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「弥太一」とは豆腐一皿に酒一合、また居酒屋のことと前回書いた。「ああ甘露々々、一本生のこんな酒は弥太一では呑まれない」という歌舞伎のセリフが日本国語大辞典に載っている。では、安酒場では一体いくら位で呑めたのか。酒には卑しいもんだから気になる。
竹内誠監修、市川寛明編の『一目でわかる江戸時代』(小学館刊)によると、4文を100円とするのがひとつの目安で、幕末のインフレ期を除くと江戸時代の物価上昇はきわめてゆるやかだったそうだ。そんな中で酒一合8文、これが居酒屋に行くと20文から32文とある。
北原進著『百万都市江戸の生活』(角川選書)によると、享和元年(1801年)ごろ、上方や東海地方から江戸へ下ってきた酒は年平均約80万樽、関東地方から集まるもの(つまり下らぬ酒!)が11万樽、計90万樽以上にもなる。いずれも四斗樽として計36万石。これを100万人で割ると1人1日1合となる!下戸や子どももたくさんいるわけだから酒好きだけの呑む量は相当なものになる。さらに、江戸の市内で生産していたのも結構あったはずと著者はいうからいよいよもってすごい。
一方、豆腐の値段の方だが、小野武雄編著『江戸物価事典』(展望社昭和54年刊)には京大阪に比べて江戸のは大きく、たて一尺八寸、横九寸の箱でつくったものを十丁に切って、一丁56文から60文。四半丁(4分の1)が14文〜15文だった。残念ながら厚さは記されていない。がこれが現在の小型の豆腐にあたるだろう。ついでに、焼豆腐、油揚1箇5文。がんもどき8〜12文。これが居酒屋でいくらになったかは分らない。
同書によると文化七年(1810年)の春は鮪が大漁で、飯のおかずに24文ばかり買うと二、三人で食べても余ったという、うらましい話が引用されている。また「一般には、鰹や鮪の刺身一人前50文〜100文」という三田村鳶魚の記録がのっている。
握り寿司は、卵焼き、車海老、そぼろ、鮪、いろいろあって一つ8文。どじょう鍋48文〜200文。
江戸庶民の生活というとよく野菜を天秤棒でかつぎ売り歩く棒(ぼ)手振(てぶり)の一日の収入と支出が提示されるが、先の『一目で見る……』はきれいに色分されて家計が載っている。600文で仕入れた野菜の九割が売れた場合の売り上げは1300文。ここから翌日の仕入れ代、家賃一日分の積立て、米味噌……等を引いて行く。わたしが特に興味を持ったのは子どもの菓子代。これが12〜3文。
桜餅一つ4文。串団子一串3文〜5文(『江戸物価……』)だから子どもは結構豊か≠セったといえるだろう。銭を握って一文菓子屋(駄菓子屋)へ走る姿が浮かんでくる。
さて、支出を差し引いて、手元に残るのが200文ばかり。これをどうするか。雨の日や病気に備えて蓄えるか。弥太一に行くか、思案のしどころだ。
テレビの時代考証にその名をよく目にした稲垣史生氏によると居酒屋ができたのは宝暦年間(1751〜64年)だそうだ。店構えは入口に縄暖簾を下げ、中に入ると床几(携帯用の椅子ではなく茶店と同じ長い板の台)に腰かけて呑む。テーブルはない。ところが、柱行燈がやたら暗くて他人の盃に酒を注いでしまうほど。これなら立呑みの方がいいわけだ。中央に食台を置き、空樽を椅子にするようになったのは幕末近くなってからだそうだ。『すぐそこの江戸』(大和書戻刊)
その呑み方から、居酒屋とそこで呑む人を「矢大臣」といった。理由は諸説あるようだが、雛人形の矢大臣のように腰を掛けている随身の姿に似ているから、というのが江戸っ子的で面白い。
ところで、100文とは1文銭何枚か、ご存知だろうか。百枚に決まっている!これが違うんだな。なぜか96枚だった。だから97枚だと101文になる。なんで〜と!先の『一目でわかる江戸』にはそういう習慣があったとだけ書かれていて物の値段が4の倍数になることが多いとしているが、北原進氏は「……96という数は二や三の倍数で割り切れるから、十進法では気付かなかった便利さがあったはず」とし、中国にもこうした数え方は昔からあったと記している。
