![]()
埼玉県吉見町吟行記 二〇一一年五月十八日(水) 一二三壯治記
■ひゃっけつ? ひゃくあな?
「埼玉県吉見町に吉見ひゃっけつという古墳があるそうだ」と、木下ひでを宗匠から電話で伝え
られたのが始まりである。
脳裡には「百傑」の文字が浮かんだが、古墳というからには「百穴かな?」と思い直した。イン
ターネットで調べると、東武東上線の東松山駅からバス、タクシーで約5分と確認できた。どう やら古墳時代末期(6世紀末〜7世紀末。聖徳太子の摂政期も含む)に造られた横穴墓で、天 然記念物のヒカリゴケや戦時中の軍需工場跡もあるらしい(『大辞林』によると、吉見の百(ひゃ っ)穴(けつ)と明記してある)。
吉見百穴管理事務所が運営する受付で、観覧料大人300円を支払って入る。すぐに桜の巨
木が眼に入り、その背後にタテヨコ一メートルほどの四角形の穴を無数に穿った山の斜面が 見える。上に行くほど松や雑木が多くなる。三か所にコンクリートの階段があった。
緑風の百穴にゐて清々し ひでを
斜面もコンクリートで補強してあり、穴には自由に出入りして古代の暗闇を体感できる。外が
初夏の強い日差しなだけに、入った直後は鼻を抓まれてもわからないほど。目が慣れてくるに つれて、茶室ほどの方寸だと見定めがつく。
立て札の説明によると、明治20年の発掘直後は土蜘蛛人(コロボックル人)の住居という説が
優勢だった。墓穴説に取って代わられるのは、大正時代になってからとのこと。話としては、住 居説の方にロマンを感じる。
穴ぐらは夏館によしコロボックル 有史
個人的に諸国の古代史を研究しておられ、埼玉県在住でもある有史さんは「地元では『ひゃく
あな』と呼んでいる」と言われた。あらためてチラシを見ると、確かに「ひゃくあな」と読み仮名が 振ってある。それでもまだ、重箱読みが耳にしっくり来ない。俳句の音韻を考えて悩むような感 じだ。
ヒカリゴケはかなくなりて聖五月 木の葉
地面近くにヒカリゴケの穴がある。ぽつぽつと小さく緑色に発光し、目を細めてやっと捉えら
れた。気温と湿度の微妙なバランスで生育するのだという。
涼しさやかつて軍部の一つ穴 壯治
軍需工場跡は、百穴でカムフラージュするように、内部を左右500メートルにわたって掘った
空間である。完成したのが昭和20年の7月で、ほとんど利用されることなく終戦を迎えた。案 外天井が高く、地下鉄駅ホームくらいのスペースはありそうだった。そこを吹き抜ける風は、自 然のエアコンとなって涼しい。
下に降りて、二か所ある売店のうちの一つで休憩する。奥に穴から涼風の入る席があり、お
茶とお茶請を出してくれた。おかみさんによると「自家製の筍煮、蕗煮」だそうだ。
かあさんの煮た筍の旨さかな 夢
店が暇なこともあってか、おかみと若旦那が交代でやってきて、祖先が学者と共に「百穴を発
掘した」話を写真や資料付きで始めた。その熱弁と声の大きさは、親子とは言え、こうまで似る かと思うほど。話は概ね20分ほどに及ぶのだが、ここに逐一書き留めるわけにはいかない。 ただ明確にわかったのは、百穴のある山はこの家族(大沢家)が地主であり、また「まかり間違 っても『ひゃっけつ』とは呼ばない」ということだった。
夏草や百穴めぐる大論争 建一郎
女性陣は、お茶とお茶請の礼に地元の土産を2つ、3つずつ買った。
敷地内には「埋蔵文化財センター」と「資料展示館」が併設されていて、この地から出土した
縄文時代の遺物などを数多く展示している。
■折鶴に祈りを込めて
初夏にしてはぐっと気温が高くなった。おそらく30度を超えたかと思われる。埼玉県は広い
関東平野の内陸部と言ってよく、東京都内よりも高温になりやすい。
夏帽の代はりに地図を頭上かな 壯治
百穴からほんの2、3分のところに「岩室観音」がある。青葉に覆われた岩窟にあるので、涼
みがてら立ち寄る。比企西国三十三所観音札所の第三番で、狭い階段を上った二階の御堂 には八十八体の石仏が収められている。
岩室の願掛け堂やねぎ坊主 かおる
大沢さんの情報によると、ここで「紙に願い事を書いて、折鶴にして奉納する」のがならわしだ
そうだ。女性陣に「どう折るんでしたっけ」と聞きながら、古い記憶を逆に開くようにして鶴を折 る。何十年ぶりだろうか。
