芝離宮・浜離宮庭園吟行記

  平二七年三月一八日(水)    初山風天子記


  三日前の天気予報では雨だった。ところが当日は薄曇り、ときに青空ものぞく。しかも春本
番を思わせる暖かさ。この日東京の最高気温二一・七度。吟行日和だ。ついていたと思う。
 この日の吟行、最初は日本橋を起点とする神田川クルーズのはずだった。一二三常任幹事
所用のため、あらかわゆきこさんが手配してくださったのだが、船就行条件の人数が集まらな
かったようで、直前になって船会社から中止の報が入った由。
 宗匠と相談の上、急遽吟行の行先は芝離宮庭園と浜離宮庭園に変わったとの連絡が来た。
臨機応変、「セミの会」の自由闊達ぶりはまことにお見事なもの。
 午后一時三〇分、芝離宮庭園入口に宗匠はじめ六人が集まった。宗匠、ありふみ、建一
郎、かおる、ゆきこ、風天子。
 実は入園直前、異変があった。ゆきこさんがケータイを電車か駅かに忘れてきたらしいという
のだ。青い顔をして浜松町駅まですっとんで行ったゆきこさん、間もなく戻ってきた。
「あった、あった」とホッとした声。
「浜松町の駅員が、ためしに電話をかけようということになったら鳴っているじゃないですか、私
のバックのなかで」
 なにかふだん入れたことのない筆入れの中にしまいこんだらしい。
「駅員は一日何十件もケータイをなくしたとの問い合わせを受けているんだよ。探し方は手慣
れたもんさ」。宗匠のひと言でケリ。
「セミの会」同人諸氏、くれぐれもケータイ、スマホにはご注意あれ。
 庭園はなかなか広かった。四万三千平方メートル。
 JR浜松町駅から徒歩三分。都会のまん中にこんなオアシスがあるとは。
 入場料がまたバカに安い。六五歳以上、一人七〇円、年間パスポート二八〇円。
 もとは紀州徳川家の屋敷があったが、明治になって有栖川宮家の所有となり、その後宮内
省に移る。大正一二年(一九二三年)の関東大震災でほとんど焼失、翌一三年昭和天皇の御
成婚記念として東京市に下賜され、庭園の整備、復旧をととのえ、同年四月一般公開されたと
解説書にはある。
 中国の杭州にある西湖の堤を模した石造りの「堤」、仙人が住み、不老不死の地といわれる
中国の霊山を模した「中島」、庭園の要となる九千平方メートルの池「大泉水」、山峡を流れ落
ちる滝を思わせる「枯滝」など。
 池をめぐり、堤を歩き、満開のウメの花を賞で、一同春の息吹を満喫する。
 途中、黒人先生に引率されたチビッコたちの一群と出会う。池をのぞきこんでは口ぐちに「コ
イがいる!」。緋鯉、真鯉、かなり大きい。


    大鯉の動き出したる四温かな    ひでを 


    知らぬ顔弥生半ばの池の鯉     建一郎


 鴨もまた池の主人公だ。眠たげに、ゆったりと、群れをなして遊んでいる。風もなくおだやか
な水面(みのも)。 


     帰る日の近しや鴨の身繕ひ     ありふみ


 遊歩道を行くと小高い丘あり。のぼれば四方なかなかの景観。遠く隅田川口あたりの船の汽
笛が長く尾を引き、きこえてくる。


     早春や小山に大将四人立つ     かおる


 ウィークデーの午後、けっこう参観者がいるなかに、カップルの外国人も目立つ。


     春の園外国人(とつくにびと)の影多し   風天子


 花のそろった庭園でもある。ロウバイ、スイセン、ユキヤナギ、サルスベリ、ボタン、アジサイ
などなど。なかでも手入れの行き届いた大きな藤棚が見事だった。五月の最盛期、いちど見た
いものだ。春浅く、ウメだけが満開だった。


