2015年11月神田川?隅田川周航吟行記
       平成二十七年十一月十八日(水)    一二三壯治 記

■日本橋から船に乗って

 「お江戸日本橋七つ発ち」と謳われ、昔は五街道の起点でもあった日本橋は、高速道路に覆
われて以降とんと冴えない。東京市時代は日本橋区と称し、一大商業地であった面影も変化し
つつある。「コレド日本橋」などが文明進歩の競争を勝ち抜こうと、豪華と綺羅とを極めている
ばかり。
 かかる喧噪に背を向けて、古き良き江戸・東京を訪ねんと日本橋南詰に集いしはセミの会の
紳士淑女五名。遊覧船「カワセミ号」に乗り合い、隅田川から神田川を巡る計画である。船をタ
イムマシンに変えて、しばし筆者の懐古趣味にお付き合い願いたい。

   冬ぬくし遊船で行く神田川      ひでを

 今回の吟行は、ひでを宗匠の数寄心から企画された。隅田川もかつて「上り下りの舟人」蝟
集する水運の大動脈。比して神田川はそもそも上水の流れで、その多々ある一支流に過ぎな
い。舟を入れるとは珍しく、宗匠ほどの粋人ならば、あの深い茗渓の谷から御茶ノ水橋、聖橋
などを見上げたいと望むのは無理からぬこと。物見高いのはセミの友のみならず、有閑世代
の団体がコンシェルジュとかコーディネーターとかの先達で、どどっと先に乗り込んだ。

   遊覧の船に黙した冬着客      かおる

 座席は屋内と屋外とにあり、後から乗船の我らはおのずと外に押し出された。天候は曇り。
今にも降り出しそうである。ビニール張りの屋根を通して、灰色の空と高速道の橋脚とビル街
とが辛うじて視野に捉えられる。
 出航は午後二時近い。野村證券本店裏を川下へターンし、江戸橋、鎧橋と潜り抜けて進む。
途端にスピーカーからガイドの音声が流れて来た。

   こがらしに札束ちるか鎧橋      風天子

 日本橋の歴史は商業・金融の中心地として華々しい。北斎の『富嶽三十六景』中の「駿河町
三井見世略図」は、現金(当時江戸は銀本位で現銀)取引を日本で最初に始めた三井家越後
屋呉服店を描いたもの。そこは今、三越デパートや三井記念美術館などが建ち並ぶ界隈だ。
南側の兜町には、渋沢栄一が設立した旧第一国立銀行(現みずほ銀行)跡や東京証券取引
所などが林立し、日本のウォール街ともシティとも呼ばれる。
「東証のビルはどれ? 見たことがないの」と、かおるさんが身を乗り出したのは意外だった。
あるいは、建築として興味がおありなのかもしれない。
 金融の街が遠ざかれば、世俗を離れる感ひとしおとなる。船は、物凄いエンジン音を立てて
日本橋川から隅田川に入った。間断ないガイドの声と重なって、人に会話の自由を許さない。
ひねくれ者の筆者は「そんなに丁寧に教え込んで、後でテストをするんじゃあるまいな」などと、
疑心の暗鬼になって角が生えて来そうだ。今や知りたいと思えば、ネットで調べられない知識
はない。そんな情報の洪水から逃れたくて、ひととき船に乗って世俗を離れようというのに…。

   大川へ出て遊船の揺らぎたる    夢

 隅田川は、江戸人に「大川」と呼び慣らわされた。今でも「大川端」と粋に呼ぶ人もいる。「大
川に舟を泛かべて…」とくれば、落語『あくび指南』である。「ちょいと船頭さん、舟を沖ィやって
おくれよ」などと、ゆったりした舟遊びの体であくびの稽古をしようというのだから、船での吟行
よりもはるかに無為で「究極の遊びはそれか」と、ますます江戸人が羨ましくなる。
 隅田川を上って最初の橋は清洲橋。東岸は清澄、深川界隈である。赤い幟のひるがえる芭
蕉稲荷神社(深川芭蕉庵跡)が見えた。

