その41〜その45

その45 「吹き矢」

 押入の奥から岩波の「英和辭典」がぽろりとでてきた。なんと57年前の、誕生日に自由が丘で買ったことが裏表紙にインクでしるされている。ぱらぱらめくっていたら、sportの項があらわれた。そこにはゴシックで大きく「娯楽」とあり、つぎに1ポイントおとした明朝体で一気ばらし・・・遊び・・・二漁猟による娯楽・・・遊猟・・・魚釣り、三は冗談、洒落、四慰め、と続き、五に至ってようやく戸外の運動競技がでてくるのである。ちなみにsportsmanはまず遊猟家であり次に運動家となっている。半世紀以上前の高校生も大変驚いたわけである。
 それから何年かしてアメリカ人の家に招かれたことがあった。そこのご主人が、ポプコーンの一粒を指先に載せ掌をポン叩いて宙に浮かせ、それを口で受けるというたわいもない芸を披露して、「これはわたしの好きなsportsのひとつだ」といったのである。その時なるほどsportの意味するところはずいぶんと広いのだと合点したのだった。
 いま、改めて岩波の辞書を読み直していてsportは猟と関わりが深い言葉だということに思い至り、急にうれしくなった。
 最近わたしは吹き矢を始めたのである。家でも手軽にできるのが怠け者にはありがたいし、20本矢を射ると五キロ歩くのと同じエネルギー消費量になるとネットにでていたのを信じたのである。ヒョウと放った矢がバシッと的のど真ん中に当たれば気分はシャーウッドの森のロビンフッドである。
 しかし、公式戦用の矢といってもプラスチック製で七センチほど。弓はおろかダーツの迫力にかなわない。軟弱である。と思っていた。
 図書館に行ったついでに平凡社の百科事典を開いてみると、吹き矢は深い森での狩猟に極めて有効だが軽量なため毒を塗って使う、マレー半島からボルネオ、スマトラ、フィリピンから南米など広く使われている、とまあわたしでもおぼろげには知っていたことが書かれていた。しかし興味深いのは、南米アマゾン流域の原住民は40メートルも矢を飛ばすことができ、時にイノシシも狩ったということだ。(吹き矢の公式競技では3メートル、5メートル、7メートルで行うという)
 さらに興味深いのはこのアマゾンの民は吹き矢を決っして人に向けることはなく、戦闘にすら使用しないという記述だ。すばらしい。これこそオリンピックに加えるべき種目ではないか。
 話はがらりと変わるが、昔、新宿ニ丁目に的場があって酔漢相手に金をとって弓を引かせていた。わたしも何度か入って若い兄ちゃんに教わりつつ矢を放ったことがある。それにしても紅灯の巷になぜ? 
 江戸時代には楊弓場または矢場と呼ばれた店が盛り場のあちこちにあり、景品を出し、娼婦もいて明治のはじめまで賑わったようだ。私が行った店はその名残だったのだろうか、しかし、そんな怪しげな雰囲気はなく昭和50年代の初めごろ消えたようだ。ところが、百科事典によると吹き矢についても矢場と同じスタイルの店があり同じく明治のはじめまで続いていたということであった。
 となると、吹き矢は、sportの持ついくつもの性質をほとんど持っている、スポーツの中のスポーツだということになる。



 新樹光むね一杯に吹き矢撃つ  ひでを




註――岩波英和辞典―島村盛助・土居光知・田中菊雄共著ー1936年第一刷発行 1951年新増訂版 使用したのはその11刷 ――漢字はすべて旧字








その44 「もし放射能が見えたら」 

  みなとみらい線の日本大通りというちょっと変った名前の駅の上に日本新聞博物館がある。先日横浜港大さん橋に行ったついでに寄ってみたら、「一枚マンガの原発と新エネルギー展」なるものが開かれていた。(7月1日まで 東京新聞他主催)
  なかなかに興味深い作品の多いなかで、久里洋二さんの「もし放射能が見えたら」にドキリとさせられた。私は今までにこういう発想をしたことがあっただろうか、と考えこんでしまった。絵は野球のボール大のドクロが街行く人々をおそっている、というものだった。
  数日して、原子力工学科を出た友人と酒を飲んだ折、この発想について話したら、虚を衝かれたような顔をした。そしてしばらくしてから、「もし見えたら%ヲれる方策がみつかるだろう」と寂びしそうに言った。
  しかし、悪魔の申し子の居場所も、大きさも、動きも捉えられているのである。だが、その情報はお上≠竍御用学者≠轤ノ握られていて信頼できる専門家にはなかなか渡されないのである。だから、フクシマに遠く住む人たちも疑心暗鬼の迷路に置かれているのだ。



