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二〇一〇年七月二十一日(水) 一二三壯治記
■地蔵もあへぐ酷暑かな
結果から先に言えば、この夏は気象の記録をほとんど塗り替える〈酷暑〉になった。七月の吟
行当日も梅雨明けから日が浅いのに、午後には優に35℃を超えた。
巣鴨から池袋という近くて平凡な吟行地を選んだのは、猛暑を考えて「あまり歩かない」「なる
べく屋内で過ごす」ためだった。巣鴨では「とげぬき地蔵」を訪ね、池袋ではサンシャインシティ の「プラネタリウム」に遊ぶ計画である。
巣鴨は、ご存じのように「おばあちゃんの原宿」として高齢者に親しまれている。しかし、この
日はイベントの少ない平日だとしても、常になく閑散とした雰囲気が通りを支配している。
炎昼の托鉢僧の動かざる ひでを
地蔵通り入口に近い「真性寺」門前に、いつも立つ托鉢僧がいる。深い饅頭笠で隠した顔
は、どんなにか汗まみれなことだろう。それとも心頭滅却か。
夏帽子連ねて地蔵通りかな かおる
我がセミの会のメンバー六人はみんな、饅頭笠ならぬ夏帽子を被っている。最低限の暑さ対
策だが、そのほかに水分補給と日陰での休養が必須とされる。ひでを宗匠はさらにも厳重で、 額に冷たい鉢巻をして、首筋にアイスパッチを貼り団扇を使って悠然と歩いておられる。
通りに入ってすぐ右側二軒目に「薬膳にんにく 奈田利亭」がある。メンバーの関建一郎さん
の友人が経営に関わっている店というので覗いてみた。にんにくの漬物やペースト状のスープ などさまざまな商品があり、試食しながら買えるのがいかにも巣鴨らしい。
そうして左右に軒を連ねる店を冷やかして歩くうちに、とげぬき地蔵に着く。山門の脇、大銀杏
の木の下では、口笛奏者のライブ演奏が続いていた。
手笛の音冴えて涼しき寺ライブ 建一郎
とげぬき地蔵は「萬頂山高岩寺」が正式な号で、開山が慶長元年(1596)と古い。初めは江
戸湯島、約60年後に下谷(現在の上野付近)屏風坂へ移され、巣鴨には明治24年に移転さ れた。
今にして考えれば、旧中山道沿いの小さな商店街と相まって発展したのだから、大成功の移
転だったと言えるだろう。なにしろ巣鴨も昔は、「菅茂」と書かれたような草深い所で豊島村の 片隅に過ぎなかった。
現在の隆盛を支えているのは、言うまでもなく「とげぬき地蔵=延命地蔵菩薩」である。あい
にく公開はされていないが、代わりに観音菩薩立像が御身を洗い拭わせては病気快癒のご利 益をもたらす「とげぬき」の役目を果たしている。
炎日の地蔵の御目ぬぐはばや 壯治
芭蕉翁は、奈良唐招提寺で鑑真和上像に対面し「若葉して御めの雫ぬぐはばや」(笈の小文)
と詠じた。猛暑のせいで、こちらの地蔵(菩薩像)も半眼に閉じた御目が苦しげに見えた。
参拝を済ますと、最初の休憩を「アルプスカフェ」という喫茶店で取る。三人がかき氷、二人
はあんみつ、ひでを宗匠はコーヒーとケーキのセットを頼んだ。
かき氷地蔵通りに人気なく 舞九
かき氷残してしまふ齢(とし)になり かおる
茶話は、おのずと暑さ対策や健康管理の話題に向かう。頃合やよし、筆者が持参した梅干を
「妻に持たされたんです」と、おずおずテーブルに出した。「それはいい」と、五方から手が伸び たのは喜ばしいことだった。
炎天下梅干持たす妻のあり 風天子
ちなみに風天子さんは、「気分が悪くなったら、すぐに帰ってください」と奥様に言われたそう
である。
■都電々々でサンシャイン
地蔵通りは、猿田彦大神を祀る庚申塚で尽きる。途中、赤い下着でおなじみの「マルジ」や地
下鉄漫才で知られた春日三球さんの肌着店などあるが、とにかく猛烈な炎天下、都電の庚申 塚駅に早く辿り着くことばかり考えている。ひでを宗匠が「足立製帽」という店で、ギャザー風に 縫ったおしゃれな帽子を買われたくらいが特筆すべきニュースか。きっと秋から冬にかけて、お 披露目されるだろう。
庚申塚は、ほんの2、3分覗いて参拝もそこそこに去る。都電の駅は、指呼の間にある。3、
4人掛けのベンチが一つあるだけの無人のホーム。二両編成の荒川線には、それで十分なの だろう。
都電待つ線路かしげんのうぜん花 壯治
ホームから身を乗り出して前の新庚申塚駅の方を見ると、小さく電車の近づくのが見えた。
両側から家々の軒が迫っていて、子どものころ絵に描いたような懐かしい風景である。
都内の多くの小中学校は夏休み前のはずだが、車内は意外なほど混んでいて、どうにか三
人だけ席に座ることができた。目的の東池袋までは四つ目、束の間の涼を得る。
夏やさし席で舟こぐ都電かな 建一郎
東池袋駅からサンシャインシティまで5分ほど歩く。建築中のビルが視界を覆い、いとど暑さ
が募る。
炎帝や四つに折れるクレーン車 舞九
サンシャインシティは1978年、当時日本一を誇った霞ヶ関ビルを抜く地上60階、239・7m
