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今年も相馬の野馬追のニュースが新聞に載っていた。花火と共に打ち上げられる神旗を騎馬武者たちが奪い合う祭りを、人々は酷暑を忘れて見物したであろう。この勇壮なシーンはテレビや写真などでよく紹介される祭りのハイライトではある、けれども、三日間に渡る祭りの面白さは、この合戦≠セけでなく、いやむしろ、町に騎馬武者があふれ、日常とかけ離れた空間を作り出すことにあると、私には思われる。
もう数年前になるが、友人宅に二泊させてもらって祭りを堪能した。
常磐線原ノ町駅に降り立つと、すぐに馬糞の匂いに包まれた。気分は脚先から勇み立つのであった。夕刻になると公園で作戦会議が開かれたり、大将出陣式が行われたり。見物人はビールでいい気分である。
海が近いだけにうまい晩めしをご馳走になって眠ったのだが、翌朝、まだ6時前だというのにカツカツという蹄の音が聞こえてきた。飛び起きてパジャマの上からズボンとシャツを着け、音を立てぬように玄関を出た。
すると、鎧甲の騎馬武者が私の方に馬を進めてきた。真近で正対するとやはり馬はでかい。目玉は実にでかい。何事かと思っていると「馬の行列がここを通りませんでしたか」と武者は聞くのであった。「伝令」と書かれた布をぶら下げている。ちと心許無い伝令であった。
町のあちこちに、こういう風景があり、やがて一本の行列となるらしい。みな格好いい。騎馬の数はざっと五百。遠く乗馬クラブから運ばれてくる馬もいるが、半分くらいは近在で、この祭りのためだけに飼われているという。
「『馬と怪我は自分持ち』といって、結構大変なんですよ。休日は海岸で練習してます。趣味で馬を飼うといっても金持ちというわけではなく、市役所の職員やサラリーマンもいますよ」
と友人はいう。
たいしたものだ。騎馬の大行列は、雲雀ヶ原に集まる。ここでは競馬も行われるが、これも旗指物を背負って走るので大変である。そしてハイライトの合戦となるのである。甲冑は古いものが多いようだ。
祭り三日目には神社の境内に駆け上がってくる裸馬を素手で捕まえるという、一風変った行事も行われて興味深い。
あれは昨年だったか、神田明神の大祭を見物に行き、大行列を見ていると、この相馬の騎馬隊に出会った。神田明神とどんな関係があるのかと、しばし考えたのだが、平将門の末裔と名乗る一族が奥州相馬を領したと何かに書いてあったことを思い出して一人合点したのだった。
後日、『平将門伝説』(村上春樹著汲古書院2001年刊)という研究書を見ると将門が天女の羽衣を奪って妻とし三人の男の子をつくったとか、江戸時代には「相馬の金さん」という落語のようなものまで生まれるほど将門人気が大いに高まったなどなど、面白い話が実にたくさん記されている。調査は秋田青森から佐賀熊本まで及んでいる。
福島県の「相馬野馬追い」の項には「平将門が下総の小金が原で野馬を追い、軍事訓練として始めたことに由来するといわれる。」とある。
馬は楽しい。中学一年の夏休みに、九州の母方の田舎に一人旅したことがあった。毎日、夕方になると隣の農家の馬に乗せてもらった。裸馬に座布団を敷いて一人でまたがると隣家の兄ちゃんが後ろからムチで馬のお尻を叩くのである。ある日、どういうわけか馬が暴れ、落馬して頭を打った。あとは記憶がうすれ晩飯にハマグリ入りのカレーライスを叔母が作ってくれたことを思い出しのはずいぶん夜も遅くなってからだった。ぼんやりしていたに違いない。この様子を見て、訝しんだのだろう、落馬の一件はすぐに叔母の知るところとなり、以後乗馬は禁止された。私の頭もそのころから悪くなったらしい。
野馬追の帰りは鞍に児を乗せて ひでを
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サッカーの得点のすべてが奇跡だという。たしかにW杯ほどの試合となるとそういう気分になる。ところがPK合戦となると得点できないことがサプライズになる。先のW杯でオシム前監督は「あれはサッカーではない」と言ってPK合戦による日本の敗北をなぐさめてくれた。しかし、これで勝敗は決まってしまうのである。ならば常日頃から訓練しなければなるまい。それに観客にとって、この蹴り合いはスリル満点である。
