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上州甘楽町吟行記
平成二十四年十一月二十一日(水) 一二三壯治記
■上信線に乗って
JR湘南新宿ラインの運行で関東の南北がぐっと近くなった。北は高崎または宇都宮、南は
小田原まで乗換なしに行ける。まるで我れらセミの会の〈関八州めぐり〉のために開通してくれ たような印象だ。
今回の吟行は、その恩恵を存分に活かし、関八州でも未踏の地が多い上州(群馬県)西部
まで足を伸ばした。終着の高崎へ出た後、上信電鉄上信線に乗り換え、上州福島(甘楽郡甘 楽町)まで行く。トータル2時間ほどの列車旅である。
風やみていよようれしき小春旅 ひでを
朝は裾をひるがえす冷たい風にすくんだが、高崎ではすっかり止んだ。上州名物「からっ風」
も本日休業のようだ。代わりに同じく名物の「だるま弁当」など、昼めしを各々買い込んで上信 線のホームで待つ。
かんら野へ0番線より紅葉狩 建一郎
上信線の乗り場は、0(ゼロ)番線となっている。上越新幹線も通り、巨大な駅ビルに収まるJ
R高崎駅に比べると、軒を借りて営業するような貧相な改札とホームである。その割に料金は 高い(10駅で680円)。初めから渋い話で恐縮ながら、全国どこでもローカル線は地域のため にぎりぎりの営業を続けている。これも日本が抱える格差問題の一つの現れか。
小春日やだるま弁当ぱくぱくぱく 壯治
12時28分発の列車が動き出すとすぐ弁当を開いた。横長の座席なので、向かい側の視線
が気になるものの、旅の恥は…、みんなで食べれば…といった気分で五人揃って食べ始め る。小春日和と車窓の田園風景が、食の愉しみをいやが上にも深めてくれる。
約30分で上州福島駅に着く。二両の列車が止まるだけの小さな駅の小さな駅前でタクシー
を呼び、初めに長厳寺へ向かう。ひでを宗匠の情報では「日本最大の磨崖仏がある」そうだ。 タクシー一台に五人がぎゅうぎゅう詰めで乗り、甘楽町の古い町並みを眺めながら6、7分。と ても日本最大≠ニは似つかわしくない、ひっそり閑とした古寺である。
本堂脇の石段を上れば磨崖仏に対面できるらしい。石段は急勾配でいささか骨が折れる。
息を切らしつつ3分ばかりで仏頭を拝する踊り場に出た。
落葉道のぼり破顔の磨崖仏 かおる
微笑んでいる、眼差しがやさしい、3メートル四方ほどの浮き彫りの仏頭だ。日本最大とは顔
の大きさらしい。
岸壁を覆ふ仏頭紅葉山 有史
聞けば、彫刻は素人の篤志家がまさに刻苦精励して彫り上げたのだという。郷土愛と信仰心
の一念が岩をも通したと考えれば、どこかの国のおばあさんが描いたナンチャッテ聖者の絵に も似て、作品の出来以上に心打つものがある。
紅の黄の落葉ひろへば水気あり ひでを
紅葉の色は一つの自然として美しい。人間の営みも自然の一部ならば、いかに稚拙だろうと
美しいはずではないか、と思ったりする。
■織田家ゆかりの国として
タクシーは待たせてある。次は紅葉山公園から楽山園へ、町の外れをぐるりと辿るコースな
ので、運転手に町の話を聴く余得もあろうしと借り切った。少々贅沢だが、「五人で頭割りにす れば…」との計算がある。
紅葉山公園は、大盛り飯のような丘と崖を覆う林から成る。紅葉した楓と桜が多く、その名に
偽りはない。頂上からは町が一望できる。南斜面に畑が隣接していて、60代半ばの農夫が日 向ぼっこのような長閑さで働いていた。
浅間嶺のわづかに見えて葱畑 ひでを
畑は冬野菜の緑が濃い。3アール(300u)ほどの空間だが、そこだけがぽっかりと開けて
日当りがよく、東南の視界がはるか遠くに広がる。浅間山は早くも雪化粧。
詳しくは聞かなかったが、公園は以前、この農家所有の土地ではなかったかと思う。決して
公園の一角を借りているようには見えない。それほど手入れがよく、物生りもよい土地に見え た。畑の一方は土留めのような崖であった。
我が影の崖に落ちたり蔦紅葉 壯治
その間もタクシーのメーターは上がっている。観楓はあっさり切り上げ、またタクシーに乗っ
た。やや道に迷いながら楽山園前に到着。
「中には入らないで、向かいの喫茶店でこれからの計画を練ろう」との宗匠の提案に従って車
を捨てる。ここまで小一時間、一人約1,000円で済んだ。吟行も回を重ねるうちに足≠フ 使い方が上手になった。
