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ラグビー・シーズンたけなわである。今日も秩父の宮のスタンドに坐っている。10分間の休憩時間、通路を歩いてくる男が私と同じ帽子を被っているのに気がついた。2011WEBB ELLIS CUPと書かれた黒いキャップ。エリスはファンなら誰でも知っている、ラグビー発生のきっかけを作ったといわれる、英ラグビー校の少年の名前。この秋ワールドカップを見にニュージーランドへ行った知人からの土産だ。
4年ごとに開かれる大会を1999年から連続3回、いずれも決勝、準決勝そして三位決定戦を現地で見る幸運を私は得た。どれもすばらしい試合だった。しかし、今回は行かなかった。断念した理由の一つは、2003年オーストラリアのシドニー大会で見たイングランドの若者たちの傍若無人ぶりにある。例をあげればトイレは入口と出口が別になっているのに彼らはそれを無視、逆流して力で押しきる、寒いのにたらふくビールを呑んで階段を駆け上がり駆け下る。足弱ははじき飛ばされそうであった。そんなことを思い出すと出かける気にならなくなったのである。
しかし、考えてみると前回のパリ大会ではこういう輩が跋扈する光景は記憶にない。そうか奴等はパリでは小さくなっていたのだ!なにしろフランス人の底意地の悪さはハンパじゃない。
私の席の近くに四、五人の日本人が遅れて到着したが、その人たちの席は指定席になっているにもかかわらず、フランス人が坐っていて動こうとしない。休憩時間になってもまだモメていた。その試合は三位決定戦のフランスとアルゼンチン戦。両国は開幕戦でも対決しフランスが敗けていたが、ここでも敗けた。ひとつの大会で同じチームに二度敗けるという屈辱をきっしたのである。しぶい顔のサポーターを横目に私は何度も万才(ビバ)アルヘンティーナと叫んだのであった。その時、その前夜地下鉄ストのためにやむなく入ったホテル近くの料理店の嫌味たっぷりの女将のことも思い出していたのである。
それにしても、1999年のロンドンでもフーリガン的連中には出会わなかったようにも思う。ロンドンの名にし負うトウィッケナム・スタジアムともなるとそんな振るまいを許させぬ伝統の重さが備わっているからだろう。
となるとオーストラリアはナメられていたわけだ。ニュージーランドでの今大会では、イングランドのサポーターも、悲しいことに選手団も態度が良くないとか、いろいろと顰蹙を買うことがあって大変不人気だった、とテレビの解説者が話していた。どうもイングランド人はこれら南半球のイギリス連邦の国に来ると宗主国%I意識をちらつかせてのさばるみたいだ。
日本は今大会も一勝すらできなかった。予選で、優勝候補のニュージーランドと当ったとき、有力選手を温存して出さず、捨てゲームにして、ニュージーランドよりは勝ち易いとふんだ他の2チームを破ることを狙うという奇策に出た。ルール違反ではないが、どうもいさぎよさがない。この時、私はゴジラこと松井秀喜が甲子園大会に出たときのことを思い出していた。緒戦で当ったチームは松井をすべて敬遠の四球にしたのだった。これももちろんルールに反しないが、酷評され、次の試合ではものすごいヤジをうけて、まあ、賭けをしていたけしからん奴等が一番すごかったと思うが、敗退した。
もし全日本がこの奇策で2勝し、うまい具合に決勝リーグにでも出ていれば、黒田官兵衛の如き戦略とカーワン監督はほめそやされたかもしれない。しかし、美学には欠ける。
こんなことを考えていると、一人の友人の顔が浮かんできた。ワールド・カップに初めて私を行くように説得し、御膳立てをしてくれ、またこの秩父の宮でよく並んで観戦した、その友人はもう長い旅に行ってしまった。「オレは二度もワールド・カップに行けるとは思わなかったよ」と病床で語ったのを思い出す。
鋭く笛が鳴って私の想念は吹き飛ばされた。高々とボールのあがった空は快晴。関東地方の冬の空だ。神宮の銀杏並木はようやく黄葉を始めている。午後3時を過ぎると風が冷たく感じられる。寒さに反比例するかのように試合は熱をおびてきた。シーズン全体としても言える。正月を越え寒に入って、それが明けて、いまはまだ美しい芝のピッチがズタズタボロボロの絨緞のようになるころ日本一のチームが決る。するともう花の季節だ。
名も知らぬ客と老いゆくラグビー場 ひでを
