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「高野さん自身は、ジェラール・フィリップからぺ・ヨンジュンまで二枚目男優に夢中になるミーハーな面も持ち、多様な映画を愛していた」 というくだりが、石飛徳樹氏が書いた朝日新聞の「惜別」にあった。(3月16日夕刊)
岩波ホールといえばすぐ社会性の高い映画というイメージが思い浮かぶが、そのホールの総支配人を45年に渡って勤めてこられた高野さんに、そういう一面があったと知ってなにか心温まる気がした。そして一度だけお会いしたときの高野さんのことばを突然思い出した。
いつのことだったか、またなんの仕事だったかも忘れてしまったが、たぶん20年ほど前、私がウィーンで数日を過ごして帰国した直後のことだったろうか、それではなしがウィーンのことに及んだのだと思う。
その時、高野さんが、急に「私、ウィーンにだけは行ったことがございませんのよ」とはなされた。びっくりしている私に秘書のひとが「新婚旅行のためにとって置かれるのだそうですよ」と言い、それに高野さんは「そうなんです」とうなずき、ほほ笑まれたのだった。行年83歳。
名画見てこころ温しや神保町 ひでを
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「仙人というのがいるだろ。山の上の洞窟みたいなところに住んでいて、襤褸をまとい、髭ぼうぼう。絵をみたことはあるだろう。でだ、あの爺さんたちは何をしているのか、あの人たちの目的は何なのか」と言って東洋哲学の仁戸田六三郎教授は教室を眺め渡した。半世紀前の教養課程の授業の一齣である。
教授によると、仙人なるものは、すべての欲望を断ち、ただただ長生きするためにだけ全身全霊を注いでいるのだという。なんのために長生きするのか?
それは、俗世間にあって位人臣を極め得意の絶頂、栄耀栄華を誇っている奴らがずっこけるのを楽しみに待っているためだというのだ。だから、いろいろな薬草をあつめて不老長寿の薬をつくり、それを舐め舐め山の上から下界をながめている、のだそうだ。そして「仙人の絵を見るとき大事なのは目ん玉だ。かっと見開いて何事も見逃さないぞというように描かれていなければ、偽もんだ」とまあこんなふうに教授は続けたと記憶しているのである。以来、図書や寺の襖絵などで仙人に出会うたびに、このシニカルな話を思い出してきたのである。
さて、こういう仙人が今の我が祖国の政治社会を眺めているとしたらどう思っているだろうか?一度ずっこけた男がふたりも返り咲いて一国の祭り事を取り仕切っているのである。しかも国民の半数以上がかれらを支持してるというのである。仙人たちは、びっくりしているのであろうか?いや、それともニタニタ笑いながら不老長寿の酒を呑んでいるのであろうか。
亀鳴けり仙人首を傾げをり ひでを
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今風の大きな居酒屋に座っているとアラフォーとお見受けする一団がドカドカと長靴をひびかせてはいってきた。しばらくして、ワインをあおっていたひとりが、「I am the man from Nantucket(わたしはナンタケットからきた男)」というTシャツを着ているのに気がついた。
これって、わたしはゲイよ、てことじゃない?
後日、アメリカに留学していたことのあるこちらもアラフォーに聞いてみると、「そうそう、アメリカのテレビドラマでアグリーベティーが着ていたよ。シャレだね。ナンタケットのお土産だってことだったね」というのであった。
マサチューセッツ州の小さい島ナンタケットの名は、語感がおもしろいからかよく言葉遊びのリメリック(五行詩)につかわれるが、なかにはゲイをからかう極めて品のない、しかしそれゆえよく知られたものもあるそうだ。 現代は、そういうものもシャレのめしてファッション化してしまうということなのであろう。
小説「白鯨」の物語の中であやしい雰囲気が描かれるのは、主人公のひとりというべきイシュメールが捕鯨船に乗るべくニュー・ベッドフォードにやって来た夜から船がナンタケットを出港するまでの数日の間に限られる。しかし、いくつもの章が使われているところからも重要な場面であることがわかる。
哲学者的風来坊イシュメールは、宿の主から客が多くてベッドがないからと鯨の銛打ちクイークェグとの同衾を勧められ応じるわけだが、それが南洋の島の酋長の息子で人食い人種。顔まで刺青をほどこし、人間の首を売り歩いている男だった。そんな男と、いくら大きなベッドだからって一緒に夜を過ごすなんて!少年の読者の驚きはもっぱらその点にあった。当時の岩波文庫は阿部知二訳であったが解説にこの二人の特別の関係は触れられていなかった。
