その31〜その35

その35 「エロール・フリンと息子の骨」

 山田宏一氏の『映画の夢、夢のスター』(幻戯書房刊)は、クラーク・ゲーブル、ジェームス・ギャグニー、ジーン・アーサーなど、なつかしい大スターの魅力を「あくまでも映画を映画的に、映画の言葉で、思考し、語ることをめざして」(同書の序)いて大変面白い。
 読み始めてほどなく、エロール・フリンが登場してきた。特に好きだった役者ではない。格好よい剣士や海賊の親分の姿は思い浮かぶけれど、ストーリーも題名も記憶にない。はっきりしているのはヘミングウェーの『陽もまた昇る』が映画化された時の初老の貴族の役だけだ。だから、その末路などまったく知らなかった。
 山田氏によれば、実生活でも「酒と女で身を持ち崩した」フリンがタイロン・パワー、エヴァ・ガードナーらとの映画に出演したのは一九五七年、四十七歳の時。それからわずか三年後、「人生の最後までドン・ファンを演じ続けるかのように、十七歳の娘に熱をあげ、彼女に見守られて、五十歳の生涯を閉じたのであった」という。
 私はこれを読んで突然一年近く前のインターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙(ニューヨークタイムズの国際版)に大きく載った一枚の写真を思い出した。二人の格好いい青年がオートバイにまたがっている。はじめ、映画『イージーライダー』か、『モーターサイクル・ダイアリーズ』の一場面かと思った。なぜか切り抜いてあった紙面を取り出してキャンプションをあらためて読むと、二人はショーン・フリン、つまりエロール・フリンの息子と、その友人のダーナ・ストーンの四十年前の姿であった。二人はベトナム戦争の報道カメラマンであったが、戦火がカンボジアに広まった七〇年に、クメール・ル―ジュのゲリラを追って、無人の荒野をオートバイで疾走して行ったまま、行方不明になったという。
 記事は、やはり戦場カメラマンであったティム・ペイジ氏が、ショーンらの遺骨を四半世紀の長きにわたって捜し続けていることとその心のうちを伝えている。それはショーンの彷徨える魂にやすらぎの場所を与えるだけでなく、ペイジ氏自身の、あの戦争の意味を問う心の旅路≠ナもあるようだ。ショーンらが行方不明になったとき、ペイジ氏は地雷による負傷で生死の間をさまよっていたと語っている。氏は英国に生まれ、フリーランサーとしてライフ誌やルック誌(なんともなつかしい名前だ!)等を活動の場としていたそうだ。氏には骨の埋まっている場所の見当はついていて、ショーンは行方不明から一年は生き延び野戦病院で毒物を注入されて死んだと確信しているようだ。
 一九七〇年は、報道者にとっては大変な時で、この記事によれば少なくとも三十七人が、カンボジアで死亡または行方不明になったと伝えている。
 一方、アメリカの元ABCテレビのカメラマン平敷安常さんの『キャパになれなかったカメラマン――ベトナム戦争の語り部たち』によれば、七〇年の死者、行方不明者数は二十七人であるが、このうちなんと日本人は最多数の八人で、そのうちの何人かは処刑によるものだった。
「カンボジアの前線を取材するのは、ベトナムの前線を取材するより、比較にならないぐらい危険度が高かった。」とあり、毎朝プノンペンの情報省の中庭にできたテント張りのコーヒー店で出会う仲間たちについて「競争相手であっても、お互いに元気な顔を見ると、『アイツはまだ生きている』『コイツも元気そうだ』と、安堵に近い気になったものである」と述べている。
最後の方に「生き残った者の罪の意識」という章があり、それを「SURVIVOR'S GUILT」と言うそうである。私にも……その症状があった」と記している。また映画『キィリング・フィールド』は実話であり、そのモデルと出合うシーンもある。
 ショーンも、わずかではあるが登場する。平敷氏はいう。「戦争は誰にでも公平に機会を与える。ショーンもダーナもその機会を掴み取って、ジャーナリストの名声を得たが、その代償は大きすぎた」と。
 新聞にある二人の最後の写真≠撮ったのが平敷氏の仕事仲間であり最大の目標≠セったというテリー・クーというシンガポール人だ。そのクーのベトナムでの最後の取材と死を描くくだりは、涙なしには通り過ぎることが出来ない。一九七二年クーは、この戦争は、我々が命をかける価値はもうない」と主張し「ベトナムを離れろ」と平敷氏に強く助言する。自分もドイツへの転勤が決まり、結婚の日も近かったのだが、最後の最後に自ら強く希望して最前線へ向い、北ベトナム兵の銃撃を受けて死んだ。
 自分の周辺の記者やカメラマンの姿を追いつつ、戦場そのものを活写したこの書はキャパの『ちょっとピンぼけ』と並んでジャーナリストを志す若者には必読の書であろう。第四〇回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。著者の平敷氏には私もベトナム取材の時お世話になったことがある。もの静かな人だったが、淡々と語る最前線の話には、ワクワクし、おそれおののいたものだった。その後お会いすることはなかった。この本に出合い、それが賞を貰ったことは私にもうれしい出来事だった。