   芭蕉庵見えて川より時雨れけり    壯治

 かつての深川は海近く、櫓の声がしきりに聴こえた。〈櫓声波を打てはらわた氷る夜や涙〉の
絶唱に、俳諧道を極めんとした翁の気迫がほとばしる。岸辺に庵を結び、蕉風俳諧の〈わびさ
び〉を深めていった。今日、俳句隆盛とまでは行かないまでも、なんとか露命を繋いでいるの
は、やはり俳聖芭蕉翁の遺産に負う所が大きいのではないかと、改めて掌を合わせたくなる。
「私めの逸脱的な〈かろみ〉も、どうかご容赦あれ」と。

■橋の下には神田川

 船は両国橋を過ぎて左(西)へ舵を切り、神田川に入った。川幅は、同形の船が三艘も並べ
ば一杯になるほど狭くなった。釣宿の前に、数艘の船が舫ってある。柳橋、浅草橋の辺り。

   釣宿の静かにありて冬の川      ひでを

〈ハゼ釣り〉で東京湾の釣船に乗ったことがある。河口はミネラル豊富な川水が海に流れる入
江で、魚が集まり絶好の漁場となる。「江戸前」の魚が美味なのは、それも条件の一つである。
今は護岸工事のせいで、ミネラル豊富とはいかない。
 神田川は神田上水を母体とする。現井の頭公園の井之頭池を源流として、善福寺川、妙正
寺川などと合流して小石川関口大洗堰に至った。芭蕉翁も桃青の俳号で頭角を表し始めた三
十代の頃、口を糊するために上水の改修工事に従事したらしい。関口芭蕉庵はその名残。
翁、よほど水辺が好きと見える。穿った見方をすれば、水に神韻を求めたのかもしれない。
〈蛙飛込む水の音〉を得たのは、その一念ゆえか。江戸っ子が「水道の水で産湯を使った」と
自慢できたのも、神田上水の恩恵である。
 風天子さんが「神田川祭の中をながれけり、か」と、久保田万太郎の名句を口ずさんだ。ご本
人も深川育ちで、作家の池波正太郎氏などともお付き合いが深かった。神田川には、うたかた
のようにかつ消えかつ結ぶ思い出があろうと察する。陰徳の紳士は、それを語らない。 

   秋深し万世橋の赤れんが       風天子

 美倉橋、和泉橋、総武線の鉄橋を過ぎて万世橋。「赤れんが」は明治の欧化主義を象徴す
る。正確に言えば、「旧万世橋駅」の赤れんが駅舎である。新しい東京駅舎が赤れんが造りの
構造美を継承したように、旧万世橋駅も集合商業施設〈mAAch ecute(マーチ・エキュート)〉
として蘇った。表側は交通博物館。赤れんがもまた「明治は遠くなりにけり」の感を深めさせ
る。
 船が進むにつれて、両岸が高くなる。地上を歩いていても、銭形平次が女房おしづと暮らす
神田明神下(フィクションながら)辺りから明神社、湯島聖堂の方へ向かって急激に迫り上るの
がわかる。駿河台の名が、その地形の特徴をよく表している。船に居る方は、逆に谷底を這う
ような気分だ。

   艀より見上ぐる冬の巷かな   かおる
   はしけ

 昌平橋、聖橋を過ぎ、JR御茶ノ水駅の長いホームの下に差し掛かった。頭上を総武線と地
下鉄丸ノ内線の電車が交錯して走っている。駅ホームの崖には頑丈そうな足場が組まれ、ヘ
ルメットを被った技術者や鳶職風の男たちが行き交う。崖崩れを防ぐ補強工事とも、駅全体の
リニューアル工事とも知れない。ともかく土建国家は、依然として槌音を絶やしそうにない。 