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デモというものに参加するのは半世紀ぶりである。おとなしいデモであったがその数に圧倒された。
九月十九日、神宮の森の明治公園で開催される脱原発集会にぜひ参加してと鎌田慧氏が、新聞に書いていたのを当日の朝になって思い出し、ふと出掛ける気になったのである。大江健三郎氏や山本太郎氏が来るなどということは知らなかった。ほぼ野次馬である。
1時半集合だったが私の着いたのは2時。会場は超満員で入れず道路にも青年会館の敷地にも人が溢れていた。焼ソバの屋台があり、太鼓を叩いて躍る人までいる。舞台があるらしいが見えない。スピーカーがしゃべっていることはほぼ分からない。だから武藤類子さんの「なにげなく差し込むコンセントの向こう側の世界を想像しなければならない。原発はその向こうにある」との感動的なスピーチのことは後日知ったのである。(注)
やたらに暑い。秋暑に加え人の熱気ですごいことになっている。ところが、2時半なると、急に涼しい風が来た。空は夏と秋とにはっきりと分かれている。まさにゆきあいの空だ。「蜂に注意して」の声に驚きつつ、ようやく少しすいてきた会場に入る。組合の旗が目立ってメーデーのようだ。やはり動員で来た人が多いのかとその時は思った。3時近くデモ隊がいくつかの方面に分れて出発しはじめた。なつかしい全学連の大きな旗もあった。学生さんらしい姿は少ない。市民グループと思われるブロックが次々に会場周辺を離れ、すぐ近くの秩父の宮ラグビー場の方へ出ていく。そこでは、丁度明治筑波大戦が始まったところだった。
で、ちょっとだけ覗いてみることにした。ところがこれが、面白い。とうとう最後まで見てしまった。外に出るとなんとデモの列がまだ続いている。もう5時に近い。しばらく眺めていたが昼飯を食っていないことに気が付き、パブに入る。うまい生ビールを飲み小さなシシカバブをかじっていると、窓の外を隊列が陸続と行く。だんだん後ろめたい気持ちになる。店を出ると小学一年生くらいの少年がうれしそうにビラを配っていた。
それで道の柵をのりこえ、少年のいる二百人ほどのブロックの最後について歩き始める。この闖入者に対して誰も何もいわない。私も無言だ。三〇b位後ろを別の隊列がくる。「原発いーらない」「子どもを守れ」などのシュプレヒコールに元気づけられながら進む。交差点で遅れそうになった杖の人を警察官がかばいつつ渡らせている。青山通りから表参道に入る。東京で最も華やかな通りだ。ディオール、ルイヴィトン、アルマーニ、ブルガリ、などが連なっている。並木道は参度(さんど)の傾斜の下り坂だというのは参道(さんどう)にひっかけたシャレではなくホントだそうだ。
車道を歩くのは解放感があっていい気分。祝日だから若者の二人連れが多い。長いデモに驚いたらしい。唖然とした顔をしている。彼等もこのデモを見て何かを感じているだろうと思う。ドイツ人だろうか、婆さんがカメラを構え、「こっちを向いて」のジェスチャーをするのにこころよく応じ、Vサインを送ってしまった。
車道へ出てきた老夫婦が、いつの間にか私の後ろを歩いていた人に「ここはどういう団体ですか」と聞く。「いや、どこにも属さない人たちのようですよ」とその中年の男が答える。「では、私達も入っていいですか」「歓迎されるでしょう」後ろの会話はそれで切れて行進が続く。
JR原宿駅には出ず、明治通りに入る。タクシーを降りた家族連れの男が私に「道は大渋滞してるぞ」と大声でいう。怒っているというより、この事態にびっくりしている様子である。私がちょっと笑いながらその顔を見詰めていると、恥ずかしそうに消えてしまった。4年前のパリ・ラグビー・ワールドカップ。その準決勝と決勝の日をねらい打ちするかのように地下鉄ストがあり、スタジアムに行くのにえらい目に会った。後日この話をするとほとんどの人が、さすがはパリの労働者だ、といって喜ぶ。人に迷惑がかからないデモなんてあるものか、沙漠でデモしてもしょうがないではないか。と、そこまで思ってから、いや、待てよ、大きな沙漠の真ん中でのデモであっても、この日ほどの人を集めたらビックニュースとなって世界で報じられるだろう、と考えた。その妄想を頭の中で転がしているうちに、宮下公園に達し、山手線をくぐるコースになる。沿道にいる人が拍手している。解散地点から戻ってきた人たちのようだ。終点≠ヘ代々木公園と教えられる。