 ショーン・フリンは、若き日の父よりハンサムで輝いており映画に出たこともあったそうだ。父エロールは一九六〇年に死んだので息子の事件は知らないわけだ。それだけが救いのようではある。今は遺骨が早く見つかってその霊が天国で父親(どんな父親だったかは知らないが)とも出合えることを祈るばかりだ。



  骸骨を洗ひ涼しくしてやりぬ   小原啄葉

        (句集『不動』の一句 東京新聞 「正木ゆう子・俳句月評」より)



補・エロール・フリンにフェンシングを教えたのは「タイガー・モリ」という日本人であったと、昨年の秋ごろ東京新聞の「筆洗」が作家の早瀬利之さんの文を引きつつ書いているのをいま思い出した。この一年間に、こう何度もフリンの名前を活字メディアで見るとは、やはり彼は大スターに違いない。





その34 
 大災害その2 『ガンバッテ!』

 頑張ると言う言葉は使い勝手の良い言葉で私もつい使ってしまうことがある。しかし、あまり好きな言葉ではない。我を張るということから来ているらしい。高度成長を象徴するガンバリズムなんて言葉は辞書にも載っている。また、眼張るとも書いて見張りをするという意味でも昔は使ったらしい。
 3月11日以来、毎日、テレビで聞かされている。英語には何と訳されるのかと思って英語ニュースのテロップなどを見ているとグッド・ラックとか、ドゥ・マイ・ベストとかハング・イン(hung in)とか、ケースバイケースでの使い分に苦労していたようだ。
 そのうちに、世界の人々が被災者への心あたたまるメッセージの中で、ガンバレ、ガンバッテクダサイと日本語で使い始めたのである。そうなると、私の耳にも心地よく響き出して来たのである。ではあるがしかし、あの大惨事に会った人たちに向かってはやはり使いづらい言葉だ。
 話はまるで変わるけれど私はゴルフ亡国論者なので、NHKの7時のニュースでゴルフを取り上げるのをいつも腹立たしく思っていた。それもオーガスタとかセント・アンドリュースとかならまだしも、国内のどうでもいいような、それも日本選手がサンタンタル成績の競技などを伝える必要があるのかと憤慨していたのである。ところが、19歳の石川遼選手が、今年獲得する賞金をすべて東北の被災地にカンパするという話を聞いて、すっかり感心してしまい、遼君が登場するとじっとテレビ画面を追うようになってしまった。ガンバレ、遼君!
こういう場合なら素直に使える。亡国論を取り下げるわけではないが。
 


  朱の鳥居残して街の亡くなりぬ  ひでを






その33
 大災害その1 『かわいそう』

 石原慎太郎都知事の東日本大震災に関する天罰発言が批判されている。さすがに傲岸不遜のこの知事も後に発言を撤回し、謝罪したそうだ。言語道断のことだ。
 ところで天罰発言の際、知事は「被災者の方々は、かわいそうですよ」とも述べたという。これを伝えた同じ3月15日付朝日新聞朝刊の文化欄には阪神大震災を経験した精神科医中井久夫さんの「忘却こそ被災者の危機―『誰かいてくれるだけで意味』」という一文が載っている。その中に「『気の毒、かわいそう』という言葉は逆に反発を買うこともある。『わかってたまるかという気持ちもある』」という下りには、思わずはっとさせられた。
 被災者をいたわるつもりの一言でも、相当の想像力を働かせねばならない。
 やはり15日付の東京新聞には、先のニュージーランドの地震で恋人を亡くした女性が「『頑張って』と言わずに、ただ手を握ってあげてほしい」と語ったことを紹介している。(『筆洗』)
 この発言にも、また頭を低(た)れるばかりだ。


