2014年3月 五日市憲法草案ゆかりの地吟行記 

五日市憲法草案ゆかりの地吟行記 
            平成二六年三月七日(金)   吉村 桂
 
五日市憲法草案発見の場を訪ねて
 
 弥生とは言え、季節が行きつ戻りつする今年、冷たい空気を感じる。五日市線の武蔵五日
市終点で待ち合わせながら、やがて面々同じ電車に乗り合わせていたことが目的地までにわ
かる。面映いようなうれしい邂逅。参加者は宗匠、一二三さん、かおるさん、ありふみさん、そし
て桂の五名。
 降り立った駅は高架で風が冷たい。車窓からは梅林も目にしたが、終点には花もない。
ここからが冒険旅行であった。駅のあっちへ行きこっちへ向かい、改札を出たところから車に
乗り込む。呼ぶことができたタクシーは一台。一行は五人である。昔は助手席がベンチシート
になっていて、前に二人乗って五人乗ることが可能であったが、さて今そんな乗り方はできる
のかしら。すると、運転手さん曰く、申し合わせで五日市市内だけは中型車に五人乗ることが
認められているとのこと。大人四人が後部座席に乗るという初の体験をした。なんでも登山の
客が乗り込むことが多く、五人まで乗って構わないということなのだそうだ。五日市ならではの
体験である。
 我々は今にも雪が降りそうな曇り空の山間を五日市憲法草案を策定した深沢家屋敷跡に向
かう。思ったよりもずっと山道を奥に入ったところであった。まだ除けられた雪が白く残っている
寺の前で降り立つ。冠木門というのか、鋳物の鋲や留め具がいかめしい門の脇の潜戸から入
る。番卒でもいそうな感じ。入ったあとは何もない敷地と土蔵があるのみ。隣家かもしれない
が、この間の雪で軒が潰えた農家が一軒。
 
 ここは東京都指定史跡であり、説明板をみなで思い思いに読む。
深沢家は江戸時代後半には山林地主となりやがて幕末には同心株を買い、御家人となって八
王子千人同心の職についた。維新後深沢家の当主「名生(なおまる)」は村の戸長になり、息
子の権八は村御用掛となり、やがては神奈川県会議員となった。この辺りは明治以降神奈川
県に入ったり、東京都に入ったり変遷している。親子は近隣から四〇名近い会員を集め、学習
会、討論会を行い、民権結社「学芸講談会」を主催したとある。この土蔵から五日市憲法の草
案が研究者によって昭和四三年に発見された。その草案については、現天皇皇后両陛下が
あきる野市を訪れたときに、熱意を以って見学された。さらに二〇一三年十月の皇后誕生日
のお言葉に、かつてこの地を訪れたときの「五日市憲法草案」のことがしきりに思い出されると
述べられた。

 
   五日市憲法の里残り雪      かおる

 
 三月とはいえ草も萌えていない。だれも入ることのない屋敷跡の雪は白い。折れた枝が無残
に散らばる。杉の切り株がいくつか椅子代わりにほどよい高さに整えられている。各々が持参
した弁当はここで食べるのが穏当のよう。弁当持参組は揃って稲荷と巻きずしの助六形式。
値や内容を比べ、おやつも互いに配り合う。阿吽の呼吸というところ。

 
   草餅を食む草原の夢見つつ     桂


  来た道をゆっくり戻り、疲れたら車を呼ぶ算段。山間を流れる集落は川に沿っている。川を
覗きこみ、いつのまにか川を渡り、ぼつぼつと話し込む。


    春雪にトンネル穿ち小川かな    壯治


 宗匠は、この地に少年のころ友人と二人して自転車で来たことがあるとのこと。東京のやや
西よりから出発したとはいえ、何日かの泊まりがけのことだったらしい。目ギョロの立派な体躯
の少年が在の者しか通らぬ山道を自転車を立ち漕ぎして奥へ奥へと進む姿が目に浮かぶで
はないか。何もないことが興を呼ぶような、ただ遠くへ遠くへ、体でもって進もうとする。
 そういえば、夏目漱石の「こころ」でも、「伊豆の踊り子」でも、学生は人里離れたところの逍
遥を楽しむことのできる、貧乏な特権者であったのだ。

 そして今、私たちは五人でだれも通らぬ山里の道をゆっくり街へ向かっている。愉快だ。

 
  風光る五日市憲法産みし里    ありふみ


  今回の目的ははっきりしている。五日市憲法の草案を見聞しにきたのである。 
 今でも草深い山里、明治のころは東京の中心からはずいぶん遠い場所であったはず。しか
し、この土地で宮城から出てきた若い教師千葉卓三郎と在郷の深沢親子が中心となり、わず
か数年のうちに憲法の草案を作成した。君主制を前提にしたとはいえ、民の尊厳をまずもって
守ろうとする理想に萌えた内容であった。中心となった深沢権八は、草案策定の後二九才の
若さで病没しているのだ。それに先立ち、千葉も三一才で亡くなっている。その短い人生と深い
知性、行動力。吟行記がいささか生硬な文になるのも許していただきたいというものだ。
 

  桜木の枝いきいきと冴返る    ひでを

 
  意気軒昂に山道を下っている我々に、春の雪が降りかかってきた。先ほどのタクシー会社
に電話したところ、同じ運転手さんが迎えに来てくれるとのこと。平成の文明はありがたい。後
部座席にやっと収まり、今度は郷土資料館に向かう。
  昭和四〇年代を思わせるコンクリート建物の郷土資料館。向かい側には移築された堂々た
る古民家。まず、資料館に赴き、五日市憲法の草案を目にする。千葉卓三郎が教師をしてい
た五日市の官能学校の充実にも目を見張る。別の部屋には萩原タケという、日赤の看護婦生
徒に応募し、さらに上京後産婆学校に進学、赤十字で活躍し日赤の看護婦取締として三〇年
近くを過ごした女性のコーナーがある。深沢親子の進歩性と無私の行為に十分感動していた
が、ここに来て女性もまた進取の気に富み活躍していたことに、なぜか誇らしくなった。多摩の
さらに奥の地、やるではないか。
 
 さて、本日の目的を十分に果たした一行は、向かい側に移築された古民家に移動。ここがま
たステキな空間であった。格のある家の屋敷であったのだろう。入ったところは広い三和土に
なっており、一段高くなった床張りの部屋にはいろりが切られている。実際に庭先のけやきの
枝が炊かれており、煙のよい匂いがする。二階部分には民具が保存されている。往時には蚕
部屋でもあったかもしれない。

 奥の間には寄贈された雛がいくつも並べて飾られていた。ここで一行の目をひいたのは、雛
が立派な作り物の館に据えられている飾り方である。聞くと、京都から来た風習というが、さ
て、京雛にこのような飾り方があったかどうか。大正期か昭和期のはじめのこの地の雛がまる
で歌舞伎の御殿の場のような立派な館付きで飾られるのは、この地が絹物の産地として裕福
な山里であったことを示しているだろう。


  黒光る梁や柱や雛の家        壯治
 
  古民家の小さき御殿に小さき雛   かおる
 
  飾り雛古き順序に並びをり     ありふみ
 
  雛の舘京より来る習ひとや      桂

 
  囲炉裏にもあたり、休息も十分。ここからは五日市憲法の碑を探しながら、まちなかの道を
駅まで歩く。梅林とてなかったが、家という家の庭先にすべて異なる梅の木が植えられていた。

 
   角々に梅の花あり五日市      ひでを

 
 ここで用のある一二三さんとは別行動となり、我々は立川で句回し会場を探す。

 


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