その56〜その60

その60
 「サッカーワールドカップの覚めたサポーター」

 サッカーW杯の余韻はなお続いているようだが、ドイツ対アルゼンチンの決勝前日の朝日新聞(B面)に興味ある読者調査が載っていた。この大会での日本代表の結果予想を大会の始まる前に2千人以上に聞いているのだが、なんと40パーセントのひとが「一次リーグ敗退」を予想していたのである。
 16強入りを予想したのは41パーセント。この人たちは予選は通過しても決勝トーナメントでは1勝もあげられないと見ていたのだ。つまりは81パーセントのひとは、新聞の騒ぎぶり、テレビのわいわい、ぎゃおぎゃおにくらべてずいぶんと冷静だったといえるだろう。
 ついで、8強入が8パーセント。4強入3パーセント。優勝ー3位の「ウルトラサポーター」は2パーセント。優勝の単独パーセントは出ていないので本田選手の心意気に感じ入って優勝を予想した人数は不明だが相当に少なかったわけだ。
 日本があっさり負けてしまったので、その後のテレビ観戦は、愛国心という厄介なものから解放されてこころから愉しむことができた。
 それにしても眠かった。




  サッカー果て夏の朝の深眠り   ひでを



その59 「ライオンバス」 

 多摩動物公園のライオンバスが始まって50年になり、記念行事がいろいろ行なわれていると聞いて、その開業の日の、とんでもない思い出がよみがえってきた。副編集長の言う「ライオンに喰われても良さそうな奴」に選ばれた駆け出し記者のわたしは、さらに一歳若いカメラマンともども動物園に出掛けたのであるが、そこでほんとうにライオンに喰われそうになった!
 バスと同じようにライオンのいるところに車で入りたい、と事前に動物園と掛け合ったのだが「危険すぎる」と断られていた。それで塀の外からバスとライオンの絡みを狙うべく重い望遠レンズをかついで行き、塀の内側を見下ろすと、なんと普通の乗用車がバスの道に居て白ワイシャツの男が写真を撮っているではないか。
 わたしにはダメと言っておいて、 これはケシカラン。急ぎ事務所に駆けつけ文句を言うと係員が「あれは林園長です」だから仕方がないと言う顔をした。
 林寿郎さん。上野動物園の名物園長。多摩動物公園の園長も兼務されていたようだ。 
 林園長と聞いて、わたしはシメタと思った。林さんとは面識があり、居酒屋でもお会いしたことがある。すぐに塀の出口に飛んで行き、林さんの車をつかまえ、カメラマンとわたしを乗せてもう一度、塀の内側へ戻ってくれるよう頼むと二つ返事でOKだった。
 車で あちこちしてアングルを探していると「迫力のある写真にはなりそうもないようだから、わたしが車から出てライオンの前に出ますから撮影したら」と林さんが言い出し、「これ位の距離なら大丈夫。後ろの方を見張っていてくださいよ」と言うような言葉を残してボンネット方の前の方に行かれたのである。
 この人は、冒険好きで好奇心いっぱいの少年がそのまま大人になったような人だとかねがね思っていたけれど、この時いよいよ強くそう思った。
 つぎに、「今日のライオンは元気がないようだ」みたいな事をつぶやくとエンジンをふかしブーブーとクラクションを鳴らして、ライオンを追い立て始めたのである。ここまでは、すべてはまことに快調だった。
 ところが、開園したばかりで土がよく固まっていなかったのか、車輪が空回りして車は全く動かなくなってしまった。
 「まあ、そのうち誰かが気づいてくれるでしょう」林さんは悠然たるものである。   
 そして「これでも呑んでいて下さい」と言うと、ダッシュボードからウイスキーの角瓶をとりだした。わたしは、さっそく封を切り小さなフタでチビリ呑んで、あたりを見回したがライオンは幸い我々に関心がないようだった。そう言うと、林さんは、木々の奥の方を指差し、あそこに居るのがボスでこちらを伺ってますよ、と言う。
 そのボスの名をフジオと言われたように思うのが、記憶ははっきりしない。
 そのうちに大きなのが一頭、わたしのいる側の窓の近くにやって来ると座り込んでしまった。窓との距離は3、4メートルと思っているけれど、実際はもっと遠かったのかもしれない。車にも窓にも防護装置はしていない。
 「これは若いから好奇心が強いんだ」と言いながら、なにか取り出して見せ「これは麻酔弾でね、動物に打ち込むとすぐ眠ってしまうんだ」とおっしゃるので、「ではお願いしますよ」と言うと「弾はありますが銃はないんで……」。わたしはまたウイスキーをゴクリ。
 「まあ、こいつはおとなしい奴だから大丈夫でしょう」と林さん。「では安心ですね」とわたしが言うと、「しかし、これがひょいと車に飛び乗ったら屋根がもちますかね。耐えられんでしょうな」などとおしゃる。で、わたしはライオンの方は見ないようにしてまた一口。
 塀の中を回っているライオンバスの運転手さんがわたしたちが陥っている異常な事態に気がついてくれたのは、何周目だったか、メモ帳を破いた4枚の紙に「タ」「ス」「ケ」「テ」と書いたのを視認してくれたのか、などのことはすっかり忘れてしまった。ただ、運転手さんがこっくり首を縦に振った姿は、今も憶えている。すぐに檻のような作業車が来てワイヤーで引っ張り出してくれた。
 塀の上には野次馬がいいっぱい居たが、きっと競技場に集まる古代ローマの無産市民のような気分だったに違いない。
 無事に「救出」されてみると、これはなかなかの話ではないか。大ストーリーを書くべく勇んで社にあがり、一席ぶちはじめたら、「そんな武勇伝は酒でも呑む時に、ゆっくり伺うよ。それより原稿急いで急いで」と副編集長に言われ、記事は「ライオンバス開業」を伝えるだけの通り一遍のものに終わった。
 この体験話など大したものではないが、「記者稼業」というものは大なり小なり「鼻歌まじりの命がけ」( ずっと後になって聞いた先輩の言葉)というものでありましょう。
 それにしても、あれから50年――。



