秩父・長瀞紅葉狩吟行記   二〇一一年十一月

秩父・長瀞紅葉狩吟行記 
    二〇一一年十一月十六日(水)一二三壯治記


長瀞から宝登山へ
 秩父は心理的に遠い。交通の便からか、夜祭など伝えられる情報の少なさからか、どこか神
秘的にさえ感じられる。これまで吟行地の候補に浮かんでは消えていたのも、億劫な思いが先
立ったからかもしれない。
 それが今回いよいよ実施の運びとなったのは、紅葉狩の適所として再浮上したからだった。
埼玉県入間市在住の橋本有史さんがお近くとのことで下見までされ、綿密なプランを立ててく
ださった功績も大きい。

  長瀞や流れとまらず水澄める    有史

 プランのスタートは長瀞。池袋駅から東武東上線で寄居駅に行き、そこで秩父鉄道に乗換え
て約2時間を要した。荒川の上流近く、長瀞駅前から渓流に向かう坂道にはレトロと呼ぶにふ
さわしい料理屋、土産店がひしめいている。こんにゃくおでんやまんじゅうなどの試食に気を取
られていると、時間が幾らあっても足りない。まず、河原で昼食を取る。

  渓谷の岩場に開くさんま寿司     かおる

 天然記念物にもなっている〈長瀞岩畳〉に腰を下ろし、それぞれ弁当を開いた。サンドイッチ
あり、おにぎりありと多種多彩だが、かおるさんの「さんま寿司」が一番贅沢だった。
 長瀞の名は、岩に急かるる滝つ瀬がにわかに深みへ落ち込み、静かな流れとなったところ
から付いた。「とろ」という響きが、古代の人々の瑞々しい感性を伝える。
 岩畳は自然にできた観覧席のように段状に穿たれ、前方に渓流を見下ろし、後ろに宝(ほ)登
山(どさん)を仰ぐ絶好の位置にある。時折、渓流をライン下りの船が行く。

  冬うらら億の足あと岩畳      建一郎

 岩畳の特異な地形を研究したのが起源で、日本の地質学発祥の地になったという。
 川風が冷たい。腹ごしらえも済んだので駅まで戻り、タクシーで宝登山神社へ向かうことにす
る。駅前のタクシー営業所に行くと一台しかなく、ピストン輸送すると言われた。いかにものん
びりしている。儒教精神ではないが年長者3人を先に遣り、10分ほど待った。

  タクシーの戻り待つ間の日向ぼこ    かおる

 宝登山神社本殿は、千木と鰹木が美しい堂々たる入母屋造である。後背の山並みが威厳を
添えている。

  宝登山の本殿見上ぐ神の留守     建一郎

 宝登山神社の起源は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折(西暦110年頃)に、この
山で火事に遭ったところを山犬の群が飛び込んで鎮火してくれた伝説に基づく。初めは「火止
(ホド)山」と書いたが、後年宝登山と改称した。祭神は日本武尊のほか、大山祇(オオヤマズミ
ノ)神(カミ)、火産(ホムスビノ)神(カミ)など。本殿のほかに各社殿、神宮寺の玉泉寺なども併せ
持つ大境内である。
 本殿の裏手から、展望台へ向かうロープウエーが出ている。さらにその先には奥社がある。
ほんの5、6分の乗車で山頂駅に着く。

  もみじ葉に影落し行くロープウエー     壯治

 晩秋の空は晴れわたり、銀杏や楢、椎などの葉を照らしている。紅色より黄色い葉が多く、ロ
ープウエーの影をくっきりと映す。
展望台で「代参を頼む」というひでを宗匠のいつもの台詞を聞いて、かおるさん、木の葉さんと
年少トリオで奥社に向かう。梅や蝋梅の庭園を通り、広葉が落ちる坂道を進むとすぐに着い
た。小さな祠があるだけで本殿との格差は著しい。拍手を打ち、下りの乗車時刻を見越して転
がるように戻った。

  団栗を踏みゆく参道下り坂     木の葉

■和同開珎の里
 長瀞駅から和銅黒谷駅に向かう。改めて秩父鉄道を紹介しよう。東は埼玉県羽生に発し、西
は御岳山の三峰口に至る。近年、休日にはSL列車も走り、歴史と景観の再発見が進む。今
回は、秩父駅をゴールとする。吟行には絶好の小春日和である。

  マフラーを捲きてはずして秩父行    木の葉

 和銅黒谷駅には、日本最初の貨幣として知られる和同開珎の掘り跡や和銅山、モニュメント
などがある。まず、徒歩で10分ほどの至近にある村社〈聖神社〉を訪ねる。金運の神としてブ
レークしているのか、若い女性たちが忍びやかに参拝していた。朱塗りの宮殿前には、直径
1・2mほどの巨大な和同開珎レプリカが据えられている。

