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白菜がぐーんと値下がりして鍋の季節となった。わたしは鍋大好き人間である。具と味をちょっと変えれば毎日でもいい。だが本命は鱈ちりである。それにはポン酢が一番いい。
昔、大阪に居たころ気に入っていた店があった。同僚と出掛けて上司批判でおだを上げるには、少し高級すぎるのでそうしょっちゅう通ったわけでもない。カウンターだけの店なので満席の事もよくあった。大阪を離れてからも、出張で行くことが多く、帰りの日は新幹線の最終までこの店で過した。何でも旨かったが、今ごろだと甘鯛を店先で寒風にさらしたのなどが特に思い出される。
いつからかは忘れてしまったが、毎年暮れになると自家製のポン酢が送られてくるようになった。ブランデーの瓶などに入れられてあった。何年かして瓶がそれらしいものに変り、紙のケースに入るようになったから店で売るようになったのかもしれない。あるとき、
「うちのポン酢は甘いでっか」
と聞かれたので、
「はい、甘いです」
と答えてから、
「でも、それも大阪の味ですなー」
とつけ加えると、おやじの口元が少しなごんだ。が、それ以上は何もいわない。口数の少ない人だった。
定年後もポン酢は届いた。ある時京都まで出掛けたので足を伸ばして魚を食いに寄ったのだが、その時、わたしも定年になり大阪に来る用もなくなったので、折角だけれど暮れのご気遣いはご無用に願いたい、と言ったことがある。すると、おやじは、
「あれは、わたしが勝手にやっていることで、店に来られようと来れまいと関係ありません」
とぴしゃりといわれてしまった。
それで毎冬このポン酢でちり鍋を楽しんでいたのだった。それが一昨年から届かなくなった。病気か不況で店を閉じたのだろうかと心配だが、東京から電話して、もし店をやっていたら、ちょっと気まずいことになろうかと思い、大阪に行ったら電話しようということにしたまま、その機会なく、年がまた変ろうとしている。
相変わらず鍋をつついてはいるが、ちょっと淋しい。
又例の寄鍋にてもいたすべし 高浜 虚子
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人生のうれしさはどきりとするほどのすばらしい本に出合った時だ。その本は20年以上棚の一番下に眠っていた。そこに置かれるまでにすでに30年ほども経っている。半世紀以上、一度も開かれたことがないわけだ。1966年刊行のヘンリー・ミラー全集(新潮社)のなかのギリシャ紀行、『マルーシの巨像』である。『北回帰線』や『セクサス』などは拾い読みしたが、この本の記憶は全くない。古本屋に出そうと思いながらちょっと眺めていて、ずるずると引きづり込まれた。ミラーの考え方にかならずしも同調するわけではないが、作品は重厚にして迫力に満ち、その饒舌は奔馬の如く飛び回って、昂奮のうちに一気に読み進んでしまう。ギリシャ(人)賛歌であり、アメリカ的文明への痛罵である。
引用して紹介したいと思った所に付箋をつけてみると30箇所にもなり、一つ一つの段落がきわめて長いのでそれは不可能であるが、段落の一つ二つを、無謀にも(中略)を入れつつ写し取ってみた。
――人間の心から殺意が消え去らない限り、平和が訪れることはないのである。殺意は、自我という基盤の上に築かれた巨大なピラミッドの頂点なのだ。そのピラミッドを打ち壊さなければならない。人間が人間として生きて行くためには、いままでそのために戦い続けてきた、あらゆるものを捨て去らねばならないのだ。今日に到るまで人間は病める動物だったのであって、人間が持っている神に似た部分でさえも悪臭を放っている。人間は多くの世界の支配者でありながら、自分自身の世界では奴隷なのである。世界を支配するものは心であって、知能ではない。(中略)私はエピダウロスで、その静寂の中で、その大いなる平和の中で、世界の心臓の鼓動を聞いたのだった。(中略)それは、われわれの小さな心臓の鼓動を世界の巨大な心臓の鼓動と一致させるために、すべてを諦め、放棄し、屈服することなのである。