二度目は田中西二郎訳(新潮文庫)だったが、やはり解説では触れられていない。ただ、夏目漱石はロンドン留学中に「白鯨」を読んでいたか、ではじまる猫と鯨の比較論はユニークで印象的だった。この訳本は小笠原の日本返還取材のため乗った米海軍の船に持ち込んで読んだ。船足はきわめて遅く帰りはグアムまでつれていかれたにもかかわらず、イルカ以外の鯨類を見ることができなかったのは今でもシャクの種だ。
2000年に一刷のでた講談社文芸文庫(千石英世訳)でも触れられていないが、しかし、解説には船名のピークオッドは白人戦闘部隊によって殲滅されたコネチカット川流域に住んでいた先住民の名前である、とする所で『白鯨』は、むしろさまざまな暗示がぎっしり詰め込まれて意味に膨張する作品といった方がいいだろう」とあり、「それにしてもなぜ明示するのではなく、暗示するのか」「暗示でしか語ることのできぬ何かがあるからだ。黙ってはいられないのだけれど口にしてはならぬこと、口にすれば身を滅ぼすかもしれぬことを、身を滅ぼしてでもいわねばならぬことをいうとき、真実を語るとき、人は暗示という手段を使うほかない」とある。
文字が少し大きくなって2004年にでた岩波文庫の翻訳者八木俊雄氏の解説となると、「イシュメールはクイークェグとベッドをともにし、「愛をちぎり」「こころの友になり」ときわめて明快である。さらに「『白鯨』は、一九世紀中葉のアメリカではかんがえられないほど、人種的偏見から自由なのである。その他のイシュメールの自己解放には、性的タブーからの解放もある」と指摘されている。これほどはっきりと書かれたのは、それまでの解説にはそういう説明がなかったからだろう。
現在の読者ならば、なんの疑問もなく読み進んで行くシーンであろう。船がナンタケットを出たあとの愛の行方については何にも書かれていない。長い航海であったにもかかわらずである。
17世紀のあの恐ろしい魔女裁判で知られるセイラム(マサチューセッツ州)に生まれたホーソーンが『緋文字』を発表したのは1850年。そして『白鯨』が刊行されたのが1851年。ちなみにアメリカで奴隷制度の廃止は1865年になってからである。『緋文字』はホーソーンの名をより高めたが『白鯨』はほとんど評価されずメルヴェルの名は徐々に忘れられ、晩年は市井に埋もれることとなる。
わたしがナンタケットに行ったときは秋も終りに近く紅葉真っ盛りであった。くじらの博物館に行き、こじんまりとして美しい街をぶらぶらしてクラムチャウダーを食べ、いかにもリゾート地らしくヨットの並ぶ港や土産屋をながめ、数時間を過ごした。その明るい風景のなかに、人のこころの底の底に広がる冥海に昂然と突き進んで行ったエイハブ船長とピークオッド号のイメージを感じさせるものはなにもみつからなかった。しかし、私はただナンタケットに来た、というだけで満足し帰りの高速船に乗ったのだった。すごい夕焼けであった。海も空も船も甲板も人も全部を血に染めていた。
話は変わるが昭和42年の夏、長野県入笠山で集団生活をしていたヒッピーたちを取材したことがあった。日本では当時まだヒッピーという言葉は一般化しておらず、かれらは自分たちを「部族」と呼び、グループ名を「バムアカデミー」としていたと記憶する。いくつかの掘っ立て小屋をつくり、畑仕事をしたり詩をつくったりしていた。わたしは写真家の中平卓馬氏とテントを張らしてもらって数日を過ごした。夜は焼酎の酒盛りであった。そんな時、和紙ををきれいに綴じた奉加帳のようなものをもった男が私に、アンタも自分の戒名を書きなさい、といってその冊子を差し出したのである。ちょっとキザかと思ったが私は「太平洋白鯨射士」と書いた。(あるいは字のうまいその男にそう書いてくれるようたのんだのかもしれない)
それからだいぶたって、この戒名はなかなか評判が良いと人伝にきいた。そしてヒッピーにとっても『白鯨』はバイブルであることを知ったのである。
白鯨やnukeの闇の深くあり ひでを
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目黒のさんま祭りがきのう近くの公園で開かれた。テレビ、新聞で事前に報道されることもあって大変な盛り上がりである。目黒区は気仙沼市と姉妹都市になっており、毎年5000匹のサンマが気仙沼の人たちによって届けられ、おいしく焼かれて無料でふるまわれる。津波被害にもかかわらず昨年も例年通り魚も人たちもやってきたので祭りの人気はいよいよ高い。
ことしで17回目になるそうだ。いまは目黒区が乗り出してきているが元々は地元の有志が始めたもので、そのころはわたしも、ちょっと覗きにいってごちそうになったこともあった。しかし、昨今のように炎天下に一、二時間も待っていたら汗と共にヨダレも枯れ果ててしまうので、ベランダから仁徳帝よろしく煙りと匂いを楽しむばかりである。
昨日は用が出来たので近くを通ってみた。いや大変な人だ。桜の季節なみである。5000匹だから5000人はいただけるわけだ。ゼッケンをつけた係りの人に聞いてみると、徹夜組もいたという。それはまたなぜ?「テレビがくるからでしょう。昼のニュース用に早くからくるからね」とのことだった。