  動物園にシルバー料金新樹光   ひでを





その58 「聖五月」

  「わたしは、あの世にいて今この世に来ている夢をみているんだ」と久しぶに会った友人にわたしがしゃべっている夢を見た。あたりは新緑にもえて、妙に赤い泥の道がつづいている。川に沿っているようだった。
  夢はそれだけだったが、きわめて心地よい目覚めだった。

  天体物理学の杉山直名古屋大学教授の「宇宙の始まりの前?」というおもしろい一文が東京新聞(2 月18日)のコラムに載っていた。この教授にしても、130億歳になるこの宇宙 の始まるその前はどうなっていたのか、と聞かれると本当に困るという。息子さんが小学生のころしつこく聞くので、「わからんから聞くな」ときびしく言ったのだそうだ。ところが、息子さんは教授の講演会にもぐりこみ堂々と手をあげて「宇宙の始まりの前はどうなっているのですか」と質問したのだそうだ。
  「このときには、本当に困った」と教授は書いているが、まことに立派な小学生というべきであろう。
 そのコラムからしばらくして、「宇宙の始まりが見えた」というニュースが世界を駆け巡った。なんでも「米国が南極に据えた望遠鏡で、宇宙がうまれたときの『信号』をとらえたと発表した」(朝日新聞4月 21日)から大変だ。世 界の物理学者が色めき立つのは当然として、新宿あたりのバーでも「宇宙の始まりが見えるなら、それはどんなところで起ったのか解るはず。つまりは別の宇宙も見えせんか」と落語の八っさん熊さんが物知り顔のご隠居に迫る根問いに似た話で、連日盛り上がっているのである。(でもないか!)



  目覚めれば聖なる五月を疑はず    ひでを
 
 イ ン フ レ ー シ ョ ン
 宇宙の急膨張ナンジャモンジャの花が咲く   〃





その57 「にしん・その2」

 人と待ち合わせをしたのだが、だいぶ早く着いてしまったので商店街をぶらぶらしていると、一軒の魚屋に今まで見たこともない大きなニシンが一匹、関西風に縦に寝ていた。数の子も破裂せんばかりに膨らんでいる。加工品とあるのはすこし干してあるからだろう、と考え買ってみることにした。
  あくる日、苦労して焼き上げ、まず数の子を取り出そうすると簡単に出てきたのだが、腹の奥に白いものが見える。これをはがして、そっと舐めてみると白子の味がした。ははーん、入れ替えやがったな。いま捨てたばかりの包装の袋にある説明を読んでみると、ニシンの身はロシア産、卵はカナダ産、加工は北海道何々町と小さい文字ながら、ちゃんと書いてあった。露加日合作の作品である。どことなく面白くなって、美味しくいただいたのである。

