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蝉の幼虫が、土の中で長い年月すごすことは知られてるが、一番長いのは何年かご存知だろうか。答えは17年ジャスト。このジャストが問題なのである。アメリカ北部にだけいる蝉で17年に一度、1平方`にもならないきわめて狭い地域に現れ、二、三週間すさまじい声で鳴き交し死んでいく。そしてあと16年間は、同じ所に現われることはなく、シーンとしている。
この蝉年≠ノ当ると家の中でも電話で話ができないほどだという。なにしろ平均すると一b四方に40匹にもなるというからすごい。しかも、遠くに飛んで行くこともなく、固まって子どもをつくるのである。また、南部には13年ゼミがいる。
といって、これらの蝉が、ある年一斉にアメリカ各地に現れるわけではなく、17年蝉は17年間のうち12年それぞれの決まった場所に生れる。一方、13年蝉は13年のうち3年だけ、どこかの村や町を騒がせるわけ。あとはシーンとしている。
ところでなぜ、13年と17年なのか。その不思議を解き明かしたのが、吉村仁・著、石森愛彦・絵の『素数ゼミの謎』である。
「あなたは『セミの会』なのだから読みなさいよ」といって、俳友の吉田明子さんが呉れたのだが、見たところ子どもの絵本のようだったので、放っておいて忘れてしまった。今、日本の蝉たちの声を聞きつつ読み出したらこれが極めて面白い。2005年に文芸春秋から出ているのでお読みの方もおられると思うが、遅まきながら紹介したい。しかし、素数などを持ち出されるとひっくり返ってしまう私なのでうまくゆくかどうか疑問ではあるが――。
2億年も前の恐竜時代にはすでに地球上にいた蝉はさまざまな時代を生きのびていた。およそ三百万年前のアメリカの蝉は地中で6年から9年ほどの幼虫時代を過ごしていたのだが、そこへ氷河時代がやってきた。植物の生長も遅くなり、根の水分も減ってきた。かくて蝉の幼虫時代はどんどん長くなり、北部では14年〜18年、南部では12〜15年かかるようになってしまい、絶滅してゆくところも多くなった。
しかし、盆地とか暖流の流れている所とか比較的暖かい所もあった。そういう避難所を「レフュージア」と呼ぶのだそうだが、そこで蝉はわずかに生き残ったという。さて、仲間の数がへった彼等が子孫を残すためには、ばらばらに地上に出てくるより、ある年いっぺんに出た方が、交尾のチャンスが多い。かくて北部のレフュージアでは17年に一度、南部のレフュージアでは13年に一度、せーのと一斉に出て、あとの十六年間(南部は十二年間)シーンとしていることになった。なぜ。13年と17年なのか?それが、著者の考えついた「素数の力」の論理なのである。
初めのころは、14年蝉、15年蝉、16年蝉、17年蝉、18年蝉といたと思われるが、発生周期の違うオスとメスの子どもは発生周期がめちゃくちゃになってしまう。もともと数が少ないのに生長が速かったり遅かったりして周期とずれて出てきた子どもは交尾する機会が減ってしまうわけ。13とか17という素数は、他の数とのあいだの最小公倍数が大きい。例えば、6と8の最小公倍数は24、それより小さい数なのに5と7では35となる。また、二つの数の片方が素数であっても最小公倍数は大きくなる。
蝉の羽化する周期に当てはめると素数蝉の羽化は素数でない周期の蝉と重なることが少ない。17年蝉と16年蝉が同時に羽化するのは272年に一回、17年蝉と18年蝉では実に306年になる。素数蝉でない者同士の16年蝉と18年蝉では144年に一回、16年と15年蝉とだと90年となる。この周期の大きさのズレが何万年何百万年もの間に、17年蝉だけが生き残れることになった理由という。南部ではそれが13年となった。つまり幼虫の成長の度合いとは関係なく仲間と同じ年に、仲間のたくさんいるという極めて狭い場所で同時に羽化し、そこで卵を産むようになったわけだ。
では、19年ではどうか、ということだが、氷河時代を乗り切って生きる幼虫には18年が限界だった、という。
以上、お分かりでしょうか。分からない! そういう方は、この本を本屋さんでさがすか、図書館に行って下さい。
