2012・7佐野吟行
佐野吟行記  平成二十四年七月十八日(水)吉村桂 記

■高速バスに乗って
 七月十八日 代々木駅の裏手にあるという高速バス乗り場に集合。こんなところからバスが
出ていたなんて知らなかったね、と言いあいながら、学童期のバス遠足のよう。
 高い座席から見る新宿、池袋。地上を歩いているときとは異なって見える東京。明治通り沿
いは、ふつうの住宅として使われている昭和のマンションビルがぎっしりと並んでいる。飛鳥山
に突き当たり、大川を渡り、荒川に沿い、旅の景色へと変わっていく。
  
   厄落し求めてバスの夏帽子    建一郎
 
 到着した佐野の高速バスターミナルは、田んぼの真ん中に大きなアウトレットと隣あっていて
真新しい。周囲にはイタリアンやチェーン店のレストランも同じく初々しく並んでいる。地方では
大人の数だけ家庭に車がある。車社会に対応した新しい消費活動の場というわけだ。我々は
市中に向かう乗り合いバスに乗り換え、一路佐野厄除け大師に。途中やたらにラーメンの看
板が目に入る。名物がラーメンか餃子というのもどうですかねえと言い合いつつ、昼の腹づもり
はこのときすでに共有されている。あとは冷やしか温かいのかということだ。

■田中正造翁の慈きょうぶり
 初めての街でようやく歴史のある街路が見えてきたころ、目指す厄除け大師に着。関東三大
厄除け大師として有名なお寺。山門をくぐると、金の鐘がつるされた鐘楼。もう少し進むと、田
中正造の墓がある。一八四一〜一九一三の人生。その足跡をたどることが、この日の目的で
もある。旅の始まりにみなそれぞれのやり方で墓に参る。この寺で葬儀が行われ、ゆかりの地
五か所に分骨されたのだと記されている。川の調査の途上で倒れたとき、持ち物は信玄袋一
つに収まっていたという。

    正造翁墓石に慈きょうと彫られをり    ひでを

 山門から本殿まではコノ字型のアプローチをとる。平日であるが、小さな子どもを連れた家族
が熱心に参拝している。祈祷を受ける人の数も少なくない。私たちも一人一人、おみくじを引い
たり、お守りを買ったりする。去年の三月以降、厄除けのお守りを買う行為で何を祈るのか、
ふと自分の心中を振り返る気分。

     厄除けのみくじひと人夏あつし        風天子

 暑い日の正午過ぎ。山門正面のラーメン屋。初山さんが瓶ビールを頼む。分けていただくこ
の一杯がたまらない。冷麺も中華そばも、いつか食べたかったふつうのおいしさ。満足して、さ
あ、この暑熱の中どこに行こうか。

江戸街道
 日光例幣使街道とクロスする江戸街道。佐野は江戸と家康の廟を結ぶ要所にあり、伊勢
崎、前橋など織物のさかんな場所からの集積地でもあった。今はパソコン教室の看板がかか
っている大きな家は広い石畳を持つ。荷車を前庭に引き入れ、荷物を積み下ろししたのであろ
う。間口大きく商いをしていたであろう店は、土間や店の畳に文物を置きギャラリーのようなし
つらいである。なぜか小学生が四つん這いになったくらいの木彫りのサイが目立つ。大谷石の
アーチの奥に日本庭園がひろがる。
 しかし、暑い。流しのタクシーもなく、循環バスは一時間に一本。何をどうするというではなく、
JRの駅に向かって歩く。駅舎は冷房が効いていて快適であるけれど。
 観光パンフレットをなめまわし、温泉付き山際湧水の里行を提案すると、宗匠のゴーサイン
が出る。そうなったらとにかく田中正造の足跡を見に、タクシー分乗にて急がなければ。

佐野市郷土博物館
 街のはずれにもなるのだろうか。住宅と田畑が広がるあたりに平屋の市立博物館がある。
田中正造の展示を中心とし、旧石器時代からの遺物も並ぶ。水があり開けたこの土地は、二
足歩行のヒトがこぞって住もうとしたろう。集落がいくつもでき、やがて街が栄えていった幕府直
轄領の近世までの流れを思う。
 田中正造の銅像が立つ展示室。蓑笠をつけ、たっつけ袴に杖を突いたわらじがけの像は、
背丈に比べて胸幅広く、猪首で眼光が強い。歩き出す瞬間をとらえている。