の高層ビルとして生まれた。日本一の座はすぐに明け渡すことになるが、五つの建物から成る 複合施設は商業とアミューズメント(娯楽)の両面で先駆的役割を果たしてきた。プラネタリウム は、ワールドトレードセンター棟の屋上にある。
少し早めに着いたので、プラネタリウムの次の開演時刻(16時)まで40分ほど、水族館を見
学することにした。幸い共通利用券があって割安な上に、60歳以上と女性(第3水曜日がレデ ィースデー)の割引も付いた。
水族館は、リニューアルのため八月末に一時閉館とのことで、旧施設では見納めとなる。確
かにテレビでよく紹介される八景島シーパラダイスや品川アクアスタジアムなどのダイナミック な展示に比べて、古臭い印象は否めない。娯楽性より子どもたちの学習を重視した感がある。 展示区分も東京湾の生態系に始まり、八丈島、小笠原諸島と細分化され、しだいに世界の海 へと拡がっていく。
鮫肌を触らせてみす水族館 ひでを
ビル内の海月に触る不思議かな かおる
各々の水槽は、魚介類や海藻類の多様さのわりに狭い。巨大なエイなどが魚影を閃かせて
は、中小の魚はさぞ動きにくかろうと思うのだが、みんな慣れたもので交通整理もないのに衝 突することもなく、スイスイと伸びやかに泳ぎ回っている。
インド洋の水槽では、小鯵ほどの魚の群が俊敏な動作で、規律よく左右に向きを換えつつ泳
ぐ。あまりにもリズミカルなので、近くにいたかおるさんを「ダンスみたいで面白いですよ」と、わ ざわざ呼び寄せてしまった。
その一方で、ちっとも動かない生き物もいる。
動かざる大海亀に夏涼し 風天子
亀の子の来世も亀にならうかな 壯治
展示は海洋から河川に替わり、アマゾン川の大魚珍魚で終わる。昆虫とのふれあいやクイズ
のコーナーは、どこか付け足しめいている。
カマキリの擬態お前も年金者 舞九
竹節虫(ななふし)を見つけられずに泣く子かな ひでを
宗匠の御句は、ご存じ一茶の〈名月を取てくれろと泣く子かな〉を踏む。
ところで、水族館の生き物たちは休館中、他の水族館などに引き取られるらしい。例外は、
毎日訓練が必要なイルカだけだと言う。
■宇宙の奥の細道へ
プラネタリウム(コニカミノルタプラネタリウム「満天」)の座席は、八分どおり埋まった。親子連
れやカップル、中高生のグループなどが多い。セミの会のメンバーと同世代はぱらぱら。
天体ショーのプログラムも、主な客層に合わせて「飛び出せ!宇宙へ しょこたんの星空ショ
ー」と銘打つ。「しょこたん」とは、多彩な才能(まさにタレント)で活躍するアイドル中川翔子のこ と。その「しょこたん」が案内役となって宇宙を巡るという構成である。
星生まる億光年の夏の旅 建一郎
天井にはドーム状のスクリーンがめぐらされ、その上に施設にもその名を冠する「コニカミノ
ルタ」製の高性能天体望遠鏡の画像が(コンピュータで転換されて)映し出される。北極星、北 斗七星、ベガ、カシオペアなど、天体のまさに大スター級の星々が紹介され、最後に南北を縦 断する天の川が、あたかも流れるようなカメラワークで捕らえられる。
筆者が子どものころは、夏の夜空に裸眼でも天の川を見ることができた。白い靄(もや)のよう
にではなく、一粒一粒の砂子のようであった。
擬態めく天の川在り天象儀 かおる
天の川は英語で「ミルキーウェイ」と呼ばれるが、星の命名にも東西の差が表れて興味深
い。川に擬すればこそ、牽牛織女の物語も成立する。星の名や星座名については後刻、「星 の群をグループ分けするのはそもそも無理がある」とか「それらしく見えるのは〈さそり座〉くらい かな」などと、議論百出してセミの会らしい盛り上がりとなった。
俳句で天の川は「銀河」「天漢」などとも表現される。それらの漢名を万葉歌人の誰か(人麻
呂、家持、憶良?)が「天の川」と翻訳したらしい(白川静氏の説)。
満天の星に占ふわが生命(いのち) 風天子
星占いは今、「西洋占星術」の方が優勢かもしれない。天体の運行と地球・人間の活動を関
連づけて占うのは、中国の「易」とあまり変わりなさそうに思うのだが。
いわゆるハイテクの進歩で、宇宙の果てまで視界に捉えられる時代になった。だが、知れば
知るほど謎が深まり、ますます人のロマンを掻き立てている。
童らと夏の星座を学びをり ひでを
ショーは約40分で終わった。しょこたんの甲高い声を耳に封じて、階下のレストラン街へ向
かう。句会場に選んだのは、横浜中華街でも高級店として知られる「聘珍楼」である。
包子三種に始まり、海鮮入りサラダ、鶏とカシューナッツ炒め、黒酢入り酢豚、芝えび炒めな
どを立て続けに食べたのは、暑中にしては相当な健啖ぶりであった。このメンバーは、夏バテ と無縁そうに思えた。
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