聞くうちに蝉は頭蓋の内に居る 篠原 梵
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「夏晴れ」に船のどよめく蝕の朝 柴田鉄治
玉砕の島にやさしく蝕の影 柴田鉄治
会社の先輩である、科学ジャーナリストの柴田鉄治さんは、今年もツイていた。硫黄島沖できれいな皆既日食を見たのだそうだ。1963年の網走から数えて実に十一回も日食を追いかけ、九勝二敗だという。皆既日食を見ることができたのが九回、雨や雲に泣いたのが二回という。今年は奄美大島に行くつもりだったのが、こちらは満員。で、小笠原にしたのが大当たりだった。
網走行きは仕事だったけれど、その時の「夢の中にいるような」「身の震えるような」感動が忘れられず、定年をはさんで、休暇が取れるようになってから、皆既日食の追っかけ≠始め、91年のハワイからブラジル、モンゴル……と続き、2003年には南極まで行っている。
今回、わたしはNHKのテレビの中継を見ていたが、やはり小笠原近くの船から撮影されたものがすばらしかった。カメラが海の果てを360度ぐるりと回して見せた夕焼け≠ノはびっくりだった。月の影から外れた光は、海上はるかの雲をピンクに染めている。なるほど、そういうものか。
実は網走の時は、記者二年生のわたしも取材に行っていた。なにしろ、この機を逃すと次に日本で見られるのは、46年後、つまり今年2009年というのだから、天都山という丘には大勢の人が来て、水平線をみつめていた。その人たちから一斉に歓声が上がった。太陽が出たのだ。その型は、黄金の牛の角≠ニ柴田さんが新聞で表現したものだった。その角がずんずん伸びて細い三日月となり、やがてコロナの輝く黒い太陽、朝が夜に戻ったのだった。感動的ではあった。しかし、わたしの感動はそこで止まっている。それで柴田さんの俳句を見せてもらった次第です。
ところで、この日、行われた高校野球の地方大会では日食対策に大わらわだった所もあったそうだ。熊本や福岡では照明灯を点灯したという。これ、ちょっとおかしいんじゃない?せっかくのチャンス、球場の上ではどのくらい日が欠けるか、どのくらい暗くなるか、試合を中断して、生徒たちに体験させればよかったのではないか。試合のリズムが狂うということもあろうが、ラグビーと違って雨ならば中断もあるのだし、時間もはじめから決まっていることだし……。
それに「応援の生徒たちは、日食グラスをつけて空に目をこらしていた」(7月23日、朝日新聞)そうだ。スタンドがこれなら選手たちも落ち着かないだろうし、ファールボール直撃の危険もあっただろう……と思う
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梅雨……テレビドラマの中で、刑事を待ち続ける若い新聞記者が濡れている。拘置所の窓に激しい雨が見える――『刑事一代〜平塚八兵衛の昭和事件史!』を見た。大きな広告をあちこちで目にしたので、これはてっきり映画だと思い込んでいた。それで第一日目の帝銀事件を中心にした方は見逃してしまった。
第二部は「吉展ちゃん誘拐事件」(1963年3月31日発生)がメインだ。主演の渡辺謙を初めすごい役者がこうも揃うと、さすがに迫力ある作品になるものだと感心した。テレビドラマはめったに見ないわたしも最後まで堪能した。
ただ、友人の一人は、帝銀事件の犯人を獄死した平沢貞通と決めつけているのはおかしいという意見であった。東京新聞 放送&芸能 ページには、中島淳一さんという方が、「天国の八兵衛刑事」に「平沢さんは本当に犯人だったのですか?」とうかがってみたい、と投書されていた。また、「取調べ室のシーンは、足利事件の菅家利和さんのことを考えて、つらくなった」とも書いておられた。
吉展ちゃん事件には思い出がある。写真週刊誌に「あれから」というページがあり、「大きな事件のその後」を追うものだった。吉展ちゃん事件は、未解決のまま二年近くが経って迷宮入りがささやかれていた。「その捜査本部の今を取材しろ」というのが記者になって二年目、文字通り駆け出しのわたしに回ってきた。八兵衛さん登場のかなり前だったと思う。その拙稿にデスクが付けたタイトルが 犯人は必ず浮かんでくる というようなものだった。下っ端記者にはどこか面映い感じで、先輩記者から「浮かんでくるのはいつごろかね」なんてからかわれた。