田楽に舌焼く宵のシュトラウス 石田波郷
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ある俳句雑誌の投句欄に「弥太一」という言葉を使った句が載っていた。不明にして知らなかった。辞書には出ている。「豆腐と酒一合」だそうだ。それを出す店(居酒屋)をも指す。
なんでこんな言葉が生まれたのか、何冊かの辞書をあちこち引っくり返してみると―――もともとは、女房言葉で豆腐のことをお壁≠ニいったことから始まる。豆腐が白い壁に似ているというわけだ。次に源義経配下の武将。岡部六弥太が登場する。岡部(オカベ)から、豆腐を六弥太というようになったというのだが、これほどの武将を食い物にするとは江戸庶民の感覚というのはすごいものだ。
『平家物語』の有名な〈忠度最期〉に六弥太が登場する。
歌人でも名高い武将・平忠度(薩摩守)は、都を落ちて行くとき、一人馬を返して、師の藤原俊成卿に歌を託す。そして、一の谷で討ち死にするのだが、忠度を討ったのがこの六弥太である。能『忠度』では、若き公達(実際は40才)である忠度が六弥太を取って押さえ、刀を手にかけようとした時、六弥太の郎等が「御後より立ち回り、上にまします忠度の、右の腕を打落せば、左の御手にて、六弥太を取って投げ除(の)け、今は叶はじと思し召して、そこを退き給へ人々よ、西拝まむと宣ひて……」とお祈りするところを六弥太が首を打ち落す。そして箙(えびら)に短冊が付いているをみつける。そこに「行き暮れて木の下陰を宿とせば花やこよひの主ならまし」とあったという。
それから、豆腐となった六弥太は煮売りが盛んになるとその代表格となり、煮売酒者は六弥太酒屋とも呼ばれたそうだ。煮売宿もあったというからイギリスのパブみたいなものだったかもしれない。しかし、ロクヤタなんていうのはまどろっこしいってんでヤタだけになってしまった。店に入るなり「ヤタイチ、くんな」なんて言った方が江戸っ子らしい。
わたしは初め弥太一は「豆腐一丁、酒一合」と思い込んでしまったのだが、これは間違いで「豆腐一皿、酒一合」が正しいようだ。『江戸東京学辞典』(三省堂)によると豆腐の大きさは現在の四倍はあったそうだ。で、いくら位だったのかは、目下調査中なので次の回に。(これがなかなか難航している)
こんなことを書いているうちにお多幸(おでん屋)のあの、煮しめたような豆腐が食いたくなった。そして、もちろん銚釐(ちろり)のまま出てくる熱いお酒。あまりに空腹の時は先に茶飯をすこしお腹に入れるのがわたしの流儀である。
サルトルもカミュも遠しおでん酒 ひでを
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正月、テレビをつけて仰天した。正岡子規が大金持ちの爺さんになって大邸宅のソファにふんぞり返っているではないか。爺さんはすぐに鳥籠を背負った乞食同然の若者に変る。若者が腰をおろす、いや腰を落っことすたびにホコリが舞い上がる。これはなんだ?「坂の上の雲」は、はや「龍馬伝」に変っていた。日曜日の同じ時間帯に同じ役者が別の役柄で登場するなんて頭が混乱してしまうではないか。ま、ドラマは結構面白いので文句はないのだが、「坂の上の雲」の方はどうなってしまったのか。電話のついでに知人に尋ねてみると、3年かけてしかも暮れだけ放映するのだという。ずいぶん変な話だ。
これではZ旗をかかげて始まる日本海海戦―NHKのことだから鳥瞰的撮影を駆使するだろう―の場面が放映されるのはわたしが生きているかどうかも分からないほど先になってしまう。
それから2日ばかりして、わたしは部屋でぽかんと一枚の絵図を眺めていた。これは新聞紙大の色美しいもので航海時の旗と綱の結び目( Nautical Knots & Flags )が描かれている。アメリカ文学史上の最高傑作『白鯨』の舞台として名高いニューイングランドのナンタケット島に行った時に鯨博物館で買ったものだ。なんとも複雑な結び方があるものだ。帆船の帆はすべて綱で操作されるから、綱の結び方を船員は熟知していなければならない。ヨット乗りや釣舟の船頭さんなんかがクルクルと紐をたくみに回してすばやく結び目をつくるのを見ているといつも感心してしまう。