      自然木と思えぬ春のさるすべり    ひでを


      品川に土筆のびのびありにけり    ゆきこ


      梅散るや東京湾の香をのせて    風天子


  この見事な庭園も、やんぬるかな、まわりは、三〇階、四〇階という高層ビルに囲まれてい
る。しかし、見方を変えれば。


       ビル街を屏風に仕立て春庭園     ありふみ


 小一時間、散策を楽しんだあと、浜離宮庭園にむかうことになる。距離にして一キロほどだ
が、街の喧噪につつまれる。林立する高層ビル、高速道路の騒音、烈しいクルマの往来…
…。信号をいくつか越えて、一同無事、浜離宮庭園の裏門にたどりつく。
 こちらも都内屈指の名園だ。芝離宮にくらべるとぐんと広い。面積二五万平方メートル。東京
ドームの六倍だ。東京湾に近いため、海水を引き入れ、潮の干満によって池のおもむきを変
える潮入りの池が名物だ。
 もともとは徳川将軍家の庭園。鷹狩場として使われ、歴代将軍が改修工事を重ね、一一代
家斎の時代に現在の姿になったという。昭和二〇年一一月、東京都に下賜され、整備ののち
翌年四月から一般公開された。
 入園料は六五歳以上一五〇円、年間パスポート六〇〇円。
 三〇〇年の「松」、中島の「お茶屋」、江戸期につくられた「鴨場」、総ひのきつくりの「お伝い
橋」「ボタンとお花畑」など、回遊式庭園の特色で、来場者が歩きながら自然に楽しめるように
なっている。
 こちらもまた花がそろっている。ロウバイ、ウメ、スイセン、ナノハナ、ハクモクレン、ソメイヨシ
ノ……。


    梅の香の残りてゐたる浜離宮   ひでを


    咲きそめの桜に向かふ乳母車   かおる


    潮風をもたらす先の梅の香や    ゆきこ

 
 やはり潮入りの池が圧巻だ。広くて、水量豊かだ。セイゴ、ハゼ、ウナギなどが棲んでいると
いう。


    春潮を入れてなごめり池の水      建一郎


 とにかく広い庭園だ。鷹を使ってのお狩場。将軍お成りのもと、勇壮の気がみなぎっていた時
代があったに違いない。


   鷹のゐた庭に集まる雀の子    かおる


 庭園内を散策し、たどりついたのが東端にある船着き場。浅草行の通称「水上バス」の発着
場。
「船に乗ろうよ」。だれともなく声が出た。一同、むろん大賛成だ。
ちょうど一六時一五分発の「最終バス」に乗ることができた。
 花見シーズン一歩手前、船内はガラガラ、われら六人組の独占だ。一階席、川面すれすれ、
水しぶきが飛び散るさまを満喫できる特等席に陣どる。


    はからずも大川のぼる春ゆらり     建一郎


「春のうららの隅田川……」か。特製「隅田川ビール」と名のる地ビールがまたウマイ。


    大川のひかりやさしき春日かな     風天子


 勝鬨橋、永代橋、清洲橋、新大橋、ここで隅田川はほゞ直角にまがる。はるか右手にかつて
吟行でおとずれたことのある芭蕉庵史跡展望園がちらりと見えた。両国橋、蔵前橋、厩橋と舟
は快適に進む。


     忙中閑水上バスの日永かな       ゆきこ


 橋を下から見ると、鉄筋のはげた部分、いまにも匂ってきそうなペンキ塗り立ての橋脚、カラ
フルな色調とあいまって、なかなかの眺めだ。
 何年ぶりだろうか。久しぶりに見る隅田川両岸の景観はすっかり変わっていた。
 ビル、ビル、ビル……。マンションか、オフイスか、林立する高層ビル群。壁面に並ぶ無数の
窓。日本経済繁栄のシンボルかもしれないが、建築物のデザインからいっても、都市政策から
いっても、おおいに課題ありだろう。
 川沿いに走る遊歩道の緑が、わずかな救いだった。


    川べりを駆ける人ゐて柳ゆれ      かおる


 すべるように船旅四〇分。都心を一直線に切って吾妻橋に着く。浅草だ。
さてどこで句会をやろうかということになった。かおるさん、ゆきこさんがアイ・フォーンをあやつ
り懸命に会場を探す。いくつかの店に当たってみたが、いずれも予約満席。ときは三月半ば、
人事異動、転勤などで、歓送迎会はなやかなのだろう。
でもついに探し当てる。われらアナログ族からみると手品師のような早業だ。
 浅草一丁目一番地、観音通りに面した「志婦や」という小料理屋。カウンターに常連が並ぶ
小さな店だが、奥に小あがりのタタミ席があった。六人ならぶとせい一杯。
 まずは突出しのコンブのつくだに煮。これがまた絶妙にうまい。ビールで乾杯、そして酒の注
文。表の看板に「鳥、貝、魚」とあったが、豪華≠ネ料理があとからあとから出てくる。ホタル
イカ、カツオ、サヨリ、青やぎのヌタ、ナノハナ。さらにヤキトリは、ツクネ、モツ、テバ…。うま
い、うまいの声。
 やがて句まわし。なごやかな至福の雰囲気のなかで、春の宵の時間はあっという間に過ぎて
いった。


      春浅しされど浅草初松魚        ひでを


 席上、数年前、浅草の「アリゾナ」という店で、句会をやった話が出る。永井荷風の愛した店
だ。
 当時出席していたマイクさんが、「この先の路上で荷風に会ったことがある」といっていたこと
が話題に出る。早速一句。


      春おぼろ雷門を荷風ゆく        建一郎


   








トップへ
トップへ
戻る
戻る