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湯島・上野界隈吟行記
二〇一一年一月十九日(水) 一二三壯治記
■湯島通れば思い出す
昨年、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』がヒットし、ゆかりの地が観光ブームに沸いた。主人公の
坂本龍馬だけでなく、語り手で狂言廻しのような役を演じた岩崎彌太郎にも注目が集まり、そ の面影や遺業をしのぶ場所が人々を引き寄せている。
東京湯島には旧岩崎邸庭園があり、都の管理する施設として公開されている。筆者も含め
初めて入園するメンバーが多いので、わかりやすい湯島天神社に集合して旧岩崎邸へ向か い、さらに上野界隈を吟行する計画とした。
湯島天神社については今さら説明するまでもないが、祭神は学問の神様菅原道真。1月は
初詣や受験生の願掛けで混み合う。ものの本によると、江戸の領主だった太田道灌が夢で 「菅神に謁見」した翌朝、その「尊容」そっくりの画を携えて訪れる者があった。それを求め、安 置する祠堂を設けたのが縁起とされる(文明10年=1478)。その際、「梅樹数百株」を植えた とも。
探梅の目途をつけたる女坂 舞九
社殿は、北側の大通り「切通し坂」と南側の石段(男坂)、なだらかな女坂に挟まれ、川の三角
州をイメージさせる土地の中に建つ。「数百株」には遠く及ばないが、本殿脇の白梅の大樹は もう満開に近いほど花をつけ、他の木々もちらほらと紅白にほころぶ。この数日、1月とは思え ない暖かさが続いている。
梅樹以上に境内を席捲しているのが、数か所に設けられた絵馬の納所である。それはもう
「ひしめく」という表現がふさわしく、受験生やその家族の心情が胸に痛い。
道真もあきれる絵馬や梅の花 木の葉
絵馬にたくす母の願ひや春浅し 風天子
絵馬万朶冬日一願づつ照らす 壯治
受験など遠い記憶の彼方に霞んでいる我らセミの会の面々は、昼食代わりに大福餅やたこ
焼きを食べながら、参加メンバーが揃うのを待った。
「『湯島の白梅』というのは、いつごろの芝居ですか?」と筆者。
「あれは昭和初期の新劇の演目(だしもの)だな」と風天子さんが答える。
「築地小劇場ですか?」
「それはもっと古い。そうか、君らは新劇を知らない世代なのか。どうも、昭和も遠くなりにけり
だなあ」
そんなのんびりした会話が、急に春めいてきた昼下りにふさわしい。そのうち、木下宗匠と着
物姿の桂さんが少し遅れて到着し、まず7名でゆるゆると北門の石段を下った。
■華麗なる一族のシンボル旧岩崎邸
旧岩崎邸庭園は南を切通し坂、北を無縁坂に接している。完成時は、1万5千坪の敷地に和
洋20棟以上の建物があった。現在はかなり縮小されたが、それでも約1700uとなお広大で ある。
一般400円の入場料(65歳以上は200円)を払って東側のゲートをくぐると、なだらかな坂が
続き、上りつめた北側の高みに、洋館を仰ぎ見る形で受付が置かれている。前庭は丈の高い 棕櫚の木やヒマラヤ杉の影が濃い。わずかな陽だまりには、わらで覆った紅白の寒牡丹が咲 いていた。
蓑を着てやや傾きぬ寒牡丹 桂
洋館は木造二階建てながら、白塗りが美しいファサード(正面)を持つ。バルコニーの上にイス
ラム風のドーム状塔屋がそびえる。そのバルコニーの下をくぐって入ると、中はアール・デコ風 のステンドグラスと黄色味を帯びたライトでまばゆい。
すぐに大きくなだらかな曲線を描く階段が目に飛びこんでくる。これこそが洋館の見せ所で、貴