そこでJリーグのすべての引き分け試合にPK合戦を導入したらいいと思う。ただし、引き分けは引き分けのままにしておいて、PK合戦で勝った方にボーナスポイントをあたえるのである。5人で蹴って全部成功し、相手が4本の成功に終わったら0・1のボーナスだが、相手が二つ落としたら0・2とする。最高0・5までになる。サドンデスは0・1のみだ。
花札に似てカスの札でも沢山集めれば勝者になる可能性のある面白さがある。南半球のラグビー王国、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドのプロ・チームによるリーグ戦「スーパー14(フォーティーン)」では、ボーナス制はすでに採用されている。
ところで、先のW杯の新聞報道ぶりはまるで戦争でもやっているような騒ぎだった。いや、これはたしかに戦争≠ネのだ。この戦争≠ネらいくら熱狂しても結構。本物の戦争にくらべれば大したことはない。しかし、国家間の対抗心があまりに高まると、怖くて審判などする人はいなくなるのではないか。やはりレフリーの判断材料としてビデオを採用すべきだと、門外漢は愚考するのである。
それにしても、本物の軍事大国や戦争好きの国々は、なぜサッカーはこうも弱いのか。
きっと人間の闘争本能をスポーツに昇華する装置≠ェ整っていないのであろう。
生きてゐる間のことぞ明易し 川村敏夫
(朝日俳壇=2010年7月12日より)
{2010年7月18日一部訂正}
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東京築地の魚河岸に外国人の観光客がやってくるように、どこの街でも市場は面白い。薪を割るように大鉈を揮って獣の肉を骨ごとぶった切るハバロフスクのロシア人、頬が赤くて可愛いサマルカンドの石榴売り、無口で無愛想なボストンのクラムチャウダーだけを売る立食い店のおっちゃん。みな楽しい旅のモンタージュだ。
ベトナムの市場の商品の詰り具合はハンパじゃない。店の天井から床まで積み上げられ、すごい匂いを放っているのはスルメだ。どの店もこんなあんばいだから、マグニチュード2か3がくれば総崩れになりそうである。ちょっと広い露地に出たと思ったら盥の中の大きな魚がはねてズボンに水をかけられた。地べたに並ぶ野菜の種類は私の知識も想像力も超えている。
ベトナムの南部では米は二期作どころか三期作、今や輸出国だとガイドさんは胸を張る。ちなみに米の値段は最低のもので1`20円〜30円、最上のもので1`1米ドルだと二人のガイドさんが言った。ホテルのバーで、「ハバナクラブ」の瓶をみつけて、やっとここは共産主義の国であることに気がついた。
だからベトナムの人が猫を食うとしたら、それは飢餓のせいではないだろう。
旅行ではよく食べ物が話題になる。これだとケンカにならないからいい。(いやなる場合もある)。そんな中でまず犬料理が話題になった。ま、これは良く知られるところだ。明治のころ中国から来た要人に「閣下は何がお好きか」と尋いたら「犬だ」というので日本の名犬を贈ったら「ご馳走さま」という礼状が来た、なんて話を聞いたこともある。ソウル五輪の際は「犬料理はけしからん」と西欧の人たちが言い出して問題にもなった。しかし、猫となると……
「ベトナムで猫を食べるというのは本当です。ボクは食べたことはないけど」男は強調した。机以外の四つ足はすべて食べるという中国との関係が深い上、民族が54もあるとのことだから、あるいはと思うけど、昼間、道教の寺に寝そべっていた猫は、おびえている風はなかった。この種の話はにわかに信じてはいけない。
若い頃スペインに憧れていろんな本を読んだが、その中に「バスク人は猫を食う」と書いてあるのを見たことがあった。念願叶って仲間三人とスペインに行ったとき、バスク人のガイド(パリからの国際列車がスペイン領に入ると車内を回り始めた)にこの事をぶつけてみた。すると「とんでもない」といわんばかりに、首を振って、きっぱりと否定したあと、バスク人と日本人の先祖は同じだ、という説を持ち出してきた。髪黒々として茶色の目を持つ美人だった。
以来何十年して、ベトナムで猫を食う話にぶち当ったのであるが、まぁ適当にあしらうことにした。
