2010・11新座平林寺紅葉狩吟行記  
新座平林寺紅葉狩吟行記 
  二〇一〇年十一月十七日(水)一二三壯治記


紅葉の名所平林寺
  埼玉県新座市には野火止という地名がある。文字通り野火を止める「火除け地」だったのだ
ろう。そこに玉川上水の分水として野火止用水が掘られたのは承応四年(1655)。名刹平林
寺は、その野火止用水を引き入れた広大な樹林の中に建つ。紅葉の名所として知られる。
「以前、天皇陛下が紅葉狩をされた」と聞いて、我らセミの会でも平林寺の紅葉狩としゃれ込む
ことにした。当日はあいにくの時雨空で、JR武蔵野線新座駅からはタクシーに乗った。七、八
分で平林寺総門前に着く。

  平林寺の紅葉見てゐる秋声忌   ひでを

  平林寺は総門から茅葺きの切妻造りで、禅宗の閑寂を体現している。山号額に「金鳳山」と
あるように、正式号は金鳳山平林禅寺。臨済宗妙心寺派別格本山で、格式は高い。
約13万坪の境内林のうち、伽藍と散策コースを中心に見取図を描いてみよう。
 入場料500円を払って中に入ると、山門、仏殿、中門とまっすぐに続いて本堂に至る。すべ
てほぼ東を向いている。山門は平林寺のシンボルとも言われ、茅葺き重層入母屋造りで、石
川丈山筆の扁額が力強い。山門をくぐると、横に樹齢約600年と言われる高野槙が迎えてく
れる。何もかもが落ち着いていて、精神的な重心の低さを感じる。
 中門前を左に曲るのが規定の散策コースだが、筆者は紅葉の美しさに見惚れて右へ曲って
しまった。きちんと左へ時計回りのコース取りをしたメンバーもいて、期せずして自由散策の形
になった。特に合流ポイントを確認し合わなかったが、「どこかで行き逢うだろう」と、気楽なも
のである。

  紅といふ色さまざまの紅葉かな   風天子

  黒傘は紅葉に染まず小うるさき   有史

 中門の後ろには本堂と林泉境内が控えているが、そこには入れない。遠巻きにして過ぎる
と、ちょうど真後ろに大檀那の大河内松平家(川越藩主)墓所、その向かって左側(南側)に所縁
の人々の墓がある。見性院(武田信玄の二女)墓、戦国武将の増田長盛墓、島原の乱供養塔
などが目を引いた。

  散る紅葉五輪やさしき女人墓   舞九

 暦の上では立冬を過ぎ、時雨のせいもあってとにかく寒い。冬季の「散る紅葉」「落葉」がいか
にも似つかわしい。

  落葉敷く上に落葉の平林寺   かおる

 松平家墓所の後方、野火止塚の脇道はくぬぎ林だが、楓も点々と雨に打たれて立つ。くぬぎ
林を抜けた左奥は群生の「もみじ山」になっていて、ここが〈紅葉狩のゴール地点〉かと感じら
れる。方角が西端に当たるので、西方浄土に見立てたものか。
平安時代、橘俊綱が著したとされる『作庭記』には「東に桜、西に紅葉樹、南に常緑樹、北に雪
山」とある。西に楓の「もみじ山」は作法どおりだ。

  ピアノ弾く手にかへるでや雨の音  壯治

 もみじ山の近くには、夏目漱石の『草枕』に関わる碑があった。どこか山の中の温泉を吟行
する俳人画家の話だったはずだが。あるいは、晩年禅に傾倒したといわれる漱石が、この寺
に参禅した縁でもあるのかもしれない。
いっしょに碑を見た風天子さんが「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に
掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい…だったな」と、冒頭の
一節をすらすら諳んじられた。耳に心地よかった。
 散策順路を3、40分かけて一周し、再び仏殿の方に戻ると手前(南側)に放生池がある。野
火止用水をためたものだ。これも作庭法に適っているのだろう。

  雨のきて水紋はしき紅葉寺   ひでを

  池の「水紋」は、直接の雨と木々からこぼれ落ちる雫から作られる。ここでも、視覚を通して
音楽が感じられた。

■そぞろ秋思の置きどころ
 鳥瞰の「平林寺見取図」が描けたところで、改めて隅々をクローズアップしてみよう。

          茅葺きの反りに染みゆく初時雨   舞九

  仏殿の茅葺き屋根である。その「反り」の工法には定まった規則があるわけでなく、すべて設
計者や工人 (多くは禅僧) の胸三寸にして蔵されている。禅を行ずれば、おのずから美意識も
高まると考えられたからだ。
  臨済宗と並ぶ禅宗曹洞宗の開祖道元禅師は、『正法眼蔵』の中で「寺院・塔頭などを造営す
ることすなわち発菩提心」と書いている。禅建築や作庭の大成者である夢窓国師(疎石)は、嵯
峨野天竜寺、西芳寺(苔寺)などを手がけ、発菩提心を形に表して見せた。

