという勢いがある。得 意のパノラマ的構図は、平安時代の絵巻物や『洛中洛外図』にも連なる斜め俯瞰で、雲文を多 用するのも大和絵式だ。
山愚痴と名乗る絵師在り卯月雲 かおる
かおるさんが目を輝かせて見入っていた。ご自身、油絵を趣味の一つとしておられる。きっと
山口氏の凄さが同じ描き手としてもわかるのだろう。
ギリシア神話に登場する半人半馬(ケンタウロス)ならぬ半馬半バイクが、山口氏独自の造
型と見えてさまざまな作品に登場する。奇抜なものが好きな筆者もたっぷり時間を掛けて鑑賞 し、「狂った前田青邨というところか」と独り合点した。
その他の一般展示は、馬に関する知識と文化の集大成。1馬力=約0・7355キロワットと
か、「馬銜(はみ)」や「鐙(あぶみ)」など馬具の解説が面白い。JRAは、かつて『馬銜』というPR 誌を出版していた。その題名にも強い矜持を感じる。馬銜とは、馬の口に「食(は)ませる」棒状 のもので「轡(くつわ)」とも言う。
馬の博物館を巡って、人と馬との深いつながりや文化的な価値などを再認識した。
■世につれて移りゆくもの
根岸競馬場が横浜競馬場となり、さらに閉鎖に追いやられたのは昭和18年。日本海軍に接
収された。敗戦後は連合軍、さらに米軍の管理下に置かれた。跡地の一部が返還されたのは 昭和44年と遅い。
芝生広場という最大の園地を歩くと、往時を偲ぶコース跡がそのまま舗道として残されてい
る。なだらかな道の傾斜は、自然の地形をそのまま生かす英国式の発想を反映する。競馬に 限らず、英国人発明のスポーツ(ゴルフ、テニスなど)は、芝の上を基本としているようだ。ウイ ンブルドンテニスは、頑固なくらい芝のコートにこだわる。ー
春には、市民が芝生で花見できるのも競馬場跡の恩恵の一つである。
原つぱに天(あ)降(も)る子と犬聖五月 壯治
余談ながら、日本起源のスポーツは先の競べ馬≠ナも相撲でも神事が多い。スポーツの
語源は「ぶらぶらする」といった遊戯の感覚から出ているそうだが、日本はあくまで心身一如の 「ナントカ道」である。この面での東西の融合は、山口画伯の半馬半バイク的なグロテスクを生 みつつ進展していくのだろう。
芝生公園は、一周約1400メートルある。先に見晴らし台へ向かった宗匠たちを追う。途中、
鬱蒼とした根岸の森、ぼうけんの森と呼ばれるエリアを通り、少し道に迷った。木々が初夏の 風に揺れている。
公園に手品師のゐて青嵐 建一郎
『公園の手品師』はフランク永井の唄である。〈銀杏は手品師 老いたピエロ〉の歌詞が哀愁
をそそる。公園南端にはイチョウの森がある。そこには寄らず、東から西へ横断する形で見晴 らし台を目指した。
見晴らし台のメイン施設は「旧一等馬見所」と呼ばれる観覧席。木の葉さんから携帯電話で
「アメリカのドデカい国旗を目指しておいでよ」と誘導されたが、森陰で見えなかった。見晴らし 台の一画へは北側の山元町口が近い。そこはまたアメリカ軍施設への入口にもなっていて、 治外法権の区画が細長く続く。鉄網のフェンス越しに宿舎風の建物が見えた。
青嵐にだうだうはためく星条旗 木の葉
「旧一等馬見所」は観覧席の一部を残したもので、遠目にはヨーロッパの橋塔のように見え
る。明治14年(1881)には、明治天皇の初天覧があった。今は…
天覧の競馬場跡蔦若葉 かおる
…蔦の青葉がびっしり覆っている。いつの日か「一定の役目を終えた」として、解体されるのを
待っているようだ。
■横浜しのぶ流行り歌
再びタクシーに乗り、中区本町の「開港記念館」をめざした。横浜は、開港を求める欧米列強
