土浦・霞ヶ浦吟行記平成二十四年五月十六日(水)
                         一二三壯治記


霞ヶ浦に漕ぎ出てみれば
 茨城県南部に横たわる霞ヶ浦は、琵琶湖に次ぐ日本第二の湖である。古来「水依(よ)さす茨
城」と讃えられたのは、この「信太(しだ)の流海(ながれうみ)(霞ヶ浦の古称)」に由来するところ
が大きいのかもしれない。大小の川が入り、あふれ出ては大利根川に合流して太平洋へ注
ぐ。その水流のスケールからしても、さまざまな詩情をかき立てずにはおかない。
 湖西の土浦港からクルージングを楽しんだ。頃は五月、夜来の雨も去り空は晴れ渡ってい
る。

     水満ちて霞ヶ浦の聖五月    ひでを
 
 定員86人乗りの遊覧船に乗客は、我らセミの会の7人のみ。受付の事務所はプレハブ建
て、乗り場までの道は地盤沈下で水が溜まっていたりと、未だに震災の傷跡が癒えない。約一
ヶ月前に、やっと営業を再開したのだという。
 全員が乗船するとすぐに動き出した。初めからものすごい高速力で、激しく水しぶきを上げて
進む。私たちはデッキの椅子に陣取った。湖面はとろりとしたミルクティーのような黄土色で、
初夏の青空もあまり映らない。むしろ湖畔の新緑がまばゆい。

     水といふ豊かなるもの青葉潮    夢

 霞ヶ浦は「海跡湖」という分類に入るらしい。つまり、原始は海であった。やがて河川の浸入
によって淡水化した。大きくは西浦と北浦から成り、複雑に引き吊ったような形状が変化の歴
史を物語る。古代以降は水利によって「常陸国(浸(ひた)ちに由来)」として栄えた。かつて観光
名物だった、帆引船でワカサギや白魚などを漁る景色はもう見られない(昭和42年廃業)。
 霞ヶ浦ですぐに思い出すのは、旧日本海軍の予科練飛行場だ。『若鷲の歌』は「今日も飛ぶ
飛ぶ霞ヶ浦に…」と、長く愛唱された。今は、進行方向右側南岸の阿見町に〈予科練平和記念
館〉が建つ。湖上からは、それと見極められない。 

     予科練を横目に夏の霞ヶ浦     有史 

 遊覧船では旧予科練の飛行場をはじめ、ガイダンスの放送を流し続けている。スピーカーの
性能が悪いのと船の音が激しいのとで、耳を近づけないと聴こえない。有史さんは、世代的に
も予科練に特別な思いをお持ちと見え、放送にじっと耳を傾けておられた。
 船は15分ほど沖合に出てUターンする。来し方を見やれば、筑波山の二つの尾根がはるか
にそびえている。遠ざかりながらも、山容はいよいよくっきりと美しい。この景観を味わうための
クルージングなのだと合点した。
 
      筑波嶺の遠ざかりゆく船遊び   舞九

 筑波山は千メートルに満たないながら、江戸っ子に「東の筑波、西の富士」と並び称された名
山である。霞ヶ浦に船を浮かべて眺めるのは贅沢この上ない。万葉の時代から歌枕として知ら
れ、筑波嶺を詠んだ名歌も数多い。

筑波嶺の嶺(ね)ろに霞ゐ過ぎかてに息づく君を率寝(いね)てやらさね

 右は万葉集の東歌(相聞歌)に載る。歌垣で詠まれたのか、愛の歌のようだ。野暮な訳はし
ないでおこう。ポイントは「ね」の重ね。
 船は白い水脈を残して港に向かう。悪名高いブラックギルだろうか、時おり魚が跳ねる。それ
を狙ってか、鵜が潜りかつ飛び出る。水面すれすれに飛び、自由を謳歌しているように見え
た。