顕淑女を出迎える主の風格を演出し、また邸宅の豪華さを印象づける装置でもある。階段の 側面や支柱には植物が蔓を巻くジャコビアン様式の装飾が施されている。17世紀の英国で流 行した文様で、ネクタイなどの「ペイズリー」と呼ばれる柄にも近い。その暗示するところは、き っと「永久(とわ)の繁栄」にちがいない。
建物の設計者は英国人ジョサイア・コンドル。鹿鳴館やニコライ堂などの設計でも知られ、明
治期の建築界に多大な功績を残した。コンドル門下の設計者には、東京駅の辰野金吾や赤 坂離宮の片山東熊らがいる。
順路案内に従って階段を上ると、次々に大小数多くの洋間が続く。家族9人に対して40数名
の使用人がいたといわれるから、その豪奢な生活ぶりがしのばれる。部屋数は台所、浴室な どを合わせると50を超えるらしい。
春浅し彌太郎没せし屋敷跡 建一郎
筆者も建一郎さんと同じように、ここを三菱の創業者岩崎彌太郎の邸宅と思って来たのだ
が、実は三代目久彌(彌太郎の長男)のものであった。完成したのは明治29年(1896)。久彌 は32歳の社長として辣腕を揮い、また結婚して2年後だったという。当時すでに父の彌太郎は 世にない(1885)。二階奥に小さな案内所兼みやげの売店があり、彌太郎から彌之助(彌太郎 の弟)、久彌、小彌太(彌之助の長男)と続く四代の経営者を含む家系図が掲げてあった。
「三菱を大きく発展させたのは小彌太だ」と、建一郎さんが言った。中公新書『岩崎小彌太』(宮
川隆康著)によると、三菱の経営の伝統は「社長の独裁」にあったらしい。それゆえの意思決 定の速さが、コンツェルン形式による多角的な事業を成功に導いた。とかくの毀誉褒貶もある かもしれないが、三菱財閥が近代日本発展の推進力になったのは間違いなく、四代の経営者 たちも「国家・国民」という視点を忘れなかった。
小彌太は高浜虚子に師事して俳句も嗜み、次のような句を遺している。
職もなく佇む人や枯柳 (昭和7年)
秋風や額づくわれは毀誉の者 (太宰府天満宮)
前句は、昭和恐慌の世相を詠んだものらしい。どちらも(他の句も)強烈な自負を感じる。大三
菱の主として、常にあふれる大志と大観を蔵していたことが窺える。小彌太は終戦の年に没す るので、GHQによる財閥解体を知らない。まさに四代にわたる絶頂の日々が幕を閉じた形で ある。
暖炉消えて明治の煤の薄ぬくみ 壯治
各洋室には暖炉が備え付けられている。その周りで当時の人々は何を語り合ったのだろう
か。壁を飾る「金唐皮の紙」がおのずと高貴な、そして優雅な話題を運んだかもしれない。「擬 革紙」とも呼ぶらしい。
金唐皮の紙の冷たき昼下り 舞九
壁紙に限らず、装飾や調度には当時として最高の贅が凝らされている。二階順路は東側の
客室、集会室などから南の広いベランダへ出る。列柱は太く、イオニア式という装飾がまた、西 欧文明の尊大とも思える匂いを醸す。そこから眺める庭は、周囲に前栽や立木を配した芝生 で、当時のVIPを多数招いて開いたであろう宴会の盛大さまで彷彿させる。芝生の真ん中で、 約1m幅の細長い穴を掘る作業員が働く。何かを埋設する工事のように見えた。
寒牡丹岩崎邸の地下の闇 ひでを
再び1階に下ると、順路は正面玄関前から渡り廊下で和館側へと続く。赤いカーペットが足音
を消す。当時は和洋二館を併設するのが流行だったようで、和館には主に久彌の家族が暮ら した。書院造の大広間では、日本画家・橋本雅邦の襖絵と、欄間や襖の引き手に用いられた 「菱紋」に一見の価値がある。
次の間は拝観者のための茶店になっており、みやげに小岩井農場の〈バター飴〉を売ってい
た。小岩井農場もまた、三菱の資本で開業されたことを初めて知った。
冬牡丹岩崎邸のバター飴 舞九
和館の端から南側の庭園に出れば、館内拝観は終わりである。枯れ放題の芝生をゆっくりと