に差し出された僻村だった。初めは下田開港を望んだ列強に対して一歩も退かない態度で交 渉したのは、川路聖謨(としあきら)らの幕僚だったが、明治政府は前政権の努力をひたすら過 小評価するか、歴史から抹消しようとした。まかり間違えば、今の香港やマカオのような租界地 になりかねない運命だった。
めくるめく開化の街の南風 建一郎
「異国情緒」と言えば聞こえはいいが、歴史に翻弄された街に相違ない。外国人居留地が設け
られ、そこを起点に日本を欧化して行こうといういつもの計略である。「文明開化」「和魂洋才」 「脱亜入欧」などは、日本側の化学反応と考えればわかりやすい。赤レンガの開港記念館(通 称「ジャックの塔」)では、その間の事情を資料で伝える。
夏時雨洗ひてゆきし赤レンガ ありふみ
開港後、横浜は唄に歌われることが多くなった。童謡『赤い靴』や『青い眼の人形』(共に野口
雨情作詞・本居長世作曲)が、その先駆かもしれない。港町ならではの出逢いと別れのイメー ジが、人生の哀感を象徴的に歌うのに適している。戦後、歌謡曲全盛の時代になると、横浜を 歌えば大ヒット間違いなしという法則さえできそうになった。『ブルーライト・ヨコハマ』『横浜たそ がれ』『港のヨーコ横浜・横須賀』『伊勢佐木町ブルース』『雨のヨコハマ』など。これも切りがな い。
洋楽も入ってきた。ジャズやロックでは、耳の肥えた外国人相手のクラブが多くあったらし
い。筆者のような地方在住の十代は、〈横浜=最先端の音楽〉という認識を持った。
さて、開港記念館は…と言うと、建物以上に見るべき展示は少ない。どうも自治体が造るハ
コモノは、類型的で著しく面白味に欠ける。いかにも文科省のお達しを忠実に再現したという風 なのだ。隣接の日本新聞博物館(ニュースパーク)も見学の予定に入れていたが、改装のため 閉鎖。開港記念館裏口の坪庭めいた庭園を見ながら中華街の方へ向かう。途中、横浜スタジ アムの脇を通ると、ナイトゲームを待つ観衆の声が聞こえた。照明塔が薄暮にぼんやり灯って いた。
楽園てふ飯店にをり夏めきて ひでを
中華料理店の〈楽園〉は、横浜中華街加賀町警察署前の入口を入るとすぐ左にある。よろこ
ぶさんの推薦で、横浜勤務のころによく通ったのだという。私たちの年齢を配慮して、肉は少な く野菜の多いメニューがうれしい。特に「包子(ポウヅ)」に定評があり、餃子は餡がたっぷりで 厚手の皮にマッチしていた。
杓子菜や広東の薄味(あじ)中華街 ありふみ
杓子菜も明治時代に伝来したという。今では、埼玉県秩父市や深谷市の特産品となってい
る。これもまた、食文化移植の一例。
店は貸し切りのような状態で他に客はいない。BGMで流れる歌が心地よい。木の葉さんが
酔いに任せて歌い始めた。テレサ・テンの『愛人』という曲らしい。〈尽くして 泣きぬれて そし て愛されて〉と〈離れて 恋しくて そして会いたくて〉がいわゆるサビの部分で、そこへなんと、 よろこぶさんまで合唱に加わりボルテージが上がった。
ところが間の悪いことに、ひでを宗匠が句の講評中だったもので、「おいおい、歌は勘弁して
くれよ。おれの話を聞かないならやめるよ」と咎められた。よろこぶ&木の葉のデュエットは止 んだ。
横浜中華街加賀町警察署前
楽園のかなしみ夏のテレサ・テン 木の葉
木の葉さんのために弁護すれば、横浜の街が歌心をそそったのだろう。彼女は、馬頭琴に
親しんでいるように音楽の感性が豊かなのだ。夏の横浜は、音楽無しではいられない。
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