同じブロックの二人の女性に渋谷駅への道を聞かれたので丁重に教える。このデモではじめて人と口をきいたわけだ。代々木公園まではもうすぐだが登り坂になって疲れてきた。時計を見ると6時10分。私もここで失礼することにした。歩道は若者の洪水で、のんびり歩いてきた者は緊張してしまう。渋谷駅近くまできて、ようやく私は勝手にデモに入り勝手に出て参加料≠熾・わなかったことに思い到った。たとえ数100円でも払うべきだった。しかし、カンパ袋も回ってこなかったし、受付なんか見なかった。主催者もあまりの人の多さに気が回らなかったのかもしれない。それにしても私は主催団体のことも、集会の名称すらも記憶にないたまま参加していたのである。おそらく鎌田慧氏、一度も会ったことはないが、この人がいうことなら、間違いないだろう≠ニ無意識にただそう思っていたのにちがいない。涼しい風をうけると、ずいぶん汗をかいていることが分かった。昼食の大ジョッキがすべて汗になったようだ。
汗はすぐ消えるが、汗とともに、怒りが流れ去ることはいささかもない。そして、デモのむなしさを感じることもなかった。
(あくる日の東京新聞はこの集会・デモを五ページに渡って詳報している。その1面には明治公園を空から撮った写真がのっている。その人間の密度にはただ驚くばかりだ。そして『さようなら原発五万人集会』に集まったのは約6万人(主催者発表)だったとあった)
(注)同じく10月17日付東京新聞『こちら特報部』より
賢治忌のいよよ悲しきガレキかな ひでを
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痒み止めの特効薬として私が常用しているアロエは、生命力が旺盛で、いったい何を養分としてこんなに育つのか、考えてみるとまことに不思議である。昔、小さな鉢をだれかに貰ったのだが、やがて葉が床屋に行くのを忘れた坊主頭みたいに増えて鉢から溢れてきたので大きな鉢に茎数本を移しておいた。
それがここ何年かの間にベランダの他の植物を圧倒、高さが一b半ほどにもなった。四方八方に張り出す葉は上へ行くほど大きく、その一本の長さを測ったら50a近くあった。
根元の方はあまりにも込みあって鉢の姿さえ見えない。台風が来るというので排水管を調べておこうと思ったら、ここも被われてしまっていて踏み込めない。それで、四本ばかり茎を伐ってみた。それぞれ、たわわに実をつけたバナナの房のように重い。枯れてからゴミに出そうと軒の下に放置しておいた。
ところがもうふた月にもなるのに、一向に枯れる気配がない。皮をむけば美しい緑のゼリーのようだ。
今年の名月はおそろしいほどに輝いていた。月がコンクリートの床に落とすアロエの影はサソリに似ていた。サソリには毒があるがアロエには毒消し≠フ作用があるのだ、などと考えていたらまた蚊にやられた。
近くの図書館に行ったので、ついでに二つの百科事典を見てみると、古代ギリシアでは便秘の薬、つまり下剤として用いられ、アリストテレスはアロエの産する島を征服するようアレキサンダー大王に進言した、という話が両方の事典に載っている。――なるほど、腹にたまりすぎたものを排泄するというアロエの効用を知り重用していたからこそアリストテレスは、文学作品の悲劇に関するカタルシス(排泄・浄化)論を生み出したのにちがいないと思った!?のである。
評判の映画『英国王のスピーチ』の中に、吃音に悩む国王に、少し怪しい矯正士(注)がワイセツ語を大声で吐き出させるシーンがあった。これが精神分析でいうカタルシスなんだとひとり合点したのである。
ところで、痒みに利くとはどこにも書いてない。そこで、近くの薬剤師の兄ちゃんに聞いてみると「アロエの軟膏というのがあるけどアロエの成分はほんのわずか、直接汁を肌にぬるのは強すぎるのでは……」というのであった。今さらそんなことを聞くなんてなんか変な気がした。
望の夜の更けてアロエを千切りけり ひでを
注・この怪しい所などジェフリー・ラッシュの演技はすばらしい。
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仕事を終え、廊下に座って庭を眺めていた父親が「オイ」と声を掛けてきたら一大事だ。次に「水を汲め!」となる。あまりに暑いので晩飯まで離れでひと眠りしようとしてうっかり廊下に出たのがまずかったのだが、もう遅い。