旗の方は国際信号のABCのアルファベットを表すもので実ににぎやかな色使いである。Z旗のZは、この日、初めてじっくり眺めたのだけど4色で長方形の旗に対角線を二本引いてできる四つの三角形のうち上の逆三角形( ▽ )が黄色。下の三角形( △ )が赤。そしてロープに近い方の三角形が黒、その反対側が青である。もちろんZなんて文字はどこにもない。日本海軍はこのZ旗に有名な「皇国ノ興廃……云々」という独自の意味を付与して戦闘開始の際「三笠」にひるがえらせたわけだ。
また、この絵図のABCには通信用語が記されている。日本語の「朝日のア」「上野のウ」「切手のキ」のようなもので、Aはアルファ、BはブラボーCはチャーリー……。Fはしゃれていて、フォクストロットである。Jがジュリエットなので、Rはロミオと思ったら、これが大当り。さて、最後のZはというとZulu(ズールー)?。はてさてこれだけは分らない。辞書をみると南アフリカ東部に居住するバンツー系の民族の名称で19世紀初頭に強力な軍事力をもち王国を形成したとある。なるほど。
それからしばし大海原に思いを馳せ、そういえばバルチック艦隊ははるかに南アフリカを回ってきたのだったな、などと考えていた。そこへポトリと音がして夕刊がきた。さっそく一面から読み始め、ページをめくると又仰天した。かなり大きなカラー写真があり、アフリカ人の男女2人が毛皮の民族衣装で踊っている。そして見出しだけをひろうと「南ア大統領5人目の妻と結婚」「すでに3人の子」「6人目と結納も」「『男女平等獲得の歴史に反する』批判も」とある。(1月5日東京新聞)
そして、なんたる偶然か、このジェイコブ・ズマ大統領(67歳!)の出身がズールーだというのである。記事によればズールーでは伝統的に一夫多妻を許し、法律も容認しているという。アパルトヘイトに抵抗して27年も獄中生活を送ったあのわが尊敬するネルソン・マンデラの国のことなんである。
「坂の上の雲」について述べようとしたのだが、話はとんでもない方向に行ってしまった。これすべてNHKのせいである!
金州の南門見ゆる枯野哉 正岡子規
永き日や驢馬を追ひ行く鞭の影 正岡子規
なき人のむくろを隠せ春の草 正岡子規
子規は日清戦争に従軍している。その時の作品(和田克司著「子規」より)
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久しぶりに早稲田大学の構内を通った。大学近くの居酒屋で同窓会をやるというので、地下鉄で降り、飯屋の多い通りをぶらぶらして、昔、文学部のあった所から入り、甘泉園(今は少し離れた場所にある)側の門へ抜けようというのである。
日没には少し間があって銀杏の黄葉がすばらしかった。早稲田に銀杏がこんなに沢山あったなんて知らなかった。なにしろ、わたしがここに通っていたのは半世紀も前のことだし、銀杏はまだ小さくて目立たなかったに違いない。それに学生たちが悪いことをした時など、テレビが映し出すのは大隈重信の銅像の所と決まっているが、その回りには銀杏は少なくて印象が薄いのかもしれない。
靴底に落葉の感触を楽しんでいて、ふと司馬遼太郎さんが「大学は私学に限りますな」といわれたのを思い出した。その時、「なぜですか」と聞かなかったことを後悔している。その場では分った気になってしまったのだろう。居合わせた5、6人の編集者のだれもがそういう問いを発しなかった。「それは当然」と考えたのか、あるいは司馬さんの言葉をずっと追っている人たちだから、すっと頭に入ってとくに聞く必要を感じなかったのか、今となっては分からない。ホテルのバーでの楽しい炉話≠フ風景の一コマである。亡くなられる一年ほど前のことだったと記憶する。
先日、2001年から2年にかけて新潮社から出版された『司馬遼太郎の考えたこと』(全15巻)をパラパラめくっていたら、次のような文章に出会った。