大昔に、世界の隅々からエピダウロスを目指して長い旅路の果てに寄り集まって来た、おびただしい数の人々は、そこへ到達する前に既に病気が癒っていたのだと、私は思う。不思議な静寂に包まれた円形劇場の中に腰をおろして、私は、自分がこの平和に満ちた医療術の中心地へ辿り着くに到るまでの、長い廻り道のことを思い起こした。(幾野宏氏訳)
ミラーは観光案内には、ぶっきら棒でエピダウロスそのものについてはほとんど説明がない。それで十分なのだが、ちょっとお節介な案内をすると、ここは医神アスクレビオスの神域で、古代最初の病院といえる場所。治療は奇妙なもので、いけにえの動物を殺した後、患者は毛皮を巻きつけて眠り、見た夢を神官が解釈して、治療法を指示する。という解説が萩野矢慶記氏の『ギリシャを巡る』(中公新書)に出ている。
円形劇場は前四世紀後半に建てられ、ほぼ完全な形で残っている(同書)。私は、そこを訪れた時ずいぶん疲れていたが、一万四千人収容という摺鉢の最上階に登って、底の舞台で新聞紙をまるめる音が十分に聞えることを確認した記憶がある。
ぶっきら棒といえば、『マルーシの巨像』のマルーシ(Maroussi)という言葉はタイトル以外にはこの書のどこにも出てこない。だいたい想像はできる。それで十分ではあるが……。調べてみると、金澤智氏の新訳が水声社から二〇〇四年に出ていた。その解説に「二〇〇四年、オリンピック・スタジアムが建設されたので、マル―シはにわかに馴染深い地名になったかもしれない。アテネ郊外のこの町は、アマルシオンとも呼ばれ」とあり、本文ではアマルーシオンとなっている。ここに住む一人のギリシャ人の友人を示しているのである。
ヘンリー・ミラーがパリからギリシャに行ったのは1939年。この後、10年ぶりにアメリカに帰り国内を旅行して書いた『冷房装置の悪夢』の方はアメリカ文明に対する憎悪と罵倒に満ち満ちている。
『マルーシの巨像』の中でもミラーが嫌悪の情を持ったのは、アメリカ帰りのギリシャ人でアメリカを誉めたたえる人たちばかりである。
燈火親しむ山犬の長鳴く頃 山口誓子
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河の船旅は楽しい。海とちがって揺れないのがいい。ずっと船に泊れば荷物を詰めたり、開いたりする必要がない。サンクトペテルブルグからモスクワまでのツアーに参加したのは一昨年の九月半ば、白樺が緑を残しつつ金色に輝くころだった。
河の水は汚い。モスクワ方向から流れてくるので無理もない。しかし、行き交う船は少なく、波も立たないので金色の白樺は川面に美しく映り、それが両岸とも延々と続く。夕日の中では、いよいよもって泰西名画となる。
一日に一回位、陸に上がり、奇妙な形をした教会や壮大な修道院跡を見物して楽しいが、しかし、夜はどうしようもない。夜景はまったくない。船は闇の中を走り続けるばかり。時に閘門があり興味深いが、20ヶ所以上もあると飽きてしまう。同じロシアの反対側のアムール河でも汽船に乗ったことがある。この時は二人の仲間と一緒だったので、毎晩酒を飲んで語り明した。星もすばらしかった。一人が闇商人とおぼしき男からイクラを買ってきた夜は大いに盛り上がった。
この度は一人である。で、夕食が終ればバーに行くしかない。小さな円いスタンドの中にフルシチョフのようなおっさんが一人立っている。アシスタントは大学生で美男子のアレクセーと美人のクリスティー。分かりやすい英語を話す。船には日本人の他にはカナダ人、ドイツ人、オーストラリア人の団体客がいたが、このスタンドで相客がいたのは一晩だけだった。アルバイトはサロンや客室へ出前に行く。ある時、アレクセーが暇そうにしていたので、
