2013・2・世田谷線沿線吟行記

世田谷線沿線吟行記   平成二十五年二月二十日(水) 一二三壯治記


■世田谷線は春め〜く
 立春を過ぎて暦の上では春だが、やはり「名のみの…」で余寒厳しく、遠出は気が進まない。
「二月は都内で…」と、暗黙の了解のうちに東急世田谷線沿線が吟行の候補に上り、すぐに決
まった。世田谷区内三軒茶屋から下高井戸まで、ほんの十七分の小さな旅である。
 三軒茶屋駅で一日乗車券(大人三二〇円)を買い、青い車両に乗り込む。三回乗れば、元
が取れる計算だ。車両の色は何種類かあり、春日を受けて住宅地に明るい彩りを添えてい
る。

      春の日を世田谷線に乗せてゆく   壯治

 三つ目の松陰神社前で降りる。ゆきこさんが待っていて合流。すぐに神社の方へ歩きかける
と、親切な客に呼び戻された。ゆきこさんが、ベンチに荷物を置き忘れるところだった。
「最近、こういうことが多いのよね」と、苦笑。「ああ、また吟行記に書かれるネタを提供してしま
ったわ」で、他の六人も笑った。

      失せもので幾たび笑ふ春吟行   かおる

 松陰神社は、言わずと知れた吉田松陰を祀った神社で、境内には松下村塾のレプリカまで
設えてある。塾では高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など明治維新の功労者たちを指導した。
この一月に始まったNHK大河ドラマ『八重の桜』の中では小栗旬が松陰を演じ、早くも刑死し
ている。享年二九。

     楠に春日燦々志士眠る     ゆきこ

 松陰を描いた『世に棲む日日』(司馬遼太郎著)で印象深かったのは、最初の投獄の折、受
刑者たちの得意な技芸を聞き、それぞれがそれを教え合うという、塾の原型みたいなことを若
き松陰が始めた話である。敬すべし、神殿に合掌。

      国士の地めぐり歩きて多喜二の忌   建一郎

 神社の近隣は国士の系譜を見るようだ。旧長州閥で陸軍大将、総理大臣を務めた桂太郎の
墓や右翼の頭山満らが興した国士舘大学、高校と続く。ノンポリの立場からすると、今となって
は松陰も多喜二も桂も頭山も、みな「国士」と思えるのだが…。
 国士舘の真向かいは、世田谷区役所である。
「ここで成人式の式典をやったな」と、ひでを宗匠が同区の小中学校で同級生だった夢さんに
声をかける。「そうだったかしら」と夢さん。本当にお忘れなのか、おとぼけなのか、さて。
「この辺りは、すっかり風景が変わってわからなくなったわね」
 遠い記憶をたどっているよう。

       如月やポッケの中にチョコレート    木の葉

 チョコレートは、夢さんのポッケから配られたもの。脳の刺激にいいという。


■ティータイムは眠くな〜る
 上町から宮の坂まで一駅だけ乗り、世田谷城址と豪徳寺の方へ向かう。冬に世田谷ボロ市
が開かれる、通称ボロ市通りから旧代官屋敷はあきらめた。
 世田谷城址は公園になっている。こんもりと土塁が築かれ、松やケヤキなどが生い茂る。南
北朝時代、吉良氏の築城で堀も残る。都内有数の住宅街のまん中に、異観といった趣であ
る。

       吉良殿の城に遅参の初吟行     桂

 桂さんから携帯に連絡が入ったのは、ちょうど土塁に登って周囲を見回していたとき。「今か
ら駆けつける」と、吉良氏の裔・上野介義央を討ち果たさんとする赤穂浪士のような勢いだっ
た。

        城春にして草木のまだ眠る     壯治

 城址は「兵どもが夢の跡」であり、今は古を偲ぶよすがに過ぎない。杜甫は詩『春望』で「城春
にして草木深し」と詠んだ。唐代も兵どもの時代であった。いずれも、今からは疎くて遠い。
 ふもとの小さな喫茶店に入り、コーヒー、紅茶とアップルパイを頼んだ。

        三寒の城跡に来てアップルパイ    ひでを

 半ば趣味で店を開いておられるようなマダムが、七名の客に慌てている様子が見て取れた。
一度、外に出て戻ってきたのは、どうやらアップルパイを仕入れてきたらしい。パイは旨かっ
た。クリームにはマロンが練り込んであった。
 一連の時間の流れが、いかにも早春の午後らしく長閑で、メンバーは口々に「眠い」「眠くな
る」と言う。店名が〈Sheep〉なので妙に納得した。