ところがである。帰りの機内で、ベトナムの可愛い女子大生の隣に座ることになった。日本語も相当うまい彼女は「挙句」という言葉を勉強していた。そのテキストを見せてくれたので、「発句」に対して「挙句」というんだと元の意味を説明してやったのだけれど、自分でも、くだらんことを教えているという思いになって、食べ物の話に変え、例の猫を食う話をもち出してみたのである。そしたら「わたしも食べたことある」と事もなげにいうのであった。私は仰天してしまった。「そんな話は日本ではしない方がいいよ」といったら、「だけど日本人は鯨を食べるでしょう」と、丸いリスのような目玉をくりくりさせて、逆襲してきた。子猫のようにすばしこく、頭も相当に切れそうである。この時、私がびっくりしたのは猫を食ったということより、鯨を食うということがこの子には猫を食うことよりはるかに異常に思われているらしいということであった。文化の衝突とでもいおうか。
こういう衝突を初めて気付かせてくれたのは、昭和41年に出版された鯖田豊之氏の『肉食の思想』(中央新書)である。フランスでの宴会で血だらけの豚の頭が出たが、「これは残酷だ」と思ってナイフを入れられない「私」を笑っていた、フランス人のご婦人が日本人は小鳥を食うと聞くと「あんなやさしい可愛らしいものを食べるなんて、なんと残酷な国民でしょうか」と言ったという一文である。今、ほこりだらけのこの新書を繙いてみると、この個所は竹山道雄氏の『ヨーロッパの旅』からの引用であった。
友人に言われて山口文憲氏の『香港世界』(86年刊ちくま文庫)を読んでみると『犬鍋の宇宙――対話1』の章に、
「――香港ではそれ(犬鍋)が非合法であるとか。――そうです。少なくともイギリスが香港から引揚げる一九九七年までは。もちろん猫もダメです。ほかに、最近は野生動物もほとんどいけないのですが、その野生動物を中国人は「野味」と称して珍重しますから、ここに文化摩擦が生じます。「野味」のカテゴリーには、大は熊・鹿から、小は犬・猫・蛇まで含みます……とある。
また『猫枕の夢』――対話2」の章では……
中国本土の珠河デルタの石岐という街で、メシ屋の店頭に大きな板が立てかけてあり、その一面には、いま剥いだばかりの猫の皮が大の字になって四、五匹分、裏面には同じくヘビの皮がヌメッと拡げて張ってある。「当店では龍(ヘビ)・虎(トラ)・鳳(トリ)の豪華スープをやってます」というデモンストレーションらしい……」とある。
この白髪三千丈的表現をみて私ははたと気がついた。虎の骨は本場の漢方で珍重され、中国等で密猟が絶えないというニュースが時々日本の新聞にのる。だからきっと猫が虎の代わりになっているのかもしれない、と!?
一方で、鯨食いのことであるがメルヴィルの『白鯨』には、二等航海士のスタップが抹香鯨をあげて得意になり、その夜、大機嫌で尾の身のステーキを食う場面がある。しかし、相伴に預かったのは仲間ではなく鮫ばかりであった。また「ご馳走としての鯨」という一章があり、小ぶりの抹香の脳味噌が美味とか、「三世紀」ほどまえのフランスではセミ鯨の舌は珍味とされ、高値をよんでいたとか、ヘンリー八世の時代には、ある宮廷料理人がイルカのバーベキューにあう絶妙のソースを発明して結構な報奨金を獲得したとか、また「今日まで」イルカはよく食されていて肉団子にするとすこぶるうまいなどと様々に書かれているが日本の鯨文化についての記述は見当たらない。メルヴィル先生がもし百(ひゃく)尋(ひろ)(腸)やおでんの囀(さえずり)(舌)のうまさと共に、ヒゲで作ったセンマイを使ったカラクリ人形などの日本文化を知っていたら、このアメリカの国民的遺産である『白鯨』に一章以上を加えたにちがいない。
百尋を食ひ底なしの濁り酒 ひでを
(佐世保の市場に連れて行って百尋を教えてくれたのは故井上光晴さんであった。)
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サイゴンの夜。街はすでに外出禁止令の時間帯に入っていた。事務所でうまいウィスキーをご馳走になっていて遅くなってしまったのだ。ビルの玄関を出ると、教わった通りカメラマンと二人、両手を上げ、壁に背中をつけてカニのように歩く。二、三軒先のホテルのロビーに入り、酔った米兵がピストルを撃ってできたという穴のあるエレベーターに乗り込めばひと安心だ。――――。
