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久しぶりに近くのプールに行ったら、入口に大きく「刺青・タトゥー露出厳禁」と書かれてあった。それで思い出したのは立派な刺青をしたおっさんのことだ。もう相当むかしのはなしだがここでよく泳いでいた。でっぷりとしたからだで背中はもちろん二の腕から膝まで入れていた。さすがにクロールはなかなかで背中に背負った観音さま(あるいは天女だったか)に恥をかかせることはなかった。
あるとき五分間の休憩時間のとき、 かわいい五、六歳の女の子がふたりおっさんのところに駆け寄ると「おじさんの背中きれいね、触ってもいい?」と聞いた。
そのときのおっさんの顔が忘れられない。いつもはあたりをねめまわしている感じの貫禄十分の人であるのが、この時ばかりは相好を崩し、脚をくの字にして頭に手をやり照れに照れていた。おもしろい風景であった。この十年ばかりは見かけないおっさんである。
子供の頃は銭湯に行くとこういうおっさんをよく見かけたものだ。そして友達とはしゃぎ過ぎたり、お湯を勝手にぬるめようとしたりするとジロリ睨まれるのであった。トビの頭でやはり倶利伽羅紋紋の恰幅のいいひとの一家が隣組だった。
ある朝、学校に遅れないよう、あたふたと飯をかきこんでいると勝手口に頭がぬっとあらわれ、「これ返すよ」というと紙袋をさしだした。受け取ると親分はニコリともせず背をむけて「あの馬鹿が・・・」とわたしは記憶しているのだが、そんな理解不明の言葉を残して消えてしまった。中身は沢山のビー玉であった。
実は、その前日、親分の息子であるわれらがガキ大将にゲームで負けビー玉をまきあげられていたのである。それを返しに来てくれたのだ。しかもわたしのビー玉はぜんぶラムネの玉のように味気ないものであったのに、袋から出てきたのは赤や黄、青の色の付いたのや星が透明ガラス の中に入ったものなど素晴しいものだった。みな戦争前に作られたものであろう。暫らくはわたしの宝物であった。
「あの馬鹿が・・・」という言葉は、自分の息子が中学生にもなったのに、まだ小さいガキどもを集めてビー玉なんぞやっていることへの親の気分のあらわれだったのだろう。しかし、それにわたしが気がついたのは、ビー玉がもう思い出の隅に追い遣られたあとのことである。
近年は若い人のあいだでも小っこい刺青を入れるのが流行っているようだ。吟行で東京郊外に行ったときタトゥーの店の前に若い男女がたむろしている光景に出会したこともある。わたしは女性が夏服の肩口や胸元から極彩色の花や鳥などをのぞかせているのを見て、タトゥーと日本語でいうものは、刺青と違って簡単に消すことができるものと思い違いをしていた。「格式」は違うにしろ、タトゥーも刺青と同じと知ったのは最近のことでびっくりだった。
ところで、先日の新聞に温泉旅館が刺青をしたポリネシア系ニュージーランド人の大浴場への入浴を断ったという記事がのっていた。グローバリゼーションのなか異文化を持つ人たちへの「お・も・て・な・し」はどうなっていくのか興味深いところだ。
煤逃げの湯舟に沈む龍天女 ひでを
こういう光景はもう見られなくなっているのだろうか。
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東京・日比谷公会堂の軒を借りての雨宿り。大粒の雨にすごい風。公園散策の人に自転車の若者、図書館帰りの中年女性も駆け込んでくる。それにしても馬鹿な判断をしてしまったものだ。
友人と松本楼で昼食をとったのだが黄葉があまりにも美しいので、コーヒーを外のテーブルで、と係りの人に言ったら、さきほど雨がパラパラときましたが…というのに、二人とも傘が無いことに思い至り、だだちに店を出て地下鉄に繋がっているビルのコーヒー屋をめざすことにしたのである。