確かに若い人たちも多い。しゃれた格好のカップルもたくさんいる。そうか今日は日曜日だったんだ。
この数日前、友人と昼飯を買うため郊外のとスーパーに入ったら、頭と腹腸を取ったサンマがずらりとならんでいた。後刻このことがふたりの話題になった。
腸(わた)のないサンマなんて! 腸こそサンマのいのちではないか! と意見が一致した。さらに「うちの母親なんか腸のほうがうまいといい、子供でそのころは腸が嫌いだったわたしの分もたべたなー」といってから友人は急に黙ってしまった。 (9月17日記)
黙すべし秋刀魚の腸をねぶるとき ひでを
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メルヴェルの「白鯨」はわたしにとっても不思議な本で時折「本を開け」という声がキリスト教徒にとっての聖書のように耳に響くのである。そこで書棚から上中下巻のどれでもよい一巻を取り出しほこりをはたくのである。通読したのは少年時代をふくめ三回であるが年に何回かはページをめくることになる。
文章は簡明を持って良しとしセンテンスは短くあるべしという兎のフン、もしくは山羊のフン型を金科玉条とするひとびとには、メルヴェルの、居酒屋でおもしろい漢と楽しく飲む時のハナシが大波にのってデカくなり世界の果てから宇宙までとびだすような、饒舌は気に入らないらしく途中で投げ出す人が多いようだ。
わたしは三月に一回くらい病院に行き待合室でかなり長時間待たされる。ここはまことに退屈なところであるが本はおろか新聞さえ開いているひとは少ない。いつ名前を呼ばれるか、トイレに行っておいた方がいいか、ひょっとしたらひそかに生ビールでも売りにこないか、などと考えていて落ち着かないのである。こういう場所で「白鯨」を開くのは極めて精神衛生上よろしいということに近ごろ気がついた。どの章であれそこにはワクワクする言葉があふれている。ストーリーの展開とあまり関わりのないところならさらにいい。なぜならそういうところは忘れていたりうろ覚えだったりしていることが多いからだ。
例えば、「われわれが人生と呼ぶ雑事において、宇宙全体をひとつのとほうもない冗談と断じたくもなる奇妙な時と場合があるものだ。……ささいな困難や心配事、不慮の災難、生命の危険や身体の損傷――そういうことは、死そのものをふくめて、宇宙という正体不明の道化に脇腹をふざけ半分にくすぐられたぐらいにしか、受けとめない……」
また、白い色について「白を比較的温和な連想と切りはなして、本質的に恐ろしいものとむすびつけるばあい、その恐ろしさは極限にまで達するのである。……あの嫌悪すべき優雅さを付与しているものはその不気味な白さである。だから、紋章のような毛皮を身にまとい、鋭い牙をたくわえた虎よりも、白い経帷子を身にまとう(白)熊や(白)サメのほうがよほどわれわれの勇気をくじくのである」さらに、「五十頭のゾウが寝床でころげまわるような大音量」「……嵐の際中に(大声で仲間を呼ぶような)ことをするくらいなら、燃えさかる暖炉の煙突に首をつっこんで白熱する石炭によびかけるほうがましであった」「……消化力抜群のダチョウが弾丸であろうと火打石であろうと丸のみするように」(いずれも八木敏雄訳 岩波文庫)
まあ、切りがない。
ここまで書いてきて、ふと「鯨とテキスト」(大橋健三郎編 国書刊行会昭和58年刊)を開いてみるとC・W・ニコルスさんの「『白鯨』に対する異端的見解」という一文が目にとまった。「メルヴェルの作品は、宗教的、人種的偏見にみちみちている。くだくだ冗長で、もったいぶっており、気どっていて、しかも退屈だ」また海洋作家ジョゼフ・コンラットの「 (「白鯨」の印象は)わざとらしい叙事詩という感じであって……ただの一行も、真摯な文章に出会わなかった」という言葉を引用、自分も同意見だという。テレビはもちろんだがパーティーで何度かお見かけしたニコルスさんはずいぶんと温和な人に思っていたが、これはもう批評というより罵倒に近いといえそうでびっくりした。
しかし、日本でのこの作品の人気はかなりなようで、八木敏雄氏の解説によれば、日本語への翻訳は阿部知二が最初で八木氏は何と十一番目だそうだ。解説は2004年に書かれているので翻訳本の数はもっと増えているかもしれない。
わたしは学生時代原書で読もうなんて無謀なことを考えたことがあったがすぐ挫折した。その 第一章の出だしはCALL me Ishmael.とあるが、わたしの手元にある四冊ではなんと訳されているかを紹介して終わろう。
「私の名はイシュメイル」(阿部知二 筑摩書房)
「まかりいでたのはイシュメールと申す風来坊だ」(田中西二郎 新潮文庫)
「イシュメール、これをおれの名としておこう」(千石英生 講談社文芸文庫)
「わたしを「イシュメール」と呼んでもらおう」(八木敏雄 岩波文庫)
白鯨を読む少年よ夏の雲 ひでを
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