■豪徳寺は奥深〜い
 豪徳寺は世田谷城址公園の北にあり、なだらかな坂を登った先が山門である。桂さんは既
に到着し、我々を待ち受けていた。

        一人居に節分の面つけて居る     桂

 一人でも退屈しない質のようだ。挨拶を交わし合うと、女性五人の声で閑静な空気が揺れ
た。

        紅梅や女五人の豪徳寺      建一郎

 境内は、少々の人声などたやすくかき消してしまうほど広い。木造三重塔、青銅色の甍を持
つ本堂、仏殿などが大伽藍を構成する。本堂の両隅に、紅白の梅がほころんでいた。
 吉良氏の居館から、徳川家の重臣井伊家の菩提寺となった(寛永一〇年=一六三三)。別
名「招き猫の寺」と呼ばれる。寛永のころ、当寺の飼い猫が鷹狩の兵どもを手招きの仕草で導
いたところ、にわかに雷雨となり、難を免れた逸話に由来する。その兵どもの長こそは、彦根
藩主の井伊直孝であった。

 本堂の西側に「招猫殿」があり、大小さまざまな招き猫の置物が整然と並んでいる。ざっと五
百個はあろうか。ご利益あって福を得られた人が、御礼参りに奉納していくのだそうだ。

       如月のひかりあつめる招き猫    ゆきこ


 招猫殿の裏は、広大な墓地になる。野球グランドほどはあろうか。その西奥に井伊家代々の
墓が祭壇のように建つ。中でひときわ目立つのは、幕末、桜田門外で暗殺された大老井伊直
弼の墓である。井伊家にとって、どれほど大きな悲嘆であったかが察せられる。 
「わたしの祖先も井伊家の家来で、確か、このどこかにお墓があったはずなんだけど…」
 かおるさんが言い、わざわざお姉さんに携帯で問い合わせまでされた。「仙波氏」と伺ったの
で、「探してみますか?」と好奇心に灯を点しつつ言ってみた。「無理よ。そんなことに時間は割
けないわ」と、断られた。見回せば、招猫殿の招き猫と同じ数ほど墓や卒塔婆が並ぶ。

        招き猫ひしめいてをり浅き春     かおる

 井伊家は戦の際、先陣を切る役目を負っていた。それを象徴するのが赤い鎧甲冑で、「井伊
の赤備え」と呼ばれた。赤は、死を覚悟した勇気の色だった。

         白つばきあまく香りて墓所しづか   木の葉

 平和な現代、墓所には白が似合う。

         三寒や古き墓石の寄せられて     ひでを

 古い記憶も物も、片隅に寄せられる運命にある。宮の坂駅に出る道すがら、玄関に古い食
器を並べ、「ご自由にお持ちください」と貼紙をする家があった。しゃれた魚の絵の茶碗セットを
桂さんが持ち帰った。


■下高井戸はおいし〜い
 宮の坂駅で、夢さんは帰宅の途に。夕食の膳を調える「主婦の仕事が待っている」とのこと。
残り七名は下高井戸に向かう。
 下高井戸駅前は昔ながらの商店街が残り、夕食前には買物客で賑わう。狭い路地にある魚
屋では、当会の女性陣があれこれ魚介類を仕入れた。主婦ならぬ筆者も、つい勢いにつられ
て三品買ってしまった。妻に言われそうな嫌みが、ちらほら頭をかすめる。
 句会は、木の葉さんがすばやく見つけたイタリアン風居酒屋〈おふろ〉で。店名の由来は、「お
ふろに浸かるような気分で楽しめるように」との願いからだそうだ。

     おふろばにほつこりゆつくり春吟行     木の葉

 コースメニューが素晴らしかった。ひらめの縁側のカルパッチョに始まり、鱈の白子の天ぷ
ら、ほうれん草のゴルゴンゾーラチーズグラタン、イベリコ豚と野菜の中華風いため、牡蠣と菜
の花のパスタなど、どれも味わい深い。熱燗、赤ワインも進んだ。

      寒ひらめ初吟行のしめとして      ひでを

 いつも同じことを書くようで恐縮だが、食いしん坊、呑み助揃いのせいか、吟行では必ずいい
店が見つかる。舌と腹が満たされれば、おのずと俳句も熟す…と、思いたい。









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