ところが外に出ると日差しはないが空は明るい。日比谷公園のもみじは、全体としては大したことは無いが銀杏やプラタナスの高木の下に来るとなかなかの風情である。それでまたベンチに腰を下ろしてしまった。華麗なる色彩に気を奪われている間に、一天俄かに掻き曇り、えらい雨風となってしまった。
気温もぐんぐん下がってきたようで若者たちも震えているようであった。しかし、わたしは薄手とはいえトレンチを着、バスク帽(べレー帽の原型という)を被っているので応えない。
寒くなるか、ならぬか、家を出るとき迷ったら、なる方に必ず賭けるのがわたしの主義なのである。ときに大きく外れて、仲間から嘲られることはあるがわたしは主義をすてない。これはビルマ(現ミャンマー)戦線の生き残りだという、中学時代の担任教室から戴いた教訓によるのだ。
戦地で、作戦のため出陣する際、服を一着しか持っていけない場合、必ず冬服にしろと部下に命じたと先生はいった。「ビルマは暑いと諸君は思うだろうが高い山もある。雪だって降る。いったん出陣すればどこへ行くか分からない。」そして「暑ければ脱いで担げ、しかし、寒かったらどうしようもないぞ」と話したのだそうだ。この言葉をわたしは拳拳服膺しているのである。
「本当に、ビルマでも雪が降る」と先生が言われたかどうかは自信がない。しかし、外出するとき、旅に出るとき、服装で迷ったら「ビルマでも雪が降る」と呪文を唱えるのである。
それで、日比谷から帰ってから風邪もひかなかったが、おろしたてのバスク帽を濡らしてしまったのは、ちと残念であった。
黄の色をさらに深めぬ荒時雨 ひでを
一緒に雨宿りをした友人に「こういう雨風を俳句では何というのかね」と聞かれて考えた。木枯しと時雨のミックス。横時雨という季語はあるがここからの眺めは大景ではないせいかどうもしっくりしない。それで荒時雨としてしまった。近ごろの気象に関する季語には、荒とか強とか大とかをくっつけた方がよさそうなものが多い気がして恐ろしい。
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二週間分の新聞というのはずいぶんと重いものだ。販売店が保管してきちんとビニールの袋にいれて届けてくれた、その重いやつをテーブルの下までひっぱってきて読み始めることにした。袋の一番上は帰国前日のもので以下日付を遡って行き出国あくる日の分を底にして束ねてある。それが二袋二紙分である。日付の古い方から読み出すのが普通だろうが今回は逆に新しい方から読み始めて見た。重い袋をひっくり返すのが面倒なのだ。
こうして2、3日分を読んでみるとこれはなかなか良い方法であることがわかった。第一スピーディーである。大きな事件だと続報が載るわけだが、続を読めば第一報の方は省略もしくはざっと見ればいい。たとえば台風。現実の被害の大きさを知ってから、あらためて進路予想を読む必要はあるまい。
連載小説はどうか。これは無理かと思ったがそうでもない。今までは一日分読み終わるとその後のストーリーの展開を予想するわけだが、それをなぜこういう展開になったのかを推理しつつ楽しむのだ。帰国後毎日来る分は普通に読み進むわけだからその複雑さが時差ボケの脳をより活性化させる、と信じてのことである。
しかし、時事川柳ばかりはお手あげだ。
「国産は国産だけど中国産」(10月2日朝日新聞)など、ニュースを知らないとわからない。ちなみに、私は朝日新聞に載る読者の川柳七句のうち選者によるヒントをみても二句以上わからないことがあると脳力は相当ヤバイと考え毎日チェックているのであります。
逆さまに読む記事アリスの国は秋 ひでを
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ある朝、家主の奥さんからプラムを頂いた。まことにうつくしい。ワインカラーを極めている。
「よくまあ、カラスにもリスにも獲られませんでしたね」