「入学(大阪外大蒙古語科)してみたら、ひどいことになった。勉強ばかりで、小学校なみに予習復習をしなくてはついていけない。もう一度やり直しがきくとして、大学に入るとしたら、早稲田あたりでのびのび青春を楽しみたいと思う」
週刊誌のアンケート『大学受験なんかこわくない』に答えたものだ。司馬さんが大阪外大へ入ったのは「国立で受験科目に数学がなかったのは、こkだけだったから」だそうだ。同書の『バスクへの盡きぬ回想』の中では「このつめこみ勉強に耐えるには、年少者だけが持ちうる柔らかい想像力の皮質を封じこめておくほかなかったが、私は勉強をなまけただけでなく、その封じこめさえ怠った。私は、小さな妄想家だった」と書いている。そして時代は「戦争屋が権力も思想界も壟断していた」のだった。
まだ銀杏の輝きの中にいる。女子学生が多いせいか、構内はいよいよ華やかだ。文字通り青春の最中である。校舎も実に立派になったと感心したのだが、しかしわたしの通った学部はどうも昔のままのように見えた。これはけしからん。差別ではないか、と思ったのだけれど、考えてみればこの学部は教室だけあれば足りる、いや誰も勉強したなんて話はきかないから教室さえも必要ないのかもしれない。教室よりサロンやアゴラの方がはるかにいい。わたしは「何を勉強すべきか」と考えただけで四年間を過してしまった。
筑紫哲也さんは、「この大学のいいところは、学生を放っておいてくれたことだ。大学が何もしてくれないから、自分たちで何んかやろうという気になる」というようなことを言っていた。また、東京外大を出た元会社の同僚は「大学という所は変った面白い奴が多いほどいい。早稲田は学生がすごく大勢いるから珍しいのも多くて楽しいだろう」と言っていた。動物園は大きいほど珍獣も多いというわけだ。
司馬さんに「早稲田あたりでのびのびと」と言わせたところを見るとこの学校はなかなかに外面(そとづら)が良くて得をしていると言えそうである。
蹴散らしてまばゆき銀杏落葉かな 鈴木花蓑
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叩かれて残る蚊を吐く木魚かな
という句をこしらえてしまった。「それは夏目漱石先生のパクリではないか。けしからん」すぐにも罵声が飛んできそうである。では、次の二つの句のうち、漱石先生のはどちらでしょうか?
叩かれて昼の蚊を吐く木魚かな
叩かれて蚊を吐く昼の木魚かな
上の方が漱石、下が大田南畝(蜀山人)だそうである。「昼の」の二文字がづれただけだけれど情景はずいぶんと変ってくる。
話は飛ぶが、最近、半身浴というのが流行っているようだ。戦前にくらべ日本人の平熱は一度以上も下がっているという。これを元に戻せば腰痛をはじめ、健康疑いなしということであるらしい。さっそく試してみることにした。毎日40度の湯に20分つかろうというのである。だが、退屈きわまりない。ラジオはなかなかうまく時間が合わないし、新聞はぬれて読みにくい。本はフワフワになってしまう。まことに困ったものである。そこで思い出したのが「風呂で読む」という本のシリーズ。出版元の世界思想社に問い合わせ、数冊取り寄せてみた。
なるほどこれはよろしい。(合成樹脂で出来ているので将来にわたりうっかり捨てるわけにはいかないが……。)そのうちの一冊、石井和夫著「漱石の俳句」を読んでいて漱石の「叩かれて……」に先行する南畝の句を知ったのである。石井和夫氏は「……あるいは、(漱石は)嘗て読んだ記憶が潜在して、それと知らず偶然同様の句を発想したのかもしれない。……南畝の先駆性より漱石の特徴を端的に示す句として知られるが、十七文字の詩型は反復の伝統をおのずから生む」と書いている。流石、漱石、なにしろ「漱石枕流」だからな、なんて思っているうちに汗滂沱、あわてて風呂をとびだすと、秋の蚊が一匹現れたという次第なのである。
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