「プーシキンより後でソルジェニーツィンより前の、君達若者に人気がある作家は誰か」
と聞いてみた。すると、
「レールモントフ」
と即座に答えた。高校のとき、受験問題でレールモントフと関係深い日本の作家は誰か、などというくだらん問題が出たのをおぼえている。作品は『現代の英雄』一つしか知らない。黒海とカスピ海の間のカフカスの紀行文のようになっている。美しいところらしい。チェチェンがロシアからの独立戦争を始めた時、新聞に盗賊集団のような国≠ンたいな解説記事が載ったのであきれてしまい、ちょっと読み直したことがあった。あの辺の民族はそうたやすく他国の言うままにはなるまい、という印象を改めてもったのだった。果たせるかな闘争はまだ続いている。『現代の英雄』の舞台はチェチェンではないが、「チィチニヤ人は、盗人で素寒貧ではあるが、そのかわり向こう見ずですわ」「勇ましいやつらですよ!」と、チェチェンの保塁に十年駐屯したロシアのベテラン将校がしゃべる場面がある。(北垣信行訳・筑摩書房)
わたしの質問は、プーシキン美術館やあちこちの公園の銅像を見た翌朝、ガイド氏がすばらしい森と草原を見ながら、プーシキンの愛したところだと言ったのが心に残っていたのと、ソルジェーニツィンより若い作家の名前なんか全く知らないから聞いてみただけである。
アレクセーの答えにちょっとびっくりしたのは、偶然船に持ち込んだ古い文庫版の一冊にチェホフの『決闘』があったからだ。チェホフの小説はハッピーエンドだが、プーシキンもレールモントフも共に決闘で死んでいる。それは罠で決闘させるようにしむけた貴族たちがいたといわれている。プーシキン38歳。レールモントフにいたっては27歳で死んでいる。
フルシチョフ氏が日替わりで壁に貼り出す今夜のカクテル≠フその夜は「ロシアンルーレット」であった。アメリカ映画『ディアハンター』にも登場した、一発だけ弾の入った回転拳銃の弾倉をくるくる回して男たちが交互に自分の額にむけ引金を引く勝負事だ。
カクテルの方は予想通り血の色をしている。そう強くはなかった。
「オレを殺さんでくれよ」
とフルシチョフ氏にあらかじめお願いしていたので少し薄めにしてくれたのかもしれない。それを呑みながら、また、血なまぐさい話を思い出した。『虎狩りごっこ』というゲームである。衛藤利夫『韃靼』(中公文庫)に出てくる。帝政末期かロシア革命からそう時間が達っていないころの話だと思う。図們江が日本海にそそぐ辺りのロシア人の守備隊だけが駐屯している僻地。悪事をなして懲罰的に都を追われ孤独地獄におち入った軍人たちは大酒を飲み、バクチにふけったあげく、タイガー倶楽部≠ノおしかけてゲームを始める。虎組と猟師組に分れ、虎組から選ばれた一人は首に鈴をつける。ローソクが消されて、靴を脱いだ虎は部屋の中を静かに逃げる。固唾をのむ桟敷の人たち。合図と共に猟師に選ばれた者がピストルを撃つ。弾が外れると今度は猟師が虎になる。そして次々に人が入れ替り、かくして、虎が死ぬか、所定の回数がくりかえされるとゲームは終る。死人が出れば海に捨てられる。巡視兵が死体をみつけても、「一将校の武器取扱いの不注意」の報告がなされるだけで全て終り。これは、シベリア中心地から西部まで広がっていた遊びだという。
金を賭けたのかどうかは記されていない。バクチでないとすれば、いよいよもってすごい。究極のニヒリズムということであろうか。
シベリアを探査したポーランド人の採録した話の一つという。
ロシアの大詩人から、飛んでもない所まで、思いは飛んでしまった。悪い夢をみては大変、それで寝酒には非常に甘いというのでコケモモのリキュールを飲むことにした。しかし、これも真っ赤な色をしていた。