慣れぬ手で折鶴奉納山滴る 有史
折鶴用の紙は色とりどりで、一隅に般若心経の文字が一字ずつ書いてある。筆者は上の紙
を無造作に取り「虚」に当たったが、夢さんは「わたしは『蜜』が好きなの」と、重ねた中から選 んだ。「般若波羅蜜(智慧の完成されたものの意)」の「蜜」だが、主婦の夢さんには甘い「蜂蜜」 のイメージなのだそうである。
折鶴に畳みし願ひ風薫る 夢
各々どんな願を掛けたのだろうか。かおるさんの折紙をちらと覗くと、「復興」や「平和」の文字
が見えた。今は個人より日本、そして世界である。拝殿に納めて静かに合掌する。
「いや、この絵馬はおもしろいなあ」と、ひでを宗匠が明るい声を発した。天井際を見上げると、
素人が描いたような馬が何十頭も並んでいる。丸顔で馬に見えないのもある。顔の下には脚 も。みな名前が書き込まれていて、おそらくは農耕馬だろう馬一頭一頭への農家の人々の深 い愛情がしのばれる。褪色ぐあいから、昭和初期ごろの奉納かと思われた。
変り絵馬掲ぐ山寺若楓 かおる
岩室観音を出て、県道(東松山鴻巣線)沿いに歩くとすぐに「吉見城址」にさしかかる。偵察隊
として独り城址に上ってみた。そこはただの草原で、古城の土台と「一天四海皆帰妙法」の石 碑があるだけだった。眼下には東松山市街が広がる。あまり見るべきものがないことを、下に 携帯で知らせた。
再び県道に出て、大沼(別名「百穴湖」)をめざす。ところが、すぐに厳しい日差しに耐えかね、
東松山駅から乗ったタクシー会社に迎車を催促することに。タクシーを待つ間、近くを流れる市 野川に向かうメンバーもいた。
よしきりの囀りつづく土手の風 木の葉
タクシーには大沼で一時停車を頼み、そこから最後の目的地吉見観音(安楽寺)に向かった。
■名物やきとんを諦めるまで
岩殿山安楽寺は坂東十一番札所で、通称「吉見観音」が示すとおり聖観世音菩薩を本尊と
する。約1200年前、行基が菩薩像を彫って岩窟に納めたのが縁起と言われる。
夏草や武州に古刹多くあり 建一郎
坂東三十三札所は鎌倉時代に整えられ、西国三十三所、秩父三十四所と並んで霊場巡りの
伝統を育んだ。源頼朝が熱心な観音信者だったことから、霊場巡りは坂東武者たちにも波及 したらしい。今なら「パワースポット」というところ。江戸時代までは、信仰と行楽の両面で人気を 博した。
山門には仁王像が立つ。造立は元禄年間と考えられている。平成10年までに解体修理が施
されたとのことで、赤の塗装が新しい。
亀甲に土われてゐる寺五月 ひでを
「亀甲文」は古来、瑞兆として尊ばれてきたが、ここにも大震災が影を落としているのか。土も
池も乾いていた。
石段を上ると、本堂、三重塔を擁する伽藍が建つ。本堂は五間堂の平面を持つ密教様式
で、中に伝左甚五郎作の「虎」の絵が納めてある。
甚五郎の虎の落剥暮れかねる 夢
三重塔は、約350年前の寛永年間に杲鏡法印が再建したと立て札にあった。
「何法印て読むんだ」と、建一郎さんが聞く。「電子辞書で調べてみましょう」と手書き機能を駆
使し、「コウキョウのようですね」と答えた。すると「へえ、どうやって調べたんだい。僕のでもでき るかな」と最新型の電子辞書を貸してくれたので、手順を示して差し上げた。「なるほど、これ は一つ勉強になったよ」と、うれしそうに言われた。
参拝客はセミの会メンバー以外に、もう一組中高年の男女がいるだけ。おしゃべりや笑い声
も、あまり憚らない気分になってしまった。「続きは句会の席で」ということにする。
句会場探しは、少し手間どった。木の葉さんが行きのタクシーの運転手から「東松山名物はや
きとん」と聞き、名店情報まで仕入れていた。ところが、ある名店にタクシーで乗りつけると、店 内は思いのほか狭く、ひどく暗い感じなので諦めざるを得ない。そこからほど近い薩摩しゃも料 理の店「里乃味」は個室があって句会向きだが、あいにく「やきとん」はない。場所で選ぶか、 あくまでやきとんにこだわるかの決断を迫られた。
日は高くビールの刻となりにけり ひでを
ここは、これ以上動きたくないというメンバーの空気≠読んで「里乃味」に決めた。
![]() |