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二〇一一年七月十三日(水) 一二三壯治記
■蓑毛山に涼を求めて
神奈川県北西部の丹沢山地といえば、かつて大山の阿夫利神社を吟行したことがある。最
高峰が姥ヶ岳(1673m)で、丹沢山(1567m) 、檜洞丸(1601m)を東西に従えて、相模湾の 方へなだらかに下る。北側には、これもかつて夏に吟行した相模湖が四方からの水を蓄え、 都民に自然散策と憩いの場を提供している。
セミの会には、「夏は山の方へ」という暗黙の了解がある。涼を求める思いが強いからだ。し
かし、ご存じのように関東平野は広く、日帰り吟行に適した山岳エリアは限られている。新たに 候補地を探すのは、それこそ虫眼鏡で山のひだを隈なく調べるような仕儀となる。
「大山登山道の途中に蓑毛という土地があり、そこの宝蓮寺がなかなかいい寺らしい」と、例に
よって木下ひでを宗匠の投げかけがあった。アクセスを調べると、小田急線の秦野駅前から バスが出ている。ひでを宗匠はまた「源実朝の首塚が秦野駅近くにあるので、それも見よう」と 言われた。真夏日が続いており、バス移動をメインに徒歩はなだらかな山下りにとどめる計画 にしたのだが、これが後で大きく崩れることになろうとは、まだ誰も知らない。
峰雲や隆起続ける山の波 建一郎
秦野駅前からバスに揺られること約30分。蓑毛に降り立ったのは、健脚自慢(?)の5名であ
る。バス停からすぐのところに〈蓑毛山宝蓮寺〉が建つ。盛りを過ぎた紫陽花が参道に咲き残 り、山門前で七体の地蔵が迎えてくれる。本堂の赤い屋根が見えてくる。
尼僧ゐて日傘干したり蓑毛山 壯治
本堂近くの植込みに日傘を干す光景はのどかで、普通の市民生活と変わらない。尼寺と思い
きや、男の僧侶もいる。夫婦か家族で寺を経営しているのだろうか。臨済宗の寺である。
住職と思しき人に「お墓の方を拝見してもいいですか」と断ると、「はい、ご自由にどうぞ」と快諾
してくれた。
松、梅などの低い木立を縫って隘路が続く。すぐに小さな水くみ場があり、蛇口をひねって手を
潤すと冷たい。「飲めます」と札が出ていたので、ひしゃくに汲んで飲む。清冽、まさに山の自然 がこぞって鍛え上げた刃のような涼味だった。思えば「丹沢山系」は、名水のブランドで通って いる。
墓地は山の斜面というより、崖っぷちを段々に切り開いて造った形状だ。10mほどの幅に密
集した墓石群が奥へ奥へと続く。
墓地の中ひときはしるき半夏生 かおる
」
崖側に半夏生(半夏生草、半夏草)が咲いていた。一茎に竹の葉と似た葉を付け、白い花を
付けるところから片白草、三白草とも呼ばれる。この草が咲くのにちなみ、二十四節気で夏至 から十一日目(陽暦7月2日ころ)も「半夏生」という。名に詩情があって俳人好みの季語であ る。
半夏生造化の神の忘れもの ひでを
墓地は斜面をらせん状に寺の背後まで続くのだが、適当な高みを見つけて休む。軽い昼食
を取る者もいる。見下ろせば秦野の市街が広がる。今は霞んでいるが、秋冬には相模湾まで はっきり遠望できそうだ。
老鶯や下の峰よりほととぎす ひでを
老鶯に交じってほととぎすの声が聞こえた。これも珍しい。市街地ではなかなか聞けない。江
戸時代でも、京都の洛中ではあまり聞けなかったことが蕪村の〈ほととぎす平安城を筋違に〉 の一句から伺える。
この旅に僕も来たよとほととぎす 木の葉
「僕も来たよ」と言われれば、そう聞こえなくもない。それほどに鳴き声が人語めいている。じっ
と聞き入ったが、鳥語はすぐに遠退き、ぴたりと止んでしまった。私たちの声に怯えたのだろう か。
ひとときは友の死に啼け時鳥 壯治
この時期はまだ、当会の句友塚田凡天さんの逝去から日が浅い。何かにつけて思い出を語