喫茶店は〈長岡今朝吉記念ギャラリー〉に併設されている。町営の施設で、コーヒーや抹茶と
菓子を味わいながら枯れ芝のオープンテラスから楽山園の中が見渡せる。園内に入らずと も、紅葉や松、竹、茶屋(梅の茶屋、腰掛茶屋)、径などの織りなす広大な借景を手に取るよう に楽しめた。ちなみに楽山園は池泉(ちせん)回遊式庭園で、茶人の趣味が随所に感じられ る。
冬うららなぜかなつかし織田木瓜 建一郎
カフェテラスの入口は武家屋敷の門を象り、木瓜紋の幕が暖簾のように張ってある。建一郎
さんの関家も同じ「織田木瓜紋」とのこと。遠祖は信州上田だそうで、織田家との因縁が浅から ずあったかもしれない。
そもそもここ甘楽町は、織田信長の次男信雄(のぶかつ)が元和元年(1615=関ヶ原の戦
後)に移封された小藩(小幡藩)で、楽山園やこれから探訪する武家屋敷町でもその遺風を感 じられるはず。小藩ながら、雄川の水利を生かした精密で丹念な町づくりがタイムカプセルさな がらに残されている。
大まかにコースを定め、町の方へそぞろ歩き始める。すぐに旧家らしい高橋家前に出た。立
派な門には工事用の足場とビニールカバーが掛けてあり、作業員も数人働いている。改修工 事だろうと判断し、中には入らず宗匠と共に先を急ぐ。50mほど行き過ぎた辺りで、かおるさ んから「高橋家の御当主がいらして、庭を案内してくださるそうだけど、どうかしら」と携帯に連 絡が入る。喜んで踵を返した。
百坪の士族の庭や枯れ紅葉 かおる
高橋家の庭は往時「百坪」あった。維持するのが容易でなく、半分は潰して家業の精密機械
工場を建てたという。喬木越しに工場の屋根が見える。
「垣根は大体5年に一度改修する必要があります。200万円くらい掛かるのが大変な出費で
す。町の保存建築物に指定されているのですが、町からは月に千円ほどの補助が出るだけで す」
70前後と思しい当主は苦しい胸中を正直に述べられた。小さな池が防火用であったとか、
何か藩政に関わる密事で咎めを受け家断絶の危機もあったとか、淡々と語る言葉にも歴史の 重みがこもる。
九代目の主の庭や残り菊 有史
■水の織りなす桃源郷
高橋家の長い垣根を曲がると、喰違郭(くいちがいくるわ)と呼ばれる段状の塀が続く。戦時
の防衛用だったらしい。その向かい屋敷は茶の花の生垣で囲われる。織田家の後に小幡藩を 受け継いだ松平家の大奥とある。
戦国のここも一国茶の花咲く 壯治
室町末期から戦国期は茶道が隆盛を極めた。特に織田家は、信長と弟の長益(後に有楽斎
(うらくさい))に代表されるように茶を愛好した。武家が公家に抗するために、「数寄(わびさび の趣味)」を競ったのである。
小路を抜けると薬師堂の石仏がある。その先は下級武士の地区だろうか、裏で畑作を営む
家が多い。作家藤沢周平が描く海坂藩士の暮らしを彷彿させる。
襁褓干し大根干して疎水沿ひ ひでを
干し大根は雄川堰の疎水で洗ったのだろう。雄川から三カ所の取水口で水を引き、農事や
家事に使う。芋洗場という地名もある。
取水口の水音軽く山眠る かおる
水路に沿って歩くうちに地図がわからなくなった。折よく老婦人に出会ったので、目指す養蚕
農家群の方向を聞く。迷ったところで、小さな町の中心からさほど逸れるはずもない。校庭の 広い小幡小学校を眺め行くうち、養蚕農家群沿いの桜並木に辿り着く。
養蚕を続ける家は少ないように見えた。ここもまた家並み保存のために規制と補助を受けつ
つ、店や宿屋を細々と営んでいるのだろう。町の鎮守社らしい小幡八幡社に参拝する。山際の 社が、崖の崩落を支えているようにも見える。山の陰、木々の陰が深く濃くなってきた。
句をメモる社に暮れてかじかむ手 有史
小幡八幡社前がタクシー会社の車庫なのは、町を訪れる観光客の多くがここを終点にする
からだろうか。傾く日に追われ、列車の時刻に追われて上州福島駅に戻る。待合室の長い座 蒲団がうれしい。
待合室に座蒲団ありて秋の駅 建一郎
高崎駅前に戻っての句会は、ありふみさんがかつて群馬県に赴任された折の記憶を頼り
に、ヤマダ電機ビル内で〈海鮮茶屋 一鮮〉という店を見つけた。10人は楽に座れる個室を借 り、行く秋を心おきなく惜しんだ。
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