我が家に水道はなぜかまだなく、屋根と同じ位の高さの櫓の上にブリキの帽子をのせたドラム缶ほどの木製の樽が載っていた。そこへギーコギーコとポンプを手で漕いで水を汲み上げるのである。樽から台所、洗面所、そして庭先へ水管が伸びている。
で、わたしがギーコギーコと汲んだ水を父親は遠慮会釈もなく蛇口につないだホースで庭木に撒くのである。父親が満足した段階で散水は終るが、わたしはなお樽を満杯にしておかなければならない。ようやく終えて、汗をふきふき廊下に戻ったからといって駄賃にありつけるなんてことはない。それどころか「ご苦労!」なんて声さえない。自分はステテコ姿で涼しい顔である。これが明治の男だ。
ある時、「自然はありがたいもんだな」と言ったことがある。何のことかと思っていると、
「よく見てみろ。あれだけ撒いても築山の向うは濡れてもいない。夕立だったらこんなことはない」
というのであった。
水道が来てからはわたしが水を撒く役になった。これははるかに楽な仕事だが、問題がないわけではない。遠くへ水を飛ばそうとしてホースの口をぎゆっとおさえると蛇口からホースがおっこちてしまうのである。ホースを長くするとさらに起しやすくなる。現代のようにガチッと止める金具など簡単に手に入らぬ時代だった。それと足を濡らすと蚊が必ずやってくるのがやっかいであった。
ところで何時わが家が全館水道化されたのかは思い出せない。兄や姉たちに電話してみると……「あの頃だって水道は来とっただろう」「井戸はあったがタンクなんかなかったでしょ」「スイカやマクワウリを冷やすのに井戸水を使った記憶はあるけど……」というのであった。
とすると、ギーコギーコはわたしと母だけの仕事だったのか、という疑問が急浮上してくる。
タンクは木製だから水が入ると継ぎ目のところが滲んでくる。井戸から数b離れて眺めると入った水の分量が分かるのである。それをしないでいると、満杯になって溢れ出た水を頭からかぶることになる。
憎らしいほどに青い空を何度見上げたことであろうか。
水打つてしばらく天を仰ぎけり ひでを
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海外ツアー募集のパンフレットをいくつか眺めていたらチェ・ゲバラ最後の地をボリビアに尋ねる≠ニいうのが二つあった。一つには「支持者にとっての聖地」とあり、もう一つには「ファンなら一度は足を踏み入れたい場所」という惹句があった。どちらにもゲバラの大きな胸像が大地にどっかりと据えられた写真が載っている。
戸井十月氏がオートバイでその地を訪れた時の一文を新聞で読んだ記憶がある。すごい山奥だが若い人の訪問が絶えないとあった。そこへ日本の爺さん婆さんも行かないか、というお誘いである。ゲバラは四十四年前ボリビアでゲリラ戦を展開中、負傷して捕えられ翌日処刑された。遺体は公開され、その写真は世界中に配信された。私もよく記憶している。パスポート用の変装した写真も見た。39歳だった。しかし、墓は三十年に渡って秘せられた。今はキューバに眠っているはずだ。
一方、チリの元大統領のアジェンデの墓が最近、掘り返されたとヘラルド・トリビューン紙が長文の記事で伝えている(5月25日付)。自由選挙で選ばれ、平和裡に社会主義への移行を試みたがピノチェット(注@)のクーデターで倒れた。反乱軍に包囲されたとき、キューバのカストロ議長から贈られたAK47を手に闘い、最後は銃を自分に向けたのだとも、銃を撃ちながら被弾したのだともいわれている。今回、墓を掘り返したのはどちらが事実かを確かめるためだというのだ。クーデターにはアメリカが深く係わっていた。(米映画『ミッシング』(注A)は、スタディアムの虐殺≠ナ息子を失ったウォール街の大物である父親の驚きと怒りをよく描いている。)
アジェンデが殺されたのはゲバラから遅れること六年の1973年である。はじめはゲバラ同様秘密の墓地に埋められたが後年、サンチャゴに移され、大きな廟にまつられていたのである。
オバマ政権は死者もまた闘い続けることをよく知っていた。だからオスマ・ビンラディンを殺害した時、アメリカはその日のうちに水葬にしてしまったのである。骨を埋める青山すらテロリストには許さないというのだ。
あれだけの事をしたのだから死ぬことをビンラディンは当然覚悟していただろう。銃弾での死はむしろ望むところではなかったろうか。