りたい気持ちが強くあった。里山歩きを趣味の一つにしておられたので、存命であったなら各 地で聞いたほととぎすについて面白い話をされたかもしれない。
■山を下れば足どり軽く
宝蓮寺は、鎌倉時代創建の薬音寺を母体として再興された。登山道を挟んで建つ〈大日堂〉
を管理する役目を担っていたといわれる。その縁起を物語るように、大日堂は正面に仁王門、 背後に不動堂、閻魔堂、神楽殿、御岳神社を擁する伽藍である。大日如来を本尊としながら 神社も併せ持つ、神仏習合の典型のような「なんでもアリ」の感じが面白い。
大日堂の周囲は、鬱蒼とした高木に覆われている。梅雨の雨水をたっぷり吸い込んだ土や
木肌のにおいがする。各堂宇は、どれもみな現代人の忘れ物といった風情でひっそり建つ。参 拝もそこそこに山道を下ることにした。
向日葵の貌に隈取梅雨明けり 建一郎
道は山の南斜面に沿い、その両側に家々が並ぶ。各戸の庭に夏の花がさまざま咲いてい
る。ほとんどの門前に、半抱えほどの箱に砂を入れ、ミニチュアの御堂と造花、鬼灯などを配 した仏具風の物が飾ってあった。
「あれは、この地域のお盆飾りじゃない?」と木の葉さんが言う。関東では新盆を祝う地域が多
い。特に大山阿夫利神社のお膝元ならば、何事も関東風を貫く伝統が強いのかと察せられ た。新暦では折りしも「盆の迎え火」の日に当たる。「きっとそうよ。珍しいわね」とかおるさんが 応じる。古都金沢を故郷に持つ木の葉さんは、さらに「北陸では見たことがないわ。なんて呼ぶ のかしら」と興味深げである。
盆(つ)迎(じ)といふ言の葉覚ゆ盆の入り 木の葉
「つじ」の呼び名は、後刻立ち寄った金剛寺の刀自に聞いた。無論、金剛寺でも本堂の玄関前
に置いてあった。「六道の辻」の「つじ」に由来するのかもしれない。すなわち、六道(六迷界= 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)から返る魂を迎えるための招魂具と思われる。仏教では死 後、人は六道のどれかに輪廻転生するとされている。
鬼灯をたむけ山里魂迎へ かおる
「鬼灯」は、霊魂の返る道を照らす灯火に見立てられる。これも字面に詩情を感じる。
登山道をさらに下ると水車小屋が見え、その背後に緑水庵、自然観察の森がある。休憩が
てら立ち寄った。市の管理する観光施設だが、無人で愛想がない。ぐるりとひと回り眺めて先 を急いだ。
坂道はなだらかで、前につんのめる心配もない。「やっぱり下りは楽なもんだな」と宗匠。「こ
の角度がちょうどいいんですよ。これより急になると、かえって危なくなります」とは筆者。「なる ほど、そうかもしれないな」と宗匠も納得し、「大きな鳥居があったな。あそこのバス停まで戻ろ う」と歩を進める。登山口の道標のようなものだが、往きのバスでは気づかなかった。「あれが 目に入らなかったとは、お前さんも相当なモンだな」と、宗匠大笑い。
なつかしきダリアの花や大秦野 木の葉
バス停は「大鳥居」。そのふもと左右の道路に挟まれた三角州状の区画に、阿夫利神社の
分社があり、植込みにダリアの花が咲いていた。派手な紅色の花は、確かになつかしい。昭和 3、40年代の園芸ブームには、ダリアを植える家庭が多かったように記憶する。
こうして山道を下るだけで、植物園のように草花の繚乱を目の当たりにできる。「あれは何の
花、これは何々草」と女性陣に教わりながら行くのは、吟行の楽しさの一つである。
射(ひあ)干(ふぎ)の紅こぼれたる秦野かな かおる
「射干」は、檜扇に似た形状からの呼び名である。表記は漢名に由来する。秋にできる黒い実
は「ぬばたま(うばたま)」と呼ばれる。夜や闇などの枕詞「ぬばたまの」は、そこから生まれた。
■実朝のたたりか、大迷走の顛末
バスを待つ間、大鳥居の少し先まで足を伸ばすと、「実朝首塚」と矢印で方向を示す道標が