     鵜の飛んで自由といふを思ひをり   壯治


足を伸ばして桜川
 土浦港から沿岸をめぐり、桜川の流れ込む河口まで行くことにした。その名のとおり川岸は
桜並木がつづく。そこも歌枕である。
 船を降りた辺りから、河口は指呼の間に見える。
「あそこまでは湾をぐるっと遠回りしなきゃいけません。三〇分くらいだったと思いますが…」
 以前歩いた経験から、ひでを宗匠に聞いてみた。
「せっかく来たんだから歩いてみよう」と、目指す方角を見て言われた。

      対岸のその一村の竹の秋    ひでを

 道なりに行くと護岸工事を施した湾があり、無数のヨットが停泊していた。そのことからも漁業
よりレジャー基地という印象だ。真ん前にはホテルもある。平日とあってヨットの持ち主の姿は
少なく、釣り人が糸を垂らしている。釣果を問うと、「ブルーギルだ」とのこと。やはり外来魚に
侵害されていた。
 ヨットの群は、マストも高々とどこか競い合う風情だ。フランス映画『太陽がいっぱい』や芸能
人の話を出すまでもなく、ステータスシンボルとして憧れの的になって久しい。名もみな雅号と
いうにふさわしい。

     舟泊り「ゆあみ」といふ名のヨットあり     かおる

 そのほか「まみあな」「純粋」など、一昔前の名曲喫茶のような名がひしめく。かえって「サンフ
ラワー号」など古典的な名にホッとする。船は欧米の言語で女性名詞だと言われるが、多くが
男の持ち物である点、別の憧れが反映するのかもしれない。
 霞ヶ浦西湖畔もご多分に漏れず、土木事業の餌食になった痕が見える。沿岸が不自然に直
線的なのだ。広い駐車場もある。大きな角を曲がると、岸から四、五メートルほど離れた湖上
に、畳を二、三枚縦につないだような浮島が現れた。鳥たちの小さなサンクチュアリ(保護地)
らしい。

     人工の島が天国行々子      舞九

 行々子、鴨、鷺、鵜など水辺の鳥たちが騒がしい。何を言い交わしているのだろうか。
 次の角を曲がると、桜川までは約二百メートルの一本道である。土手を歩くも、下の沿道を
歩くもよい。葉桜の陰で日差しを遮ることができる。途中、沿道の右手に大きな老人ホームが
あった。老後を過ごすには、持って来いの立地である。
 河口にたどり着く。水門は、大水の時に塞き止めるのだろう。砂利運搬船も通行する。郷土
史に詳しいつくば市在住の友人に聞くと、かつては地産の米を東部の佐原に運び、さらに江戸
まで送り届けたらしい。

    夏川やさくら川とていにしへゆ   壯治

 五、六年前に吟行で訪れた千葉県佐原(現香取市)と、頭の中の地図もつながった。佐原に
生まれた伊能忠敬が日本地図を作るという大願に取り憑かれたのも、霞ヶ浦や利根川を中心
とした広大で変化に富んだ地形を思えば、なんとなく理解できるような気がした。現代の私たち
より、ずっと強い国土への愛着があったのだ。

    鎮魂の湖(うみ)のきらめき白き鷺   有史

 鎮魂しなければならない御霊は数えきれない。

亀城から市街へ
 桜川の近くでタクシーを呼んだ。待ち合わせ場所がうまく伝わらず、やや手間取ってしまっ
た。運転手に「カメシロ公園へお願いします」と言うと、「キジョウ公園だね」とのこと。亀城と書
く。
 タクシーは常磐線のガードをくぐり、繁華な一郭を抜けて亀城に着く。10分にも満たない。亀
城とは、土浦城の通称である。徳川家譜代の大名土屋氏の居城として幕末を迎えた。江戸
城、大阪城などには比べものならない小城で、この辺りの豪農の屋敷にも引けを取りそうだ。