プーシキンの愛せし秋の中にをり ひでを
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植物好きという人々にも二派あることに最近気がついた。植物でも樹木の方が好きで庭木などを大事にする人々。片方は草花が好きで春夏秋冬よく手入れをする一派である。
というのは、私の息子夫婦の住んでいる小さな家は放っておくと、ものすごい勢いで草が茂ってきて文字通り草庵≠ノなる。で、シルバーセンターの人に来てもらうと、一日半ばかりで、見事に草を抜いてくれる。草花にくわしくて、これは抜くのはもったいないから残しましょうなどと教えてくれる。この夏、茗荷をみつけ、秋口になったら茗荷の子が沢山取れますよ、というので楽しみにしていた。ところが、その後に入った植木屋さんがこちらが言い忘れたので仕方がないのだが、すべて抜いてしまった。前々から多少は気がついていたのだが、植木屋さんにとっては草というのは軽蔑の対象であるらしい。日本の名園といわれる所では草花というのはあまり重視されていないような気がする。
私の父は庭木派で、暮しは豊かではなかったが、家を建てて引っ越しすることになった時、あとで分って驚いたのは、庭木の一部をよそに土地を借りて保管≠オていたのである。いまもその木は健在であるが、どうっていうほどのものではない。昼めしの時はいつも庭の木々を眺めながら食べていた。
これに対し、母の方は草花派であり、庭の真ん中に花壇をつくっていた。終戦直後の食糧難の時代となると草花派ががぜん力を発揮してきた。母の実家は農家ではなかったが、どこで情報を取ってくるのか、庭は畑と化していくし、隣の独居の爺さんと話をつけてその庭を開墾してジャガイモ畑にしたのである。手伝わされるのはヒマな小学生の私一人である。父の大事な藤棚も南瓜にのっとられた。父は不満であったが背に腹はかえられずである。さらに座敷の前の花壇にも南瓜が植えられ、これを廊下の上のトタン屋根まで這わした。夏の朝、起こされるとハシゴから屋根に上がりつつ受粉をさせられるのである。蜂の代わりであるが、より確実である。さらに、トタン屋根が熱くなると南瓜の下に藁か、それがなければ新聞紙などを敷くのも私である。
毎朝となると面倒ではあるが、その結果を見るのは楽しいものではあった。軒の下にぶら下がった奴は、支えが必要だがあまりの重さに茎が割れて液が出てきたことがあった。ちなみに絆創膏を貼ってみたら見事に繋がった。結局、ひと夏に100箇くらい採れた。今、店頭でみるのよりはるかに大きいものだった。だから、年を越してもまだ残るほど我が家の重要な食糧となったのである。記憶力のよい姉に念のため電話してみると86まで数えたおぼえがあるがそれ以上は覚えていないという。
しかし、どちらかというと私は樹木派である。高校生のころ垣根の正木を木鋏で刈り込んでいたら、自転車に乗ったおじさんが通りかかって、垣根を打ち眺め、「君はどこかで修業したのかね」と聞いた。風体からみてたぶん植木職人だったと思う。これで得意になって何年かやらされることになった。しかし、今はもう、脚立のてっぺんに立つことなど出来ない。
今年の秋、かなり大きな南瓜をもらった。しばらくの間、一週間ほど眺めてから食した。今の南瓜はどれもおいしい。ある作家が「戦後南瓜ばかりいやというほど食わされたので、今は決して口にしない」というようなことを書いていた。けれど私は恩には恩をもって報いなければならないと思うので、そんあ不遜なことはいわない。ハロウィンの提灯にするなども、もってのほかである。もっともあれは、とても不味い種だそうだが……。
吾が在るは南瓜の恩といはれけり ひでを
