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平成二十六年四月九日(水) 一二三壯治記
■十年ひと昔
インターネットでなんでもチョイチョイと調べられる便利な時代だが、そこに落とし穴があるの
は、小保方さんも「やってしまった」コピー&ペースト(データの切り貼り)でもご承知のとおり。
〈花見の起源〉を調べようと、お馴染みの百科事典サイト《ウィキペディア》を開いてみた。する
と、「奈良時代は主に梅や萩が花見の主流で、桜に替わったのは平安時代に貴族階級が愛 好し、和歌に多く詠まれるようになってから…」と予想どおりの記述。試みに他の二、三サイトで 〈花見の歴史〉を当たってみたが、文面まで驚くほど似ている。「ああ、これも…」と、嘆きつつ 閉じた。
要するに「文献に残る花見の初め」としか言えないのだが、《ウィキペディア》が記載すれば、
あたかもそれが定説のようにコピー&ペーストされる。それがコワイ。
前置きが少し長くなった。主題はセミの会の花見である。その始めは明確に分かっている。
二〇〇四年四月五日(月)。よく「何回目だ?」と質問されるので、それにも答えておくと、一度 だけ雨で流れたから今回でちょうど十回を数える。場所はずっと八王子滝山城址公園。
眼の恙杖にすがりて花の山 ひでを
ひでを宗匠が推奨される「定点観測」は、微妙な変化に敏感な心を育んでくれる。三、四十段
の入口階段が、なだらかな山道(古峯の道)へ導く。鳥の囀りがにぎやかなのは、いつもと変わ らない。
さへづりに迎へられたる山路かな かおる
「待ってたよ」と言われているようで嬉しい。空は快晴、木々は旺盛な芽吹きの最中にある。
こもごもに谷かけのぼる草芽吹き 三酉
三酉さんは初めての吟行参加である。道すがら「あれが奥多摩、あの光るのは多摩川」など
と説明するが、植物の知識が豊富で逆に草の名をいくつも教えていただいた。
草の名を新顔に聞く花の山 建一郎
「新顔に聞く」と建一郎さんが「新聞」を詠み込まれたのは、朝日新聞社OBの三酉さんに敬意
を表したものか。
花びらを踏みしめ歩くこの命 風天子
同じく朝日OBの先輩風天子さんは、すたすた先頭を切って行かれる。正に健脚。親子ほど
下の若輩者としては、その背中を理想として追うのみである。
ゴールの千畳敷に至る途中、深く窪んだ広い斜面がある。崖側の大きなソメイヨシノが満開
を過ぎ、はらはらと散り初めていた。谷風を受けて舞い上がり、ざあっと音がしそうだった。
花吹雪どこか似ている砂時計 壯治
十年の歳月を思わずにはいられない桜花である。
■花の下にて
千畳敷に着くと、適当な花の下を見つけて座る。建一郎さんが大きなブルーシートを広げた。
それだけで六人全員が楽に座れそうだ。少し離れた場所に先客数名が居て盛り上がってい た。実は、この城址をセミの会に紹介した功労者、あらかわゆきこさんのグループだ。ゆきこさ んが、すでに大分聞こし召された顔で挨拶に来た。
小学校のクラス会場花の谷 かおる
…だそうである。巨大なすり鉢状の千畳敷は、四囲縦横に桜が埋め尽くす。ただただ陶然と
するばかり。
荒城やせつなきほどに花の満つ ひでを
芭蕉翁が〈さまゞゝの事おもひ出す桜かな〉と詠じたように、十年の思い出が沸々と蘇る。ひで
を宗匠は初回の花見でも〈たんぽぽや荒城にきく馬頭琴〉と、「荒城」を詠まれた。「馬頭琴」 は、木の葉さんが弾いてくれたのだった。その木の葉さんは、不参加の残念さを一句に込めて 携帯メールで送って来た。
山想ふ神田川には花筏 木の葉
馬頭琴があれば、花に彩りを添えたことだろう。代わりに花見酒を酌み交わす。ほんのり桜