   茗渓に泛かべる船と茶の花と    壯治

 対岸は、外堀通りに沿った街路樹林。通りを挟んで向こう側には、東京医科歯科大学、順天
堂大学付属病院が建っているはずである。この一帯が江戸東京の文教エリアとして発展した
のは、湯島聖堂が核として置かれたからだろう。地図を思い浮かべてみると、神田川をさらに
遡っても水道橋、飯田橋、早稲田辺りまで文教施設が多い。かぐや姫のフォークソング『神田
川』に学生時代を重ねてしまうのは、川沿いのどこかで学び暮らした筆者と同年代の人々であ
る。
 船は、御茶ノ水橋前で大きくUターンした。

■今は昔の語り草

 再び大川に入り、船足が速くなった。川幅しだいで制限速度が変わるのかもしれない。蔵前
橋が最初の橋である。蔵前に差し掛かると、今も白壁やなまこ壁の蔵が並ぶ。かつて幕府の
米蔵があった。それが家来たちの扶持米(ふちまい)になり、札差で換金された。
 そうなると、池波正太郎の『鬼平犯科帳』など小説世界が現前する。「ある所にゃあ、お宝が
唸ってるぜ」と、盗人仲間が舟遊びを装ってひそひそ話。

   白波やこの冬どこの蔵破る    壯治

 芝居でも「白浪物」が流行ったのは、何か割り切れない胸のもやもやを晴らしたい庶民感覚
からだったろうか。
 続いて厩橋。元禄時代頃から「御厩の渡し」で知られた。

   冬の日や馬の渡しが銭二文    ひでを

「銭二文」は、かけそばが十六文(五百円足らず)から計算して、五、六十円というところ。主に
運送用なので、薄利多売だったのだろう。ちなみにNHK大河ドラマ『真田丸』ではないが、六文
銭は三途の川の渡し賃とされる。それより安い。そのせいではなかろうが、渡し舟の事故で多
数の死者が出た。橋の完成は、その直後(明治七年=1874)のことだった。 
 吾妻橋が見えて来た。
 
   百合鴎群れて翔び交ふ吾妻橋     夢 

 百合鴎は別名「都鳥」。つとに有名なのは、「昔男ありけり」に始まる『伊勢物語』の名歌〈名
にし負はばいざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと〉。歌にちなむ名所として、言問
橋、吾妻橋(わが思ふ人から)がある。
 夢さんは関西に長く住まいされた、と聞いている。奈良や京都の話もよく伺うせいか、夢さん
のイメージする「昔」は奈良、平安時代ではないかと感じる。「いにしへ思ほゆ」「昔の人の袖の
香ぞする」懐古の歌の世である。
 上方から見れば、江戸は十七世紀以降に発展した新興地にすぎない。草深く住む人も「東夷
(あずまえびす)(東の蛮人)」であり、歌心を知らない≠ニいう偏見を都人が抱いたのも想像
に難くない。

   橋幾つくゞり冬の日使ひ切る    夢

「橋の下をたくさんの水が流れた」とは、映画『カサブランカ』でピアノ弾きのサムが言う台詞
で、時が流れた(アズ・タイム・ゴーズ・バイ)ことを暗喩した。我らも「橋の下」を往来して、時の
旅人に身をやつした。船は言問橋を潜らず、帰帆の景を描き初める。空は暗さを増し、雨がそ
ぼつき出す。

   大川の電飾しるきカフェーかな    かおる

 丁寧なことに、音声ガイドは復路も同じ解説を繰り返す。もう何も耳に入らない。一時の夢想
から覚めるのを待つばかりである。船はほぼ定刻通り日本橋南詰に着いた。
 陸に上がると、河童のように気力が失せた。予定していた〈貨幣博物館〉や〈三井記念美術
館〉の観覧は取り止めた。老舗の喫茶店に入り、一休みする。宗匠がお好きなラグビーの話な
どを楽しんだ。風天子さんが、全員のお茶代を引き受けて下さった。

 句会場は中華料理の〈小洞天〉を予約していた。まずビール、次に紹興酒のお燗で舌を潤
し、シュウマイや種々の炒め物などを盛大に食べた。締めの炒飯まで、飽くことを知らない古き
良き俳友たちである。











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