  冬日和銭神様はご繁盛     ひでを

  銭形に金運祈る小六月      舞九

 今年は東日本大震災があり、私的に金運を祈るよりも公の「復興」を祈りたい気分である。宝
くじに当たるような金運に恵まれたなら、半分は義捐金に回そうか。残りの半分で質屋を始め
る、「いつも行く質屋が遠いので…」というのは落語のネタである。

  朴落葉大地の揺れて九か月     建一郎

  聖社の守護あり木守柿たわわ     壯治

 神社前の道を挟んで、銅洗堀が細く流れている。その岸辺に大きな柿の木があった。銅洗堀
に沿って野道を600mも進めば和銅山だが、今度は代参の時間がない。仰ぎ見て立ち去るこ
とにした。
 和銅黒谷駅では10分ほどの待ち時間があった。暖かいホームに出て、近くに農家や畑、遠
くに秩父の山並みを眺める。時間が止まったように感じられる。

  夕日さす平屋の駅舎山ねむる     かおる

■秩父神社周辺
 秩父駅に着く。駅前のロータリーに冬桜が咲いていた。

  山脈や兜太の里の冬桜      舞九

 現在も活躍する俳人の金子兜太は秩父生まれだそうな。随所に句碑でもあるかと思ったが、
案外に見当たらなかった。俳人は、その死によって価値が定まる人種なのかもしれない。
 5分ほど歩けば秩父神社である。想像していたより街中にあり、どこか西欧のキリスト教会と
八方の道を集めるピアザ(広場)に似ている。境内は大きな銀杏の木々に覆われ、大鳥居奥の
荘厳な社殿を隠す。

  夜祭りの前に静まる社かな    有史

 全国的に有名な「秩父夜祭」は、毎年12月3日に行われる。御神体山の武甲山に向けて笠
鉾や屋台(山車)を曳く〈祭神出御の神事〉がメインイベントで、屋台歌舞伎、曳き踊り、大花火
などの添え物が入るらしい。残念ながら一見していないので、これ以上は伝えられない。なお
祭神は、天之(アメノ)御中主(ミナカヌシノ)神(カミ)、八(ヤ)意思兼(ゴコロオモイカネノ)命(ミコ
ト)、知知夫彦(チチブヒコノ)命(ミコト)、秩父宮雍(やす)仁(ひと)親王の四柱。
 社殿は徳川家康公によって再建されたとあって、日光東照宮に似た絢爛たる彫刻が鴨居の
外部を飾る。正面(南)に子育て虎、東につなぎ龍、西にお元気三猿、北に北辰の梟が配され、
すべて極彩色の上に金色も惜しみなく塗られている。

  三猿の耳目も開く神の留守      舞九

  いてふ散る社殿の黄金こぼす如   壯治

 裏手には柞(ははそ)の森がある。「ははそ」と「ちちぶ」は語呂合わせのようだが、神社の縁
起を解く鍵になる。秩父神社に先の宝登山神社、三峯神社を加えて「秩父三社」と総称する。
そのうち三峯神社は祭神がイザナギ、イザナミの夫婦神である。どうやら、それに「ちちぶ(父
神)」と「ははそ(母神)」を当てたと考えられる。と、そろそろ話を人間界に戻そう。
 いつのまにか空が暮れなずんでいる。大鳥居から真直ぐに延びた商店街を通って西武秩父
駅の方に向かう。門前に菓子の老舗があり、「柞饅頭」を売っていた。そのままずっと映画『三
丁目の夕日』めいた洋品店、電気店、喫茶店、医院などのレトロな商店街が続く。傾きかけた
ような安食堂では、ひでを宗匠とかおるさんが「思い出にビールでも…」と望まれたが、句会場
(飯能〈清河園・蜻蛉亭〉)の予約時刻があるので諦めていただいた。
 通りの外れに、旗下山慈眼寺という墓地を併設する寺があった。素通りしかけたが、宗匠が
「ちょっと寄って行こう」と言われる。中に入ると、本堂脇の売店で目薬の木を煎じた茶を振舞
っていた。
   
  薬茶の振る舞ひを受く冬の寺      木の葉

  慈眼院にお茶をいただく冬紅葉     ひでを

 さまざまな眼福のあった吟行だったが、最後にその眼を労わるサービスがあったのはありが
たい。急ぎ足であったことや三峯神社を見残したことが多少の悔いとなり、宗匠が珍しく「今度
はもっとゆっくり、また秩父に来よう」と言われた。みな口々に賛同したのは、秩父には何か心
惹かれるものがあったからだろう。そこで「この稿は続く」としておこう。








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