色などという初心な花人は、ここにはいない。禅者の心で、花に対す。
花は花緑は緑この日あり 風天子
初回から二、三回くらいは、この滝山城址も世間にあまり知られないと見え、花見客も少なか
ったが、ここ数回は人の数が増えつつある。それでも他の名所に比べれば静かなものである。
山道の方から、大型犬を五頭連れた夫婦らしき二人が下りてきた。男性の方は、体を後ろに
大きく傾けて踏ん張りながら、前へ前へ行きたがる三頭の洋犬を綱で制している。
「大変ですね」と声を掛けると、「力が強いもんで…」と苦笑い。犬も、花の下で何かただならぬ
ものを感じて逸るのだろうか。
犬五頭人三人の花の道 かおる
花の下は、どこか幻想的である。言葉の上でも「花の下」には特別な意味がある。西行が〈…
花の下にてわれ死なん…〉と歌ったのは、文字通り「花の下」を愛すると同時に、歌人として生 きて死ぬ決意表明でもあったらしい。和歌から連歌の世に移ると、「連歌もて一家をなし此道 の棟梁たる世に宗匠とし花下と称せられる」ようになった(江戸時代の《ウィキペディア》とも言 うべき『嬉遊笑覧』より)。
谷にのぞみ思案顔なるさくらかな 三酉
桜が「思案顔」というのは面白い。散ろうか散るまいか、と思案顔なのか。それとも、世の深
淵(真理)を覗いては、その思案顔で人に何事かを伝えようとしているのか。こちらの思案も止 まらない。
せせらぎの音に木霊か花吹雪 建一郎
以前、大蟇蛙どもの合戦を目の当たりにしたせせらぎだが、この度は休戦中か、子孫繁栄な
らず滅亡の憂き目を見たか、一匹も居ない。それでも、生命の精霊は花の下に舞い踊ってい るようだった。
■花に追われて
斜面の険しい側を上って中の丸跡へ向かった。そこは周囲五、六十メートル程だが、大小の
桜木が鎮座し何かを守っている気配だ。北側の奥に、大ぶりな枝を張っている古木が主(ぬし) と見える。日が傾くと、西側の隙き間から夕日が差してきた。桜花の淡いピンクが黄金色に荘 厳されて、実に神々しい。
ひと去りてまた輝けり夕桜 ひでを
夕桜から夜桜もいいが、山の気象や都心に帰る時間を考え、そろそろと下山することにし
た。主の古木の奥へ抜けて橋を渡れば本丸跡である。祠や石碑が三つ四つと建っている。中 に「霞神社」の神殿があった。
霞神社かすかに聴こゆ春の雷 建一郎
花の神々しさに触れた心は、さまざまな神韻に感じやすくなっている。桃の花咲く「桃源郷」の
物語もあるが、桜の支配する山もまた異界、もっと言えば聖域のような趣である。そんなことを 思いつつ、俗世間へと再び踵(きびす)を返す。
花のちり踏んで下界へ還りけり 壯治
下界もまた、ものみな盛る春である。ふもとの山里は、花桃、菜の花、遅梅、片栗などの
花々、遠霞、臼搗く空、耕しの光景、鳥のさえずりといった大パノラマ。見るもの、聞くものが温 かな湯のように心身を包み込む。何に感応するかは、各々の感性しだいである。
急坂を下り一輪草の群れ かおる
一輪草は、凛とした白い花を咲かせる。五、六本、七、八本と何カ所かに群を作る。それが
山里の家族々々を想わせて、親しみ懐かしみを感じさせる。
満ち足りた時間は、句会の飲食と句廻しを以て大団円となる。花見の後の宴は神事の後の
直会(なおらい)に似て、酒も肴もひとしお味わい深い。
JR拝島駅から立川に出て、リニューアルした駅ビル〈グランデュオ立川〉7Fの中華料理・謝
朋殿に入った。八宝菜、包子、牛肉の東坡肉(トンポウロウ)風など、かおるさんの見立てでバ ランスよく、量もたっぷり堪能できた。こちらの『美味しんぼ』たちは、きわめて健やかだ。
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