犯人の小原保が要求し、奪った金は50万円である。吉展ちゃんの家にはいくつものニセ電話――心ないいたずらか、便乗電話か――が掛かったが、身代金の金額が一番低いのが真犯人のものだったと記憶する。
平塚八兵衛さんに事件解決後に一度だけ話を聞いた。渡辺謙の演じるように迫力のある人で、インタビューの冒頭「なんで、そんな分かり切ったことを聞くのだ」とガツンとやられた。それで「あなたの口から直接聞いていないものを、あなたの話として書くわけにはいかないので…」と言うと、「フン」と言ってから、後はくわしく色々のことを話してくれた。歯に衣を着せぬ言い方で、捜査のつまづきを鋭く批判していた。
1965年(昭和40年)7月5日の朝日新聞によると、吉展ちゃんの家に刑事から「犯行一部自供」の報が伝わったのは7月4日の夜。続いて8時ごろテレビのニューを見るように連絡があり、5日の明け方に遺体が発見されたとある。
その4日の夜、わたしはあるテレビ局にいた。長門裕之、南田洋子夫妻の現在とは違って愉快な夫婦ぶり をのんびり取材していた。同じ局に沢村貞子さん、加東大介さんも出演していると聞き、一門いっしょの写真を撮るということになった。二人はすぐにオーケーしてくれ、加東大介は廊下を走ってきてくれた。『七人の侍』を彷彿させる律儀さだった。
吉展ちゃん事件の急転回が伝わると、局内に慌しさが広がった。そのことを貞子さんに言うと、突然、
「あんた、若いんだから、わたしたちなんぞに構わないで、すぐ現場に行きなさい」
と、わたしは 命令 されたのである。で、その言葉にすぐ従い、報道陣でごった返す吉展ちゃんの家に駆けつけたのだった。
この事件を思い出すたびに、目を大きく見開き、唇をちょっととんがらせたような貞子さんの表情が思い浮かぶのである。
三浦半島のいつものバーで、この原稿を書きつつ、主人に沢村さんのマンションはどれかと尋ねると、外に出て指さしてくれた。そして、「この店に来たこともありますよ」と言った。
一度だけしか会わないが、しかし深い印象を与えてくれた人を多く持っているのは、長く週刊誌記者をした者の 特権 であろうか。
昏れてゆき昏れてしまひぬ梅雨の海 五所平之助
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「やぁ、最近は走っておられるのを見掛けませんでしたので、お体でも悪くされたのかと思っておりました……」
「いや、ちょっと南米の方へ行っていまして」
「ほぉ、南米へ。で、あちらでも走っておられたので?」
「ええ、オリンピックに出まして」
「ほぉ、それはすばらしい。で、ご成績は?」
「おかげ様でメダルをいただきました」
「いや、これはこれは、結構でした」
で、何色のメダルか?と聞こうとしたが、信号が青になり、「では、失礼」というとご近所らしいが名前も知らぬ青年は笑顔で走り去った。ま、それは明日か明後日か、ひと月後か、また朝の散歩の途中に交差点で出会った時に聞けばよいこと――。
これは勿論つくり話だが、オリンピックというものは、まぁ、この程度の話でいいんでないの。記録更新なども百年に一度位で……などと石原知事の“強弁”を聞きつつ思った。
昨年8月3日の朝日新聞の「声」欄に池田理(おさむ)君という小学生の投書がのっていた。理君の家はテレビを処分してしまった。兄さんの高校受験もあり、テレビのない生活に挑戦。理君は毎朝5時半に起きて毎日じっくりと新聞を読むのだそうだ。新聞記者なら泣きたくなるような投書だった。ただ、「一つ残念なのが間もなく始まる北京五輪が映像で見られないことだ。競泳の北島選手など、テレビを通じて日本選手を応えんしたい思いもある。テレビ画面にひけを取らない臨場感あふれる記事と写真が楽しみだ。」と、投書は結ばれていた。
一年後のいまも理君は早起きして新聞を読んでいるのだろうか。
菫程な小さき人に生れたし 漱石
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その11
「[衝撃の再録] 寺山修司さんに話したかった話 |