  冬菊や雨宿りする禅の寺   かおる

 時雨空はかえって禅寺の趣を深めるように思う。木造の建物が雨でわび・さびの佇まいを際
立たせるのだ。そこに「宿り」する一刻は、無限の時間とも感じられる。

  めづらかや厠を前に萩黄葉   壯治

 本堂北の板塀を隔てること5、6メートルの所に、同じく和建築の「厠」があった。作務に精を
出す修行僧も利用するのかもしれない。出入口を隠すように、こんもりと萩が植えてある。黄葉
が珍しく感じられた。

          信玄の娘の墓に添ふは山茶花や  ゆきこ

「信玄の娘」見性院は、夫穴山梅雪(武田家武将)の死後、徳川家康の庇護を受け、二代秀忠
の子・幸松丸を養育したことで知られる。2011年のNHK大河ドラマ『江』に登場するかもしれ
ない。

  桐一葉五奉行の墓石ひとつ   有史

  増田長盛は、豊臣政権時「五奉行」の一人だった。関ヶ原で敗れた後、幽閉のうちに自害し
て果てたその生涯が痛ましい。身柄を預かっていた岩槻城主高力家が建てたという「墓石」
は、無骨に角が取れ苔むしている。
同じ墓を見ても、女性は女性の、男性は男性の生涯を偲ぶものらしい。

  知恵伊豆の一門の墓秋しぐれ   建一郎

 川越藩主大河内松平家中興の祖は、知恵者ゆえに「知恵伊豆」の異名を取った伊豆守信綱
である。老中として三代家光、四代家綱に仕え、島原の乱鎮圧に功を遺した。島原の乱供養
塔には、天草四郎以下、非業の死者に対する慈悲心がこめられている。
 ちなみに虚子は〈知恵伊豆の墓に俳句が詣りけり〉と詠んだ。季節は「墓詣り」で初秋。

  野火止の塚にしし狩る昔かな   ひでを

 松平家廟所裏手に「野火止塚」がひっそりと建つ。土まんじゅうを持った上には小さな碑。古く
は歌枕であった野火止の痕跡でもある。
 

■日も高いのに呑み暮らす
 時雨空いとど鬱然として寒さいよよ深し…とあって、2時間足らずの滞在で「帰ろかな」の気分
が高まった。句会には早いが、比較的繁華な志木の駅前に出ることにした。

    志木まではバスにゆられる時雨道   木の葉

 バスの車窓からも、鬱蒼として周囲の住宅を圧する境内林が望めた。

       雑木林時雨れて闇のなほ深く   ゆきこ

 バスに揺られながら、今日愛でた紅葉をもう一度脳裏に思い浮かべる。「さまざまの事おもひ
出す」のは、桜ばかりではないように感じられた。

        衆多く紅葉の寺のよき日かな   風天子

  紅葉狩の楽しさも「いつ、どこで」だけでなく、「だれと」が重要なのかもしれない。
バスは10分あまりで志木駅前に着いた。すぐにロータリー前のビルに居酒屋チェーンの〈土
(と)風炉(ふろ)〉を見つけたが、開店が午後5時だという。1時間以上を同じビルの階下の〈ドル
フィン〉というファミリーレストランで過ごす。宗匠が「ワインにしようか」と提案すると、誰も「まだ
日が高い」などと野暮は言わない。遅い昼食をとる他の客を尻目に、飲みかつ詠む句廻しが
始まった。ここで美味しかったのは、ピザといかフライ。

         ワイン注ぐ句友の手元深む秋   建一郎

  5時ぴったりに〈土風炉〉へ移動し、宗匠の講評を飲んで食べながら拝聴したのはなんとも幸
せな気分だった。
  だいぶ豪遊したつもりだったが、地名が埼玉県と変わるだけで〈土風炉〉の料金もぐっと安く
なったように思えた。そう言えば『草枕』冒頭の続きは、「住みにくさが高じると、安い所へ引き
越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」だった。この場
合、「安い所」とは物価ばかりではなさそうだ。禅語で言う「安心立命」ということか。それには、
酒の力が欠かせない。















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