 
 洗顔の水有難し阪神忌   小路智寿子






 
その32 「生きるもののかなしみ」

 あれほど吃驚することはそうそうあるものではない。たしかに逢魔が時(大禍時)ではあった。三浦半島の借家の手前の小さいが急な坂をてくてく登っていた。
寒い日だというのに白いパンツだけしかはいていない裸の婆さんが、裏の薮から、突然、現れたのである。そして、ちらりと私を見返すと急に四足になって家の裏に逃げた。人間でないことはすぐ分ったが、一体あれは何だ。
 お茶を沸して、気を静めるうちに、あれは、毛の全く抜けてしまった狸か狐であるという結論に達した。二十年ばかり前、この家を借りたころは狸がよく来た。夜、物音がするので壊中電灯で照らすと、いくつもの目が光っていたものだ。
山の方の開発に追われて人家の近くまで下りてくるようになったらしかった。そういう中に一頭、相当、毛の抜けた奴がいた。動物好きの友人に聞いてみると飼犬や飼猫の餌をうばって食っているうちに、犬や猫の皮膚病が移って毛が抜けたのだろうという。また、別の友人は、市販の餌に使われている薬のせいではないか、野生動物はそういうのにヨワイのだ、ということであった。そんなわけでこの婆さんと見たのは、毛の全く抜けた狸と結論づけたのであった。しかし、あのパンツは何だ。だれがはかせたのだ!
 その形は、昔の女学生のはいていたブルーマーみたいなのだ。深夜に至ってパンツをはく≠フはく≠ヘ漢字で穿く≠ニも書くことに気がついて、ようやく推理することができた。新漢語林をみると「つついて穴をあける」とまで書いてあった。
腹を空かせた哀れな狸は、捨てられたビニール袋を食い破って、次の袋に移り、また底を破り、それを繰り返すうちに、ビニールがなにかに引っ掛かって腰に至った。というのがわたしの推理なのだ。
 これは数年前の出来事であるが、以後、借家の周りで狸を見ることはなくなった。冬の句会の後で、季語である「狸」や「狐」の話に及んだので、この話を披露したのである。ところが仲間の一人が「スーパーマーケットのビニール袋を、洋服の代わりに全身に纏ってる人がいる」と言い出し、「何かの思いが、そうさせているのだろう」とつけ加えた。
 それを聞いて、皆、黙ってしまった。



 罠ありと狸に読めぬ札吊りし  村上杏史
 



その31 「人も歩けば……」

 ようやく冬の寒さとなって夕日が美しい。それにひかれて散歩に出掛ける。腰を痛めているので超ゆっくりで行く。すると今まで気付かなかった、いや目は見ていたのだが、意識に及ばなかったものをいろいろ発見する。
 猫に餌をやるな、やるならちゃんと管理しろ、という掲示を張り出した家があった。しばらく行って川沿いの道に出ると、今度は「この地域の猫は不妊・去勢済です。一時期は10匹以上いましたが、亡くなったり、里親がみつかりひきとられたりで現在は4匹になりました。エサの管理、そうじなどもしています」とあり、猫の顔と名前が描いてあった。さらに連絡先の電話も記されていた。偉い人がいるものだ。感服してしまう。
 車の通らない道をなるべく選んで行くが、車が通らないところは犬連れがやたらに多く犬臭いのには困ったものだ。猫はネコババだから良いが、犬というやつは自分のマンションで糞をするように躾けられないものか。路上の糞を持ち帰ればすむというものではあるまい。ワン公用トイレ付マンションというのはないのだろうか。犬臭さには糞害(ふんがい)に堪えない。
 いつもの公園に行く。芝生の内が解放されているので、ヨチヨチ歩きの子どもがたくさんいる。
 しばしベンチに憩う。それから、急な階段を登り、丘の上のきわめて小さい公園で落日を待つ。日はビルの上に落ちるけれど、時に大夕焼けに出合う幸運もある。幼児用の小公園の隣りはりっぱなマンションである。最近まで気が付かなかったのだが、そのマンションの裏木戸(金属製の柵だが)のような所の横にきれいな金属板がはめ込まれていた。そこには公用道路・歩道状空地≠ニあり、「歩行者が日常自由に通行又は利用できるものです」といういかにもお役所らしい言葉づかいの掲示板であった。「又は利用」ともあるけど、歩行以外何をしていい、といっているのだろうか。そこはマンションの前庭という感じの所で高い塀のある、つまり眺めの悪い空間であった。しかしここを利用すると急な階段をおりてまた急な坂道を上らずに散歩が続けられる。だが、利用できる時間は午後5時まで。変な話だ。冬は分るが、夏は利用する価値はなさそうだ。
 ところで、今日は、この道の中に別の掲示板を見つけた。そこには「ここはマンションの敷地内である……挙動不審の者は警察に連絡する」とあった。そして防犯カメラ作動中とも書かれている。
 なにやらマンション建設時のつくり手と役所のやり取りが想像できて興味深い。
 挙動不審という言葉の広がりを考えながら、ぶらぶらと街の中に入り、呑み屋街の周辺を歩いてみたが、さすがに師走、皆忙しそうでそれらしい人は見当たらない。山茶花の咲く道を辿って家の近くに帰ってくると犬に吠掛けられた。大谷石の上の垣根越しに執拗に吠える。どうもテレビのコマーシャルにお父さん≠ェ登場して以来、犬がやたらに威張りだしたようだ。最近、バスに乗ると、「お年寄りは、明るい服装で交通安全を心掛けるべし」とくり返しテープが流れるので夜目にもハデなジャンパーを着ていたのが、お父さん≠ノは気に入らなかったのか。あるいは、正月まであと数日になっているのにぶらぶらしているのは、挙動不審に見えたのであろうか。



  猫下りて次第にくらくなる冬木   佐藤 鬼房







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