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昔、週刊読売に「ゲリラの眼」という連載があった。大変奇抜な着想で、毎週読むのが楽しみだった。その一つに「衝撃の再録」というのがあって、最近の若い記者の記事はさっぱり面白くない。よってわたしが前に書いたものをそのまま再録する、というような¢O文があって薩摩男爵=i大金持ちの御曹司、パリ社交界などで放蕩三昧、その名を高めたが、やがてステンテンになったという日本男子)の話が載っていた。この再録≠ニいうのを私も真似てみたいと思いつつ果たせずにいた。今試みる。ぜんぜん衝撃≠ナはないか……
「アサヒグラフ」別冊『昭和短歌の世界』(1986年12月20日刊)より
寺山修司さんがアサヒグラフにピクチュア・エッセイ「街に戦場あり」を連載したのは昭和四十一年で、二十代のわたしがその担当編集者だった。その頃わたしは競馬に熱中していて、寺山さんはその道の先生でもあった。人情競馬論といわれるあの独特の馬に託した人生論は楽しかった。
以下の話は、寺山さんに一度しようと思っていてついにその機会を失ってしまったお話です。
一枚のボロボロになった馬券が定期入れの中に今も入っています。十五年も前の益田市営競馬の百円券で、紙はペラペラ、パンチつまり小さな穴で「1・03・12」とつづられています。正確にいうと昭和四十六年度第九回第一日第三レースの12連複馬券なのです。0007と意味ありげな番号が打ってあるのは七枚目に売れたという意味でしょう。
島根県益田市にある競馬場は実にのんびりしたところで、馬場の中はラッキョウ畑とブドウ園になっていました。ずいぶんと沢山のヒバリがいたのに驚いた記憶があります。客は二千人も入ればよい方でコースと観客席の間に公道が通っていました。バスや自家用車の向こうを馬が走るわけです。
一着賞金なんと三万五千円を賭けて行われたそのレースで12を買ったのは、予想屋の口上にいたく感じ入ったからです。
「なにが来るかはともかくだ、1と2の馬券だけは絶対にいらないよ。いいかね、この一番の馬はいままで農耕馬だったんだ。その初めてのレースだ。分かるかね。益田がいくら田舎の競馬でもれっきとした市営の競馬だ、いくらなんでもきのうまで畑を耕していた馬が勝つわけがない。絶対にいらない。それから二番は十九歳の馬だ。ただの九歳じゃないよ。人間じゃあるまいし、この二頭は無視してよろしい」
これは面白いと、この二頭に百円を投じたのですが、もちろん大穴にはなりませんでした。
……それだけのお話です。
寺山さんにこの「事件」を聞かせればきっと奇抜なドラマに仕立て上げてくれるにちがいないと信じて、馬券を大事に定期入れにしまっておいたのだが……どういうわけか会っているときはいつも忘れてしまっていた。考えてみれば、そのころからは一緒に取材旅行をすることもゆっくりと言葉のキャッチボールを楽しむこともなく年月が過ぎてしまったようだ。「天井桟敷」の旗揚げ以来、寺山さんはいつも忙しそうだった。
寺山さんの死の半年前紀伊国屋ホールでの「レミング」の楽の日、芝居が終ってからもわたしは席を離れずにいた。これが「最後の公演」とも聞いていたからだ。舞台で団員たちと記念写真を撮り終えた寺山さんはわたしの席まで下りてきてくれ、かなりの時間、話をした。「競馬の方はどうですか」と聞かれて、今はあまりやっていないとわたしが答えると、「じゃあ、あの当り馬券を入れる笊はもうないのだね」といわれびっくりした。寺山さんが三十歳ぐらいのときわたしの渋谷のアパートに来たことがある。小さな絵馬から笊をぶら下げて当たった馬券を入れていたのを、こちらは忘れていたのに寺山さんはおぼえていたのだ。
この夜も益田競馬の話はしなかった。「寺山さんの病気はきわめて重い」という情報を得ていてわたしの頭の中はそのことでいっぱいだったためだろう。これが詩人に会った最後だった。
寺山修司忌 5月4日 ことし二十七回忌(2009年)
五月の鷹まだ見えぬ地を翔けゆくか 角川春樹
か
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