踏みしめ、別棟になっている山小屋風の撞球室前を通って帰る。ひでを宗匠が手前の椅子 で、小春日に目を細めつつ日向ぼっこしていた。
■しのぶしのばず無縁坂
湯島上野界隈は、古くからの盛り場である。種々雑多な飲食店が軒を連ねる。休憩を兼ね
て、甘味処の〈つる瀬〉に入った。折りしも3時を少し回っている。それぞれ豆かんや団子、抹 茶セットなどを頼む。その間に遅参のかおるさんから、上野に着いたとの連絡があった。
不忍池でかおるさんを出迎え、そのまま無縁坂の方に向かったのが建一郎さん、舞九さん、
筆者の4人。かおるさんには、せめて旧岩崎邸を外側から垣間見ていただくつもりだ。他のメ ンバーとは、5時に〈パークサイドホテル〉前での集合を約して別れた。
無縁坂は、森?外の『雁』の舞台として知られる。今は明治の面影はほとんどなく、邸を囲う長
いコンクリート塀と向かい側のマンション群に挟まれた狭い坂道にすぎない。坂を登りつめる と、東大病院の裏門が見えてくる。
「これが有名な鉄門ですよ」と、建一郎さん。由緒を記した銅板が埋めてある。ろくに読みもせ
ず、病院の敷地内に入る。振り返ると東の坂下の方に、建設途中の東京スカイツリーが迫って 見えた。
鉄門より仰ぐ鉄塔下萌ゆる 建一郎
病院の正面玄関を通ると受付が見え、診療を待つ人々の多さに驚かされた。その側面を、
車道が大学と病院を仕切るように通っている。街路樹の向こうには安田講堂が建つ。それもま た、一つの時代の遺構のように寂しげであった。
ベルツ像かこんでゐたる冬木立 かおる
三四郎池の後方になるのか、人も入れる植え込みにベルツ像のほか幾つかの碑がある。日
本の近代医学をドイツ型に導いた功績を讃えている。
4人はそのまま病院をぐるりと一周し、池の端門から不忍池に戻った。他の4人と合流すべ
く、木の葉さんに携帯で連絡をすると「まだ4時半だけど、〈上野市場〉に入れるようだから先に 行ってるね。少し寒くなってきたし…」との返事。「じゃあ、僕らは池を一回りして、5時くらいまで に行きます」と応じた。
中華料理の〈東天紅〉や高層マンションの隙間から差し込む冬夕焼が、池の面を赤々と照ら
している。東側のビルに乱反射する光もあり、上空はほのぼのと明るい。枯蓮だけが墨絵のよ うに黒い。薄氷も解けかねている。
弁天宮枯れ蓮しげる中にあり 木の葉
枯蓮の池を背にする地蔵かな かおる
冬の不忍池は、荒涼たる枯蓮の墓場に見える。夏には極楽浄土の花を咲かせる蓮だが、冬
の末枯れぶりとの落差は「命あるもののあはれ」を嫌と言うほど伝える。
柳垂る佳人の訃報届きけり 桂
春は軽い足取りで迫っている。柳の芽吹きも近い。
定刻どおりホテルの前に到着された風天子さんを〈上野市場〉へと誘う。
「いい月が出ている。あんまりきれいなんで、ゆっくり歩いてきたよ」と愉しそう。
「池をめぐりて夜もすがら…にはちょっと寒いですね。飲んで温まりましょう」とは筆者。心はもう
酒席に飛んでいる。
枯蓮を満月赤く照らしけり 風天子
〈上野市場〉は3年ほど前にも、水元公園吟行の折に利用した。北海道直送の食材をふんだん
に使っているチェーン店なので、上野にしては安くて旨い。すでに杯を重ねていたひでを宗匠 が、温顔で出迎えてくれた。
ほっけの塩焼き、あんこうの肝、いか焼きなどを頼み、ビールや熱燗、焼酎のお湯割りなど
思い思いの酒で腹を温めた。そのくせ、話題は病気談義や健康法に傾く。
御慶すめば病の話となりにけり ひでを
まあ東大病院も近いことだし、いい1日の締めくくりは「命あるもののあはれ」を忘れて、いつ
ものように酒肴に泥みたい。
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