あった。「札が出ているからにはそう遠くないんじゃないか。歩いて行こうか」と宗匠が言う。うか つな先達である筆者は、地図で調べておいた位置関係や距離を忘れ、つい同調してしまった。 これが間違いの始まりだった。
その辺りはもう秦野盆地の内である。田畑とまばらな家々、雑木林が続く。秦野の地名はき
っと、渡来人の秦氏が移住したことに由来するのだろう。余談ながら、秦と書いて「はた」と読 むのは、機(はた)織りを日本に伝えたところからとされる。
秦野は大秦野と呼ばれることもある。神奈川県立大秦野高校や大秦野カントリークラブなどが
知られる。いつごろからの通称だろうか。京都の太(うず)秦(まさ)と重ね併せれば、秦氏の隆盛 期に始まったかという想像も成り立つ。面積は大秦野と言うほど広大なわけではないが、何分 にも盆地特有の蒸し暑さの中、多少のアップダウンもある。途中には小さな墓地が点在し「す わ首塚か」と気も上下した。
行き行きて大秦野なり合歓の花 壯治
広々とした野に二階家ほどの大きさの合歓の木を見つけ遠望したときは、芭蕉翁の〈象潟や
雨に西施がねぶの花〉も思い浮かび、中国とのはるかな交流にまで空想が及んだ。西施は春 秋時代(紀元前770〜403)、呉王夫差の寵愛を受けた美女で、亡国に至らしめた遠因ともさ れている。呉王との「合歓」のエピソードが漢詩にも多く詠まれた。
あいつ逝く古刹を訪はば合歓の花 建一郎
亡き凡天さんは明治書院に勤めておられたこともあり、漢詩に造詣が深かった。詩人陶淵明
への傾倒ぶりをうかがわせる〈帰去来をひとりごちをり辛夷咲く〉の一句が忘れられない。建一 郎さんは特に故人と浅からぬ縁があり、「合歓の花」に交遊の思い出や冥福の祈りを込められ たのだと察する。
2、30分も歩いただろうか、野を過って左右各一車線の県道に出た。夏休み前の小学生の
グループに出会う。かおるさんが実朝首塚の場所を尋ねると、「家が同じ方向なので案内しま す」という元気な返事だった。
首塚へ案内は日焼けの小学生 かおる
2年生くらいかと見え、ランドセルを弾ませながら足早に進む。50〜70代のセミの会メンバ
ーは、付いて行くのがやっと。ちょっとでも足を止めようものなら、見失いかねないほど背中が 小さくなってしまう。
少年の姿を追ひて夏の道 木の葉
首塚までは2、3分という辺りで、小学生に礼を言って別れた。そこから県道を挟んだ畑地の
ほうへ向かう。が、またしても迷路に入り込んだように遠回りを繰り返す。ようやくたどり着いた 実朝首塚は、こぢんまりした木立の下にひっそりとあった。地震で少し傾いたのか、五輪塔と 石灯籠が不安定に並んでいた。
首塚にたどりつきたる夏木立 建一郎
実朝は源頼朝から数えて三代目の将軍でありながら、甥の公暁に暗殺された(1219)。首塚
は公暁追討を命じられた三浦義村の家臣によって築かれたとされる。享年29だったが、実朝 は歌人として名高く「金塊和歌集」を世に遺した。そこから二首。
夏
ほととぎす聞けどもあかず橘の花ちる里の五月雨のころ
雑
物いはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
先に紹介した金剛寺に行く。県道を挟んだ反対側にあり、実朝を供養するために波多野忠
綱が建立したと言われる。歌才があった実朝だけに、その魂を鎮めるには相応の勤めを果た さなければならないと考えられたのだろう。
首塚も実朝なれば汗覚悟 ひでを
短い時間ながら、金剛寺では水をもらって一服し、鉢植えの蓮を拝見して立ち去った。再び県
道に出てバスで秦野駅前へ。お世辞にも賑やかとは言えない駅前で〈魚民〉を見つけて入る。 宗匠と女性陣は、びっしょり汗をかいた衣類を新たにし、晴れ晴れとした表情で席に着いた。 まことに見事な身だしなみであった。
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