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燈籠流しを見に行くことになって、思いは再びベトナムに飛んでしまった。
米軍基地の門を出るとき、スティアリングを握る水兵はピストルに実弾をこめて座席の上に置いた。そして闇の中を突き進んでいく。すごい悪路だ。灯火は禁止されているが人の気配はある。水兵はやたらにスピードを上げる。早く私とカメラマンを報道人用宿舎に放り込んで帰りたいのだろう。南北ベトナムを隔てる十七度線に近いドンハの基地からの輸送機が数時間遅れて、ようやくダナンに着いたときは街はもう真っ暗だった。そして海軍(ネービィ)タクシーと呼ばれるジープに乗せてもらったのである。
疲れていた私は、大部屋の中の指定されたベッドにひっくり返ると靴もぬがず、足をベッドから食み出させたまま眠ってしまった。一時間ほどで目を覚ますと、隣のベッドに坐っていた少年のような記者が、握手を求めてきた。「ボストンから来た」と言ったように記憶する。食事時間は終っているがバーは開いているというので「一杯呑もう」と私がいうと、
「翌朝、前線に行く部隊に従軍するから……」
と残念そうにいった。
そこへカメラマンが飛び込んできて、
「おい、冷房付きの部屋のベッドを二つ確保したぞ」
という。
カメラマン同士のツテが繋がったらしい。やれ、うれしやと部屋を出る私達に、少年記者が実にうらやましいという感じで、寂しく笑ったのが忘れられない。
アメリカのテレビ局の三段ベッドの最上階≠ノ私は寝かされた。子ども用のように柵などない。そして高くてでかい。だが、なんといっても冷房がありがたかった。そこに横になっていると、カタカタという機関銃の発射音が聞こえる。橋を渡る輸送部隊が川の水面を撃ちながら走っているのだそうだ。つまり、夜はベトコン(解放戦線)の天下なのだ。時折、遠くの砲撃の音が腹に響く。バーの方ではまだ酔っ払いの大声がする。乾杯してはグラスを背中越しに投げて割っている。永き別れ≠ネのだろう。
今のダナンに戦争を思い出させるものは見ることがなかった。そのすぐ隣りの町ホイアンは、中世、日本人街があったことで知られ、古い家並みは世界遺産となっている。そして、二つの町とも大リゾート地帯になっているらしい。ツアーで泊まったのも、そういう立派なホテルだった。晩めしのあと、川に面した亭で星を見ながら、「ハバナクラブ」を呑んでいた。客はだれもいない。静かに風がくる。と、赤、青、黄の灯籠が流れて行った。船に曳かれているらしい。隣りのホテル(といってもずいぶん離れているが)の特別ショウのようであった。
初めは、どうもハデハデな燈籠だなと、多少の違和感があったが見ているうちにだんだんと心にしみ込んでくるものがあった。おそらく、闇の深さが美しくさせるのであろう。
ホーチミン市の戦争博物館には、外国人カメラマンによるたくさんの戦場写真が壁面を埋めている。サワダ≠フ写真を始め、よく知っている写真も多い。そんな中に、行方不明になった報道人の顔写真を集めたコーナーがあったのが印象深かった。多くの者がロバート・キャパを夢みていたのであろう。
当時、アサヒグラフの記者だった私は一本の企画のためだけにベトナムへ行ったので滞在したのは二週間ぐらいだった。マニラで大きな地震があったので予定を早めたのだと思うが、そこで再入国のビザを取ることが出来た。すでに噂されていた解放戦線のサイゴン入域、南ベトナム政府陥落の日に立合いたかったのである。しかし、そう簡単に戦争は終わらず、私にはそのチャンスはなかった。
さまざまな思いをのせて流燈は、また一直線になると支流の闇に消えていった。私はもう一杯の酒を注文した。
流燈やベトナムの河闇深き ひでを
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