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東京湾ぐるり吟行記 二〇一一年九月二十八日(水) 一二三壯治記
■祝福されたフェリー日和
我らセミの会は、随所で幸運に恵まれる。今回の吟行も、大げさに言えば「神仏の加護」が
あらんかぎり降り注いだとしか思えなかった。
九月の祝日(敬老の日、秋分の日)が揃う週であること、木下ひでを宗匠の都合が悪いことな
どの理由から、第三水曜日が通例の吟行日を一週遅らせた。すると、新幹線を初め都内の電 車がほとんどストップするほど猛烈な台風十五号を避けることができた。それを「ツキ」と一言 で片付けてしまうのは感謝が足りない。この日の天候を見たらもう、会員一人ひとりの常日頃 の行状の良さまでも嘉したくなる。
九月も下旬になって、ようやく天高く澄みわたった。風はなく、夏の名残の粘り付くような暑気
もない。神奈川県横須賀市久里浜からフェリーで千葉県側の金谷に渡る計画である。午後の フェリーを待つ間、京急久里浜駅前からタクシーで〈花の国〉植物公園に向かい、そこで昼食を 取る。
野分あと残りし花のけなげさよ 有史
ふだんなら百万本ものコスモスが咲き乱れる時期だが、台風にほとんどなぎ倒されていた。
その中で咲き残る球簾や彼岸花、ハーブの花々が頼もしい。
〈花の国〉は乗合バス型のフラワートレインが走るほど広く、小高い丘陵地にあるのでフェリ
ーの乗船時刻を考えるとそう長居もできない。再びタクシーを呼んで早めに乗り場に移動し、 片道700円の切符を買って船に乗り込んだ。
フェリーは自動車ごと運ぶだけあって横幅が広く、客室も上下階に各百席程度、甲板には円
い小さなテーブルと椅子が並べてある。出航はゆったりと向きを変えるところから始まる。水面 に描かれる複雑な波紋から、スクリューと舵を微妙に操作しているのがわかる。3分ほどで進 行方向が定まると、房総半島の山々が薄もやの中に浮かび上がってきた。その中に、ギザギ ザ尖った山容を見せる辺りが目指す〈鋸山〉だろう。船はゆっくり動き出す。
秋航や上総の山も衣干す よろこぶ
対岸の浜金谷までは約40分の行程だ。甲板上はさすがに風が強い。夏帽を押さえながら、
懐かしい潮の香を嗅ぐ。
船上に秋の風受けかもめ舞ふ 木の葉
かもめが船の近くを飛ぶ。乗客が餌をくれるものと期待しての習性だろう。船室に入って2階
最前列の席に陣取ると、自動車の助手席から眺めるような景色に変わる。海上にも交通ルー ルがあり、どうやらフェリーのような公共の船には優先権があるらしい。小さな漁船が次々に航 路を譲るのは、「下にぃ、下にぃ」と触れ歩く大名行列のようで気分がいい。
鰯船そこのけそこのけフェリー行く 壯治
中間点付近だろうか、1m足らずのブイ(浮標)が漂い、ライトが見える。夜間航行の安全を守
るのだろう。あるいはフェリーの軌道を示すのか、船体はすぐ脇を通過した。そこからはアッと 言う間であった。色を変えつつある山々が屏風のように見る見る迫ってくる。滑るような安定し た航行のまま、ゆったりと浜金谷港に着いた。
■鋸山に登れば百尺の観音像
浜金谷港から鋸山ロープウェーの乗り場まで10分ほど歩く。陽光と浜風がやわらかい。港近
くには干物店や回転寿司のチェーン店などが並び、国道127号に出ると鋸南町の家々が内房 の海の光を受けて時間が止まったように静まり返っている。
ロープウェー乗り場は急坂の麓にある。切符売りのおばさんや乗客誘導のおじさんがいて、
「あと5分お待ちください」とか「どちらから?」「記念写真を撮ります」などと声をかける。土産売 場もあり、変わりばえのしない観光地といった印象だ。大人900円の往復切符を買って乗る。
車両は小さくほんの6人ほどが座れただけで、残りの10人くらいは満員電車並みに立ち乗り
を強いられる。動き出せば、窮屈さなどすぐに忘れる。上昇するにつれて、眼下に光る広い東 京湾と鋸山の急峻な樹林とを交互に眺めていると、7、8分の乗車時間は物足りないほどだっ た。
垂直の岩の高さや蔦紅葉 かおる
初紅葉と呼んでもいい、蔦のほのかな紅に見とれているうちに降車場に着く。東京育ちのか
おるさんは、かつて遠足で鋸山を訪れたことがあり「ぜひ日本寺の百尺観音を見ましょう」と提 案された。初来訪の身にはありがたく、道案内をお願いすることにした。西口管理所と札のあ る入口で拝観料600円を支払って日本寺の域内に入る。
秋天をはつる鋸山のあり 壯治
正式号は乾坤山日本寺。ここもまた行基菩薩の開山で、関東最古(西暦725年)の勅願所と
言われる。由来書によると、良弁僧正、慈覚大師、弘法大師などの名僧高僧が多数修行に訪 れた古道場で、かつては七堂、十二院、百坊を擁した。
山道を赤いヒールや曼珠沙華 木の葉
30歳前後のカップルが私たちの前を行く。確か同じ車両に乗っていたが、女性のほうのハイ
ヒールが山歩きにふさわしくなく、どうもワケありの雰囲気が感じられて、さまざまな邪推憶測を 禁じえない。いや、いけないいけない。山では六根清浄。心の不浄は、山の神の最も嫌うところ である。
山道を歩けば、他人の足元に気を取られてもいられない。崩れかけた石段に注意しながら、