      サングラス外して拝す偉人像   壯治

 十年の県政を担った議員生活では、地方自治の拡充、税の削減、初等教育の充実を主張し
ていた。明治二十三年以降、六度の連続当選により衆議院議員を務め、辞職して明治三十四
年には明治天皇に足尾鉱毒について死を賭した直訴をする。やがて、政府は銅山を存続させ
その下流の谷中村を水没させる計画を立てる。強行された村の破壊ののち、田中は村民と掘
立小屋に身を寄せ、抵抗運動を指揮した。展示を見ビデオを眺め、私たちは何も言わずに、
たぶん同じことを考えていたのだと思う。
 まず、原発ありき、あるならば安全は疑わず、大事が起こったのちにも、被災民への対処よ
り先に、原子炉の存続だけを実行する。
 何も変わらず、しかも田中正造は二〇一二年の日本にはいない。

     正造と同じ時代と思ふ夏    ひでを

■出流原弁天池(いずるはら) 赤見温泉行
 タクシーは、平たい町を北に向かう。低い山に沿うあたりで下車。高みに磯山弁財天の古い
社があるらしい。鎌倉時代に作られたという朱塗りのお堂とか。最初の階段をみなでのぼり、
例によって代参組の三人と先に湧水をめざす組に分かれる。石を敷いた山道をいくつか折
れ、視界はすぐに開けて岩盤に張り付いたような社に着。縁が広くめぐらされ、ご神体を周回
できる。それだけでなく、小さな段を上がると、社の屋上に展望のための階段があるのだ。ここ
からの眺望を大切にしてきたのだろう。
 田畑も残す平野が見える。立派な並木をもつ日光に向かう街道が伸びる。足元には大きな
池がある。さほどの高さからではないのだが内陸の平野はどこまでも広がるかのようだ。風が
吹き、暑さを忘れる。いやいや一回りして確かに涼しい。岩にへばりついたような社は大きな岩
盤の割れ目、風穴をまたぐように建ち、湧水からの冷風が吹きあがるようになっていた。探して
いた宝物を見つけたような気分になり、三人しばし足元からの涼に憩う。暑熱の時間があって
こその至福。

     風穴の凉を一日宝とす    かおる

 帰り道、学童保育だろうか、学年の異なる幾人もの子どもたちが列をなして登ってくる。身を
寄せてすれ違う。今から大人になる命は、そばにいるだけで私たちを幸福な気分にさせる。虫
取りの相談も聞こえてくる。
  
     木下闇童が数ふ石段段    桂

 山を巻くように道をたどると、木立ちの中に思ったよりも広い湧水の池。日本名水百選に選
ばれているとのこと。平米数では言えないが、旅館の大広間くらい。水が常に湧いてくるから、
底がどこまでも同じ深さで平らになっている。鯉が泳いでいる。これほどよい水に一生を過ごす
というのは、魚界の幸福ものであろう。
 吟行の先達はすでに、湧水と隣接した温泉地の老舗ホテル喫茶室に陣取り、よく磨かれた
グラスでビールをやっている。やがてワインも運ばれてくる。地元で作られたワインだそうだ。

     湧水に嬉しや夏の句会かな    風天子

 夕刻には間があるが、このまま食事と句会につながっていく計画。女性二人は早速ホテルの
日帰り入浴に。広い日本庭園には、水路や池がめぐっていて、木立ちが日差しを遮り、涼し
い。湯はあっさりした泉質であったが、あの湧水に浸っているかと、先ほどの至福の鯉の気持
ちがわかる、気がした。

     夏日射るステンドグラスの山の宿    かおる

 女性陣が風呂に入っている間、喫茶室の世話をしてくれた女性は、野球通。作新学院出身
の選手たちの身の上の詳しいこと詳しいこと。野球談議に大いに沸いていたそうだ。
 湯上りを待ってもらって、それぞれの膳が運ばれる。先立って運ばれていた枝豆は地元のと
れたてだろうか。子どものころ、母が茹であげるのが待ち遠しかった、おやつの枝豆の味。水
の良さを生かした豆腐。川魚の定食。吟行で食べ物に外れたことがない。

 夕刻、ついさっきまで知らなかった街をタクシーで走り抜け、アウトレットモールでコーヒーを
飲む。十分に体も心もクールダウンして高速バスに。空席は自由に座っていいと言われ、バス
の中で円になるようにして、思い思いに話したり、暗い窓の外を眺めやったり、酒も回す。荒川
を過ぎ、川沿いに高速道が回り込む。その朝、発ったばかりの東京の街の灯が懐かしく目に
映る。

    よみがへる友の饒舌夏吟行  建一郎








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