   鳩化して鷹となるべしフクシマ忌   ひでを


                                                         注 「鷹化して鳩となる」だと春の季語


その43 「Sundowner(日暮れ酒)」

  春の日はゆっくりと落ちてゆく。5時半、日は薄い雲の中だが、その在り所は分る。沖の方に日溜りが見える。雲が切れているのであろう。富士は今はわずかに山頂の輪郭を見せているだけだ。ホットワインを注文する。カシスの味がする。
 数年前、神田の小さな編集室に立ち寄った際、戸棚にあった『最後の晩餐の作り方』という本をパラパラめくっていたら「日暮れの一杯(サンダウナー)」という言葉に出くわした。そしてその言葉は「…見ればまだ赤々と熾える夕陽がオリーブ林やラヴェンダー畑、ブドー畑の丘の向うに沈もうとしているプロバンスの夕暮れ時には特に…」という一文に続いていた。(ジョン・ランチェスター著小梨直訳新潮社刊)
 sundowner、なんとうれしい言葉ではないか。
 プロバンスの夕暮れは知らない。が、私はこの海辺のバーで文字通り、落日(sundown)を見ながら酒を飲むのがもう20年にもなる楽しみなのである。そしてこの10数年はもっぱら赤ワインだ。風が冷たい日の、一杯目はホットワインにしてもらうこともある。
 6時に近づくと予想した通り、雲から太陽が出てきた。大きくふくらんで、うれた酸漿のような色をしている。テラスの女性客から歓声が上がり、何人かが携帯で撮影する。しばらくして、その中の一人が「あ、眉になった」と大声で言い「あ、消える。消える。消えたぁー」と叫んだ。
 その時、私は徳富蘆花が逗子の落日を叙した一行を思い出していた。記憶はかなりあいまいなので後日60年ぶりに調べてみると、正しくは「已にして殘(のこり)一分となるや、(日は)急に落ちて眉となり、眉切れて線となり、線痩せて點となり、――忽ちにして無(なし)矣」(『自然と人生―相摸灘の落日』筑摩書房刊「現代日本文學集」より。)であった。落日を見ていると時にこの眉線点無の文字が脳味噌に浮上するのである。そして、特に忽ちにして無しという所が気に入っているのである。
 どこでこの文章を知ったのか。家に本があったのか。
 あるいは――、中学生の頃、下村湖人の『次郎物語』の真似と気取って友人と二人、朝、街を出て北へ向い、迷子になり、時間を測りつつ帰りは南に向えば必ず玉川に出るから、川を辿ればわが街に着くはずとぶらりと出掛けたことがある。その時、行き着いた先が蘆花公園であったので、そこでこの作品を見たのかもしれない。
 その時、昼めしにソバを食ったことと下駄ばきだったことは記憶するが自転車で行ったのかどうかは思い出せない。

 テラスの客は帰ったが落日はまだまだその残照を美しくしている。日が伊豆半島に消えてからしばらくして、噴火口のよう激しく燃え熾ることがある。すると富士がいよいよはっきり浮き出てくる。海が不思議な色に変ることもある。それから赤、オレンジのグラデーションが西の空に流れ、段々に地味な色合いになりつついつまでも続くのだ。
 蘆花の名文は秋冬の落日であるが私は春夏秋冬いづれの落日も好きだ。