   亀城(きじよう)夏堀の岩にも亀のをり   木の葉 

 堀は本丸を囲っている。かつてはその周りを藩士の屋敷が軒を連ね、常陸の国では水戸藩
に次ぐ領地を持つほどの威勢であった。東側の霞門から中に入る。

   楠若葉亀城と呼ばれ水の城      舞九

 公園内にも水が引かれ、遣り水や池に生かされている。だが、それより先に目を奪うのは、
櫓や土塀、屋根などを包むシートや改修用の足場である。耐震構造には縁のない時代の建物
を復元した(メインの東櫓は平成10年に完成)ものゆえ、震災直後は目を覆うばかりの惨憺た
るありさまだっただろう。白い漆喰の壁は崩れたまま、うたた荒寥。
 救いは新緑である。楠若葉、葉桜、椎若葉などが瑞々しい。椎の花もきらびやかに咲く。

   咲き満ちてなほ静かなり椎の花    かおる

 私たち以外に訪れる人も少ない。ベンチに休んでいると、珍しく老紳士が近寄ってきた。その
少し後を令夫人と思しき女性が続く。二人して椎の古木を見上げる様子が奥ゆかしい。旧藩士
の子孫かとも思えるような古風な夫婦の姿に、なんとなく心引かれた。

   老夫婦やや離れ来て椎の花     壯治

 「間(ま)」について考えたくなる。極論すれば、その時と場にふさわしいかどうかを知る感覚
が、「間」の良し悪しを分ける。だから「間に合う」と言う。無論、人と人の「間」にも通じる。
 老夫婦も見た椎古木(亀城のシイ=県指定天然記念物)の下に、地元の俳人らしき人の句
碑が二つあった。写しもしなかったので、ここには掲げられない。

   椎若葉やくたいも無き句碑二つ    夢

 公園造りも行政の仕事だが、なかなか「間に合う」ものは少ない。人と自然との「間」を測るの
が難しいらしい。震災以後、頻りにそんなことばかり頭に浮かぶ。
 
    病む鳩の地にゐて梅の実りをり   ひでを

「もうそろそろ行くか」という、ひでを宗匠の声に促されて公園を出た。旧二の丸跡に建つ〈市立
博物館〉、旧藩校〈郁文館〉の正門がそのまま残る土浦第一中学校など、史跡を生かしつつ町
づくりをした行政は評価できる。大手町の名が残り家庭裁判所が建つ。

    つばめ飛ぶ家裁にバギーの女ゐて   木の葉

 城南の大手門跡から中城通り(旧水戸街道)へ出てそぞろ歩く。歴史的町並ということでレト
ロな商店街が保存されている。一見、映画のセットのようでもある。衣料品店の〈中屋〉に入
る。地域の情報センター機能も果たしていて、地元産の食品や工芸品を置く。地図や施設紹
介のパンフレットなどから、力の入れ具合が伝わってきた。
 土浦市は最近、隣のつくば市に押され、地域の活力が相対的に落ちている。句会場の和風
居酒屋〈高砂〉に向かう目抜き通りは、シャッター街と化していた。その後で〈高砂〉の冴えない
店構えを見たものだから、夢さんと木の葉さんは「ここ?」と、やや鼻白んだ表情になった。イン
ターネットの情報では概ね高得点だったので、「そうです」と答えて暖簾をくぐった。
 実は昨日、奥の個室を掘りごたつ式に改築し終えたばかりだそうで、私たちが第一号の客と
なった。壁や床の建材が新しい。外観とのギャップの大きさに驚きながらも、両マダムはどうや
ら愁眉を開いたようである。その後、次々に頼む料理は刺身から始まり、あなごの白焼き、海
老フライ、茶碗蒸しなど、どれも期待以上の味だった。
 句会を終えて上がりかまちに出ると、店内は来客でぎっしりと立錐の余地もない。改めて地
元の人気店なのだと納得した。










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