一歩一歩足を運ぶ。ひでを宗匠は、折りたたみのステッキを取り出した。木の根が張り出して 足場の悪い場所、急に高くなる石段などもある。おしゃべりしたり、時々休息を入れたりしなが ら、12、3分で山頂近くの百尺観音立像前に出た。
百尺の観音の上秋の空 かおる
秋澄めり聖観音の岩うがつ 有史
鋸山は岩山で、房州石という堅牢で加工しやすい石を産出する。観音像は山の斜面を穿ち、
レリーフ状に彫られている。6年の歳月を要し、昭和41年に完成した。戦争や交通事故の犠 牲者を供養する大慈大悲からの発願であった。
足を延ばして山頂展望台に向かう。さらに急な坂道を3分ほど行く。断崖絶壁の〈地獄のぞ
き〉は北西の斜面を眼下に見下ろす。上ってみたはいいが、高所恐怖症なのを忘れていた。 下からの強い風に足がすくんでしまい、石の上をロープにつかまりながら及び腰でやっとこさっ とこ下りる。
10分ほど居て、帰り道をたどる。ロープウェーの時刻と次の移動の計画を考えて、実に気ぜ
わしい。それでも帰りの足どりは軽い。
五線譜の蔦の弦ありト音記号 木の葉
樹木と絶壁の間に木の葉さんが見つけたのは、蔦が形作った自然の「ト音記号」である。負
けじと、断崖に穿たれた穴の数々を見て一句。
穴見ては仮説さまざま秋の山 壯治
石段の脇、人が足を踏み入れない場所に露草が咲いていた。薄い青紫が「何やらゆかし」で
ある。
露草の断崖の辺に光りをり かおる
時間と体力を考慮して、今回は日本寺の北西側を辿るにとどめた。すべて歩いてみようとい
う向きには、東側から無字門を入って表参道を抜け、観音堂、大仏像、千五百羅漢道などを 辿るコースがある。船橋市在住で何度も登られたよろこぶさんは「今日は遠慮しておく」と、下り のロープウェー乗り場で待機。お一人で周辺を吟行したらしく、名句を物された。
影といふものにもありし秋日和 よろこぶ
鋸山だけの吟行ならば、もう少し秋が深まったころがいいかもしれない。
鋸山秋遠足の老稚園 ひでを
■口福をもとめて五井再訪
ロープウェーを降りて、JR内房線の浜金谷駅まで歩く。国道から狭い脇道に入ると、駅に続
く商店街である。地物の野菜や果物、水産加工品などを売る店、雑貨店、小さな喫茶店などが のんびりと営業している。
時間がたっぶりあるので、駅前の喫茶店に入ることにした。店内は10人も入れば満席という
ほど小体で、左右の壁面はマンガ本に埋めつくされている。列車を待つ地元の高校生がたむ ろする店なのだろう。大テーブルに6人がドカッと陣取り、有史さん以外のメンバーはビールを 注文した。
初老の夫婦が営んでいるらしく、時ならぬ来客を喜んでいるように感じられる。ビールと一緒
に出た枝豆は、茹でたばかりで温かく軟らかだった。
行きづりの茶店の枝豆温みあり 有史
飲んで話すうちに、出発を早めようということになった。店の主人に列車の時刻を訊くと、「う
ちには時刻表がないので、駅に行って見てきます」と言う。それは申し訳ないと断る間もなく、脱 兎の勢いで飛び出して行き、すぐに戻ってきた。折りよく次は特急列車だという。そこまでして いただいては、否が応にも乗らねばならない。口々に礼を述べて店を出た。
日が西に傾きかけるホームで列車の到着を待つ。
秋夕日バスストップで君を待つ 木の葉
木の葉さんの一句は実景ではない。いや、実景かもしれないが、私たちのことではない。マリ
リン・モンロー主演の「バスストップ」を彷彿させる。ひでを宗匠が呼応して一句。
モンローの口紅思ふ秋落暉 ひでを
次の目的地は内房線の五井である。45分ほど特急列車に揺られる。車窓の秋落暉は、しだ
いに色を濃く暗くしていく。ビールが効いたか、少しうとうとしかけた。
五井では駅前の大衆割烹〈浜乃井〉に行く。かつて養老渓谷への紅葉狩の帰りに、今回不参
加のあらかわゆきこさんが鋭い嗅覚で見つけた店である。地酒と鰯、鯵などの地魚の料理が 忘れられず、再訪を決めた。前に頂いた名刺を探し出して電話すると、今も営業していた。飲 食店の盛衰定めなき時代には珍しいが、「あの味なら当然か」と納得もした。
五井駅に着くと、記憶を頼りに筆者が先導する。妙にわくわくするのはなぜだろう。昔の恋人
に逢うのも、こんな気持ちだろうか。店は以前と同じ構えで、宵闇の中に淡く看板灯の光を放っ ていた。
店は12畳ほどで約半分がカウンターと調理場、残りが土間と桟敷になっている。奥には3畳
ほどの座敷もある。私たちは桟敷の奥に上り、酒、肴を次々に注文した。以下、リストを列挙し よう。酒はビールに、地酒「越古井」の冷や。肴は、刺身の舟盛、鯵のなめろう、それを揚げた サンガ、「お試しに」と勧められた鯨のタレ、長茄子の漬物など。これで酒が進まないはずがな い。「旨い」「懐かしい」「珍しい」と言っては店の女将に食材や作り方を聞き、さらにまた各々舌 の感動を深めるのである。
セミの会が誇る二大酒客の句をもって、口福の夜を締め括るとしよう。
とんとんとんなめろうたたく九月尽 よろこぶ
鯵叩く八犬伝の昔より ひでを
五井発20時54分の急行に乗って、約1時間で東京駅に着く。酔いは少し覚めても、思い出
の余韻はなかなか鎮まらなかった。
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