それから40年ばかりたった今、サイゴンはホーチミンと名を変えているが、道を歩くのはやはり大変である。今度はバイクの洪水なのである。ホテルの前の道は一方通行で二車線ほどの幅だが、守衛に誘導してもらわないと渡れない。ひとりで出掛けたとき、行きはホテルに横付けしているタクシーに乗って行くから問題ないのだが、帰りのタクシーはホテルから道をへだてた向こう側に止まる。守衛がいないから運転手にチップを渡して、向こう岸≠ヨつれて行くよう頼む。そして肩を抱かれるようにして対岸≠ノ着いたものだ。
ガイドによると、バイクの流れに身を乗り出す時は、ゆっくりゆっくり歩くのがコツで、決して走ってはいけないという。大通りの交差点には信号があるが、青だとしても歩き出さず次の青がくるまで待ち、その間あたりの情勢を伺い今度は慎重かつ急いで渡らねばならない。
それで、観光バスの中からよく気を付けて見ていると、この国の人は街をぶらぶら歩きする気はないようだ。つまり、銀ぶらはないのである。どこに行くにもバイクである。後ろと前に子どもがひとりずつは当たり前である。大人の女性の五人乗りも見た。そのバイタリティには感心してしまう。
ハノイでも状況は同じである。水上人形劇というなかなか面白いショーを見た後、ようやく街をぶらぶらした。時間が遅いせいか、バイクは少なかったが、今度は商品が店の中から雪崩のようにせり出してきて、歩道を埋めつくしている。人は車道の方を歩くことになる。そんな道にも屋台があって、フォー(うどんに似ていてうまい)などを売っている。風呂の腰掛けのような低いイスに坐って食べるのだが、なかには大きな鍋を囲んでいる一族郎党らしい一団もいた。
一度、店はみな閉ってひっそりした通りに出たことがあった。すると、どこからともなく品のない男たちがやってきて日本語のワイセツ語をささやくのである。「お兄さん」「お兄さん」と呼びかける女たちも出てきた。で、逃げ出そうとすると、今度はあやしいオートバイが寄ってくるのであった。
都会にはフランス統治時代の建造物も多く残っている。その一つが旧サイゴンのマジェスティックホテルである。バーからのサイゴン港の夜景がすばらしいというので出掛けていった。たしかに、なかなかのものである。一杯10万ドン(500円位)のカクテルと川風を楽しんでいると、たしか昔この近くに水上レストランがあったことを思い出した。はじめてサイゴンに着いた日、会社の先輩たちが、歓迎会をしてくれた。日が暮れてくると川の上に照明弾が花火のように揚がる。
「今日は、君たちを歓迎してようけ揚がりよるなぁ」
と一人がいった。そのとき、カニや鳩の料理も出た。
今、あのゲリラ戦争に思いを馳せると、いささか不気味な料理だったという気持になる。
照明弾なきサイゴンの旧正月の月 ひでを
テ ト
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目薬はどうさすのが正しいのか。そんなことはどうだっていいだろう、薬がちゃんと目に入るなら、と今まで気にもとめなかった。私は10近く、毎日毎日、照る日も降る日も目薬をさし続けてきた。それも1日2回から4回、種類も2種類から4種類である。にもかかわらず、わたしのさし方は間違っていたらしい。
薬局でくれる薬の壜の大きさにはほとんど差がない。それを今までは親指と人差し指でつまみ、目の上でぎゅっと押して入れてきたのである。この春から薬が変り、貰った新しい薬には小さなパンフレットが添えられてあったのだが見もしなかった。ところが、宿酔のかったるいある朝、そのパンフレットが本の間からこぼれ出てきたので、何気なく読んでみると、壜は親指と中指ではさみ、目の上で壜の底を押せとあった。さっそくやってみるとなるほどうまく行く。目から滴が外れることが非常に少ないのである。そんなことは目じゃないという人があろうが、今まで気がつかなかったという事が私には不思議でしょうがなかった。目から鱗である。心の目は点になったのである。これからは薬の注意書きは目を皿にして読まねばならぬ。目に仏なしにならないようがんばらねばならぬ。でないと目の正月がやってこないではないか。
しかし、考えてみると自分では当然と思っていることが、全くの錯覚だったり、あるいはずいぶん外れていたりということは良くあることだ。いい年をして、道は遠いのである。
若葉して御目の雫ぬぐはばや 芭蕉
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