この男に米特殊部隊がつけたコード名がジェロニモであったことは米国でも物議をかもしたが、このアパッチ族の戦士について鎌田遵氏の『ネイティブ・アメリカン』(岩波新書)には興味深い記述がある。それによればジェロニモ(1829〜1909)(注B)の白人政府による南西部の領土拡大への抵抗はクレイジー・ホースやシティング・ブルより長く、実に三十五年に及んだという。だが1986年57歳のとき降伏。オクラホマ州フォート・シルの刑務所に入れられ、そこでキリスト教に改宗。そして、ネブラスカ州オマハやニューヨーク州バッファローでの万国博覧会に「月々四五ドルの報酬を得て、みずからを見世物にする道」を選んだという。さらには土産用の弓と矢を作りながら、サイン五十セント、肖像写真を五十セントから二ドルという値段で売っていた。
1904年、75歳の時撮影された写真では、スーツとベストを着込み、キャデラックのオープンカーのハンドルを握っている。セオドラ・ルーズベルト大統領の就任式のパレードにも、元先住民戦士として参加。その四年後フォート・シルで死亡。「波乱万丈の人生を送りつつ、最終的には白人社会で生きる道を選択したジェロニモは、連邦政府による同化教育の最高のお手本とみなされるようになった」と、鎌田氏は書いている。つまり良きアメリカ人≠ニなって死んだわけだ。
すでにアルカイダの時代は終り、チュニジアやエジプト、リビア、イエメン、さらには中国へも拡がりつつある反政府運動のように変革の主役はいまやソーシャルネットワークだといわれている。しかし、東京新聞(6月18日夕刊)にゲーツ米国防長官の退任前の最後の記者会見の内容が、極めて小さくだが載っていて、「ビンラディンは妙なカリスマ性で指揮していた」「(ビンラディンが)死んでもアルカイダはその遺志を継いで活動を続けようとしている」と、ビンラディンの後継者のザワヒリについてのコメントの中で語っている。
アメリカは元凶≠ヘ取り除いたが、その原因≠ノは触れようとしない。オバマ大統領にしても同じようである。
父はイエメン生まれでサウジアラビアで成功した大富豪、母はシリア人。アフガニスタンへのソ連の侵略を怒り、志願して戦い、やがて、反米主義となった男、つまりアメリカが育てたテロリストといわれもする。端正な顔立ち。その幽愁の瞳の奥深くに見てきたものは何だったのか。そしてそこにわたしたちが覗いたものは何か。それらはこれからのストーリーであろう。
ひまはりやその一本はテロリスト ひでを
注@ ピノチェットは、イギリス滞在中スペインの判事の要請でイギリス警察が身柄を拘束、スペインへ渡すかどうかが大問題となった。何度もテレビに映されたので記憶されている人も多いだろう。結果、イギリス司法当局はチリに帰国させた。弱々しく見えたこの男はチリの空港につくなり、車椅子にも乗らずスタスタ歩き出して世界を唖然とさせた。
注A ジャック・レモン主演。息子を虐殺されたアメリカ人は、真相にたどりついて帰国するとき、息子の妻に「われわれは告訴する自由を持つ国を持っているだけ幸せだ」といってチリを離れる。その時「これは実話であり、帰国後キッシンジャー国務長官らを告訴するが敗訴」というナレーションが流れて映画は終る。ゲバラ讃歌≠歌ったヴィクトル・ハラもスタディアムの虐殺≠ナ殺されたのではなかったか。
注B 『ランダムハウス』には、アパッチの戦士の意の他に、第二次大戦での米落下傘兵の掛け声、「それ行くぞ、それっ」とか、《得意、驚き、喜びなど》やったーの意味がある、と出ている。
『ネイティブ・アメリカン』では、ジェロニモと闘ったメキシコ兵が窮地に追い込まれたとき、自分の守護神である聖ジェローム(Jerome)の名を叫んだのだが、恐怖のあまりジェロニモと言ってしまったということからこのアパッチ戦士の名になった説を紹介している。しかし、スペイン語ではJeはGeと同じ発音だからメキシコ兵が恐怖のため間違えたのではなくスペルが混同したのだろう。リスボンにはジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jeronimos = ジェロニモス派)がある。美しい庭をもつ壮大な建物で、ヴァスコ・ダ・ガマの石棺がある。
なお、ジェロニモは天草四郎の洗礼名でもあると、大辞林には出ている。
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