わたしは思わず大声で言った。この冬から春先にかけて私が珍重しているレモンの大半を、金柑にいたってはその全部を台湾リスに横取りされているので、プラムが熟すまで無事だったことに驚いたからだ。
「ことしはカラスがプラムに目をつけリスを追っ払ったらしいの。カラスの方が大きいし群れでくるからね」
ところがカラスは、プラムを獲るのはリスのようには上手くないらしい。体重が重いうえ群れで木に止まるから枝はゆさゆさ揺れてよく熟れた実は落ちてしまうのだ。
「ビワだと木が固いからこんなことはなくて、カラスに狙われたら一日で全部食べられちゃう」そうだ。では落ちたプラムはカラスは食わんのか。「藪に入るのが恐いんじゃないの」と奥さんはいう。たしかに、ヤブガラシはここでもはびこっているが、ヤブガラスというのはあまり聞かない。
それで奥さんは脚立に登る危険もなくプラムをゆうゆうと手に入れてくるわけだ。
あくる日、「今朝も早くからカラスが騒いでたから沢山落ちてるよ」というので奥さんについて10メートルほど裏山に入ってみると、木漏れ日の射す小径のまわりの柔らかい草の上にいくつもの実がしずかに横たわっている。疵のあるのはどんどん捨ててもあっという間に籠は4、50の玉でいっぱいだ。
「これをブランデーに漬けると梅酒より美味しい酒になるよ」と奥さんはいう。
ブランデーのスモモ酒か。おお、なんとゴージャスな!
明けがらす酸桃は色を極めたり ひでを
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その朝の、寺山修司さんからの電話ほど仰天させられたものはない。
「いま羽田に着いたんだけどね、今週のアサヒグラフの僕の原稿ね、飛行機の中で読んだんだけど一枚順番が入れ違ってるんだよ。つまり最後のとその前のがね」
会社に飛んで行って印刷所からもどっていた原稿用紙を調べてみるとページのノンブル(ナンバー)は、やはりわたしの字で打ってあった。万事休す。わが編集者稼業もこれで終わり。と考えたものである。
それにしても、不思議なのは、文章の流れも、もちろんストーリーも見事に通っているのである。いかにも寺山さんにしてはじめて起こりうる事態だ、なんて考える余裕は、その時はもちろんなかった。
この事件の結末はというと、「今度さあ、原稿をバラバラに刷ってさ、どういう並べ方が一番いいか読者に決めて貰うというのをやってみるのも面白いかもしれないね」という寺山さんの一言でわたしは無罪放免。編集者の首はつながったのであります。
後年、わたしの定年後のことだが、当時の編集長にこの話をしたら、「あれには困ったねぇ、話の筋はうまくつながっていたのが奇妙だったよ……あの時、寺山さんに豪華なビフテキをご馳走すると約束しながら果たせなかったのがわたしの人生の心残りだよ」といわれた。
いま、ノンブルについて書いていてもう一つ別の思い出が浮かんできた。 仕事で青森に行く寺山さんを追って同じ寝台車にカメラマンと乗ったことがあった。明け方、カーテンが少し開いていて原稿を読んているのがみえたので小声で挨拶すると「丁度よかった。君、この原稿読みながら番号をふってよ」といわれた。『大山デブコの犯罪』でわたしはこの戯曲の最初の読者となる光栄に浴することになった。寺山さんは徹夜されたようだったが青森駅周辺でのアサヒグラフのための写真取材に気軽に応じてくれた。その時の一枚が、ポスターやちらし、書籍や映画などで寺山ファンならなんども見ているレインコートを着て鉄路を走る姿だ。
寺山さんの命日は五月四日。ことしは没後三十年ということもあって早稲田大学での実験映画の上映をはじめ、様々なイベントがおこなわれた。そのいくつかを覗きながら、わたしの胸中を去来するものも多々あった。
ノンブルのなき原稿や寺山忌 ひでを
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