 日暮れ酒てふ言葉うれしき春の海 ひでを
  サンダウナー







その42 「猫紋様」

  久しぶりに海辺の借家に行くと猫が替っていた。
  大家の玄関先に陣取っているのはキジの若造で一年半ばかり以上に渡ってそこを占拠していた赤と白のブチがいない。若いライバルに追われ、裏山に老残の身を枯してしまったのか。ブチの若い頃の記憶は私にはないが、大家夫人によれば、内猫が生んだ一匹で、ある日若者らしく一人旅に出て長く留守にしていたのが、くたびれ果てて余生を送るべく帰っていたのだという。それまでその頃そこに居たのは気の弱そうな奴だったから、旅で男を磨いてきたブチにかなう訳もなくあっさりブチのめされたのであろう。
  しかし、私のみたところ、ブチの老化はずいぶんとすすんでいて、耳遠く、鼻きかず、目も緑内障の末期ほどに悪いようであった。ある時、こいつが楊枝をくわえているのを見て仰天したのだが、なんと牙が一本折れかかっていたのである。にもかかわらず、時々姿を見せるキジの若造に私が食べ物をやろうとしたら、どこからともなく現われて若造に襲いかかり、わが家の中で大立廻りをした挙句、両者は裏山の方へ飛んで行ってしまった。明くる日ブチはいつもの座におり、そこから見通せるわが家の玄関先に若造は近づかず、裏の窓の方からささやくように甘え声を出していたので、ケンカの行末はすぐに分った。さすが身は老いてもなかなかの貫録であった。それがついにここ数か月の間にはかなくなったのであろう。
  さて、さっそくに私の所へ挨拶にやってきた若造の顔を、生姜煮にした鰯のお頭をあたえつつ、つくづくと眺めてみて、これは数年前まで、この辺を縄張りとしていた大親分、私がドラというりっぱな名を付けた奴と顔立ちといい、キジの毛並といいそっくりでそのムスコであると確信するに至った。
  父親の方は大家宅を根城にしていたわけではなかったが、毎日二度ばかり回ってきて眼(がん)をつける奴あらんかとあたりをねめまわすのであった。するとその辺の三下は姿を消してしまい、大ボスはゆうゆうと餌を頂戴したり、大声でわめいて私を呼び出し三和土に入り込んで居眠りしたりするのであった。しかし眠っている時でも耳は必ず外に向けられていて遠くからでも猫の声がすればすぐに飛び出して行く。そんな生活だからケガが絶えず。ある時腰が抜け、たれ流したのかえらくくさい臭いを発しながら尋ねてきたこともあって、早く引退生活に入ればいいのにとおもわせたことがあった。
  ところがしばらく姿を見せない日が続いたので、いよいよ引退かと思っていた矢先、ビロードのような光沢のキジの毛皮を一着におよび、なんと首にビーズの首輪をして現れたのである。これには大家の旦那も不審に思い、お身内が竹藪で出くわした折、あとを付けさせたという。すると意外にも大家の親類筋の家に入って行き、そこで飼われるようになっていたことが判明したのだった。なんでも週に一回シヤンプーをしてもらうほどのご身分だったそうだ。
  それでも地廻りは毎日欠かさなかったようで、やせ衰え、顔ばかりが大きく見える身体になってからも張り子の虎よろしく首を左右にギクシャク揺さぶりながら、家の前の坂を登ってくるのであった。時にビーズの首輪がなかったからケンカはやめてはいなかったのであろう。
  そして大ボスの地位を保ったまま、ある日借家の近く、若草の上で大往生をとげたのである。遺体の第一発見者であるわが息子によれば目は大きく開いたままだったという。周囲の悲しみのなか桃の木の下に埋められたのである。



 かげろひて地廻りの猫のぼり来る  ひでを





その41 「寒中のお湿り」

 久しぶりに雨が降った。ありがたいお湿りではあったが、時に雪のまじる、厳しい寒の雨であった。
  ベランダに置いてある砂糖水の器にやってくる目白はふくら雀のように羽根をふくらませ、なにか考えごとをしているみたいで動作がにぶく感じられた。器には雨水が入るので砂糖もだいぶ薄まっただろうから、少し足してやろうと思ったのだが、雨の中に出るのはちょっと間でもいやだ。それでよく熟れた蜜柑を二つに切り、砂糖水より30aばかり離れたテーブルの上にガラス戸から腕だけ伸ばして置いたのである。
  横着をしたわけだが、目白は大いに喜びこの無農薬の蜜柑に飛びつくと考えたのである。私が姿を消すとすぐにやってきたがなかなか蜜柑に気がつかない。あんなに美しく輝いているのに、このバカ共と思っていると四、五回目に来た二羽のうちの一羽がようやく気がついたが、二羽ともすぐに飛び去ってしまった。
  その後も目白は番、もしくは六羽くらいでひっきりなしにやってきたが、蜜柑の方にはあまり行かない。日が暮れて一羽がしきりに啄む姿をみたが、それはもうシルエットでしかなく、あとで考えるともしかしたら雀ではなかったかという気もした。ジンの空瓶で作った自慢の外灯≠点してやったが、もう鳥は現れなかった。
  明朝、蜜柑の方は半分以上残っていた。私は目白は砂糖水の方を好む、とその時は結論づけた。しかし、砂糖の甘さが口の中に充満している目白には蜜柑は酸っぱく感じられるのではないかということに思い至って、私は自然の摂理に反することをしているのではないかと心配になった。
  ところがである。雨量は少ないが四日続いたお湿りの三日目の午前中、その同じ蜜柑を目白たちが次々につつき出しているのである。午前中は砂糖の方は全く無視している。この目白が常連なのか新入りなのかは皆同じ顔をしているので分からない。
  ここで私は観察を中止することにした。寝たきりになったら、もう少しきちんと時間を測りつつ研究しようと思ったのである。
  話はかわるが、私が借りている三浦半島の家の金柑は今季当り年で暮れから正月にかけてずいぶん沢山獲らせてもらった。家主の奥さんから金柑を煮るときは砂糖を使わず水だけで煮なさいと教わり、半信半疑ながらやってみると驚くほどに甘い。不思議であった。
 目黒に持って帰ったその一つを砂糖水の近くに置いてみた。目白は無関心であった。明朝、金柑はそのままあった。よく見ると鋭い嘴の跡がいくつかはあった。
  四日目の、最後の夜は大雪となり東京の区部でもケガ人続出だったという。こうなるとお湿りなんてありがたがってはいられない。



  雪しまく最終バスの最前席   ひでを











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