 いささか古今伝授みたいな話だが、春告げ鳥はウグイス、春告げ草(グサ)は梅、では春告げ魚は?といえばニシン。俳句の季語でもあるけれど、春告魚と書いてハルツゲウオと読ませる句には、あまり出会わない。音(シラブル)が嵩張るので扱いにくいからかもしれない。
 今人気のテレビ「吉田類の酒場放浪記」は吉田氏の俳句も出てきて愉しい。先日の句に春告魚という文字が画面に出てきたが、ナレーターはやはりニシンと読んでいた。
 また、 春を告げる魚は、地方によって様々だというのも、俳句には、あまり使われない理由かもしれない。しかし、ニシンこそ春告魚と書いてハルツゲウオと呼ばれるのに、一番にふさわしい魚だとわたしは思う。
 海一面を白子が白く染め、巨大な魚群が岸に押し寄せるなんて、豪快で、北国の長い冬が、いっきに、力いっぱい春に雪崩れ込んで行く感じがするからだ。 だが、 この ような群来は1950年代にはいって急に減りはじめ、ほとんど消滅したといわれた。
 きのう偶然、押入れの中から見つかった、今を去ること半世紀も前のアサヒグラフに「幻のニシン漁――冷凍魚使った『実演』」という記事が載っていて、「北海道は小樽市祝津の前浜で、15年ぶりに『ニシン漁風景』がみられた。が、実はこのニシン漁、小樽市の開基100年を祝って、ベーリング海産の冷凍ニシン使っての実演」とある。
 久しぶりに舟を引き出した船頭やヤン衆たちは、腹の底からソーラン節をはやしながら沖合150mに漕ぎ出し、冷凍ニシンを汲みあげたのだそうだ。見物客の一万人を超える人びとも船頭やヤン衆と共に、「おそらくは再び帰って来ることのない、はなやかで威勢のよかった昔」を偲んだとある。(1965年7月16日号)
 ところが、この祝津をはじめ北海道の各地で、ここ数年、群来が見られるようになったという。まことに、嬉しいことだ。
 一昨年の北海道新聞の動画サイトには、小樽沖に現れた「白き海」を空撮しているし、昨年、小樽市祝津の「にしん群来祭」の様子をも伝えている。小樽沖に現れ た「白き海」を空撮しているし、昨年、小樽市祝津の「にしん群来祭」の様子をも伝えている。祭りでは、浜で焼かれた1000匹のニシンが振舞われたそうだ。

 先の「ニシン その1」で紹介した司馬遼太郎さんの「街道をゆく」には、「(オランダでは)春一番に獲れたニシンを、江戸っ子の初鰹のように縁起ものとして食べ、その食べかたも、古式(?)にのっとり、シッポをつまんで、大口をあけて、ほとんど生で賞味するのである。」というくだりがある。そして、「春一番のニシンは、女王陛下にも献上する。」のだそうだ。



 海白し春告魚の来たりけり   ひでを





その56 「にしん・その1」

  私はニシンが好きだ。たいていのビヤホールにはニシンの酢漬けが置いてあるのでよく注文する。スペアリブなどのあとに食べるのが実によい。
  もう七年前になるか、ラグビーワールドカップのパリ大会に行った時、準決勝と決勝の間を利用してネーデルランドを汽車でひとり回ったことがあった。美しく保存された運河の街 ブルージュでは小さなボートや徒歩で路地から路地をへ巡り、いささか疲れ、ではカフェで一休みと思い始めて、店の看板をみていたら、英語とはスペルが二箇所ほど違うが、どうみてもニシンと確信できる文字にぶつかった。
  急に司馬遼太郎さんの「街道をゆくーオランダ紀行」のなかの鰊学校の章を思い出し、テーブルに着くとすぐニシンの酢付けとビールを注文した。
  鰊学校には、オランダ人が小さな舟を操って荒海の北海漁場にのりだし、15世紀最末期に簡便な船上保存の方法が発明されるとイギリスからスカンジナビヤ諸国までニシンを売りまくるようになり巨万の富を得て行く話が書かれていて興味深い。(いま読み返してみると、司馬さんは科野孝蔵氏の「オランダ東インド会社の歴史」を引いて「(ニシンによる)収益は「年間300万ポンド以上」だったといわれ、さらにその額は、当時、イギリスの有名な毛織物産業の輸出価格の総計にも匹敵した」と記されている。
  北海での勇壮な漁によってもたらされた富とそこで培われた操船技術がやがて貿易立国オランダを出現させ、遠くわが国にまでやってくるようになったのかと思いつつ、ぱくつくこのニシンにもその頃と同じDNAがあるのだろうなどと考えるとちょっと愉快だった。
  料理ばかりでなくベルギーのビールはすこぶるうまい。それに種類も多くて楽しい。ところで、司馬さんの書いているのはオランダのことであって私の坐っているのはブルージュのレストランであるからオランダではなくベルギーであることに、ようやく思い至ったのは少なくともジョッキ一杯は飲み干してからである。ま、しかし、どちらでもいいではないか、というのは乱暴過ぎるか。
  旅に出るとき私はいつも小型の電子辞書を持って行く。そのときも見たと思うが今ベルギーの項をだしてみると「近世初頭オランダに合邦、1830年独立」とある。この辺りの歴史も大変複雑だし、ニシンとは関係ないだろうから深入りはやめて置こう。
 
  ニシン漁といえば、映画の「ジャコ万と鉄」(1949年谷口仙吉監督作品)を思い出す。戦後のまだテレビのない時代、校庭や空き地にスクリーンが立てられ、映画がよく上映されたものだ。風が強いと時に画面が波立つのだが楽しくはあった。何度も見たので良く覚えているのが、若き日の三船敏郎が主演したこの映画だった。舞台は北海道のニシン場である。 
  圧巻は群来(くき)の場面。漁船はもちろん浜全体ががニシンに埋まっている。ストーリーより食べ物があんなにたくさん海から揚がってくるというのが感動的だった。事実、「主食」としてニシンが配給になった日もあった。一人二匹。その夜は蛋白質にありついたというわけだ。(その2)に続く。
 


  渡り漁夫魚待つときは酒を呑む   ひでを
 






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