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こう長く猛暑が続いていると、メシを食うというのもなかなか面倒な問題だ。特に一人居の時の昼飯だ。冷麦、素麺、冷やし中華 ……、食いたいものはいろいろあるが、作っておいてもらうわけにもいかない。十分ぐらい歩けばソバ屋もラーメン屋もあるが、昼飯ぐらいで大汗はかきたくない。
で、思いついたのが水飯である。
冷えたメシを茶碗に盛り、それをどんぶりにあけて水を入れほぐす。一回水を捨て氷と新しい水を入れて出来上がり。これを胡瓜の古漬け、山椒の木の芽煮、実山椒の佃煮で食ったら最高だった。一杯では足りない。二杯目はベランダで干しているさいちゅうの梅で食べた。
たしか、山田風太郎さんの小説に、武将だか茶人だか忘れてしまったが、炊きたてのメシを清水でよく洗って冷やし客に供する場面があった、のを思い出し、今朝、試してみた。冷や飯でやるより贅沢感もあってうまい気がした。塩ジャケでも塩が強ければおいしい。これでは栄養失調になる?その対策は晩飯で考えればよかろう。
水飯はミズメシでももちろん良いわけだが歳時記ではスイハンの方が主のようだ。
また。 水飯は、洗飯(あらいめし)とも言う。この言い方だと饐飯(すえめし、腐りかけた飯の意でこれも季語)を洗って食べる 、食料難の時代の風景が、見えてきたりもする。そういえば敗戦まで、母は梅干の壺を庭の土の中にいけていた。家が焼かれた場合に備えてである。
水飯や温き梅干煮山椒 ひでを
と、こんなことを書いていたら、急に寒山と拾得の笑い声が聞こえてきた。いま眠っていたのか、暑さのための錯覚か。
『寒山捨得』は、森鴎外の短編。むかしむかし、学校の教科書にあった。
捨得がお寺の僧たちの使った食器を洗いながら出てくる飯や菜を竹筒に取っておいて寒山に渡すのだった。
洗飯寒山拾得の心かな ひでを
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ひでをエッセー・その64「 小さな着物と洗濯屋さん」 |
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そう馴染みというわけでもない、近くの洗濯屋さんに、古い赤ん坊の着物を持って行き、
「 来週、孫の宮参りにこれを着せたいんだが、クリーニングには何日くらいかかるかね」
と、切り出すと、わたしと同年輩くらいの店の主人は、指で襟のあたりを軽く触ってみたりしてから、ちょっと硬い表情で、
「 これは相当に古い絹ですし、シミなどもあります。お急ぎということですと私どもではお引き受けできかねます」
という。 「 一回羽織らせるだけだから、シミなんかどうでもいいんで、そこをなんとか」と食い下がると、「お引き受けする以上は、キチンとやらせて貰わねばなりませので・・・」と至極もっともなことを言われてしまった。
しかし、ここは、そうかんたんに引き下がるわけにはいかない。
「 職人さんの誇りというか、意地というか、そういうお気持ちは、よく分かりますが、実は、これ、75年前のわたしの宮参りの時の物でして。タンスの奥にしまってあったのだけど、いくらなんでも、そのまま赤ん坊に着せるわけにもいきませんので・・・」
と言い出すと、おやじさんは「 75年前にあなたが着られた物をお孫さんに・・・!」 あきれ顔だった、おやじさんの顔がやがて笑顔になり、 「 そういうことでしたら、今夜職人が集まるので相談してみます」ということになった。
結局はOKとなり約束の日に出掛けてゆき、 「出来るだけのことはさせていただきました 」というおやじさんに大満足。 で、おそるおそる代金をうかがうと、ジャケット一着分で恐縮してしまった。
かくて宮参りは予定どうり終った。
それにしても4分の3世紀。 この小さな着物は旧家のお蔵のような処にしまわれていたわけではない。 私は旧満州国の首都新京、現在の長春市に生まれ、三つの時に東京に連れて来られた。 だからこの着物も貨車に載せられて大陸を運ばれ、海峡を渡り、また貨車に積まれて東京にきて、さらに4回ほど引越しをしていることになる。そしてようやく二度目の“晴れ舞台”となったわけだ。 息子の時は、私の転勤騒ぎでそんなことは思いもつかなかったのか、そして、 母は密かにひ孫に着せることを想定していたのか、今となっては知るよすがもない。
宮参りの霊験か、 孫はよく育ち、 春がきて満一歳となった。 そしてわたしも年が一つ増えた。 誕生日が同じなのである。
初孫は沙漠の春に生まれけり ひでを
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イギリスの文豪ロバート・ルイス・スティーブンスンの「宝島」(佐々木直次郎訳)が岩波少年文庫の第一巻として刊行されたのは昭和50年の12月15日。そして、小学生の私がそれを買ったのは年が明けた正月の5日だった。定価120円。ヤミ市をうろついていた記憶からするとずいぶん高い気がする。親戚を回って年玉をもらったのだろう。
私が自分で買った最初のまともな本。表紙をめくると、なんと豪華なカラー印刷で、船のマストのてっぺんに追い詰められたジム・ホーキンズ少年が、ナイフをふりかざして迫る海賊にピストルを向けている油絵が載せられているのである。ジム少年が私よりかなり年上に見えるのがちょっと不満だったけれど、嬉しかったのだろう、奥付のところに自分の名前とともに「1951年1月5日求む」と万年筆で綺麗に書いてある。姉に書いてもらったようだ。
いまあらためてよく見るとタイトルは「宝島」ではなく「寳島」であった。それは長く私の宝物だった。ジム少年らはさまざまな冒険の後、宝物を掘り当て無事帰還するのだが、宝物の半分は島に残ったままになっている。そこがわたしたちの想像力をかきたてるのだった。
巻末の少年文庫発刊の辞は、だいぶ年上の兄が「これはいい文章だ。岩波文庫の発刊の辞に匹敵する。」といって「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む」などと暗誦して見せたので子文庫の方を暗誦しようとこころみたものだ。
「一物も残さず焼き払われた街に、草が萌え出し、いためつけられた街路樹からも、若々しい枝が空に向かって伸びていった。・・・未曾有の崩壊を経て、まだ立ちなおらない今日の日本に、少年期を過ごしつつある人々こそ、わたしたちの社会にとって、正にあのみずみずしい草の葉であり、若々しい枝なのである。/ この文庫はこの日本の新しい萌芽に対する深い期待からうまれた」
文章は難しかったが書き出しの部分はいまでも暗唱できる。
戦後もこの頃になってようやく少年のための本が出版されはじめたのだ。それまでは 教科書なんかもひどいものだった。新しい教科書が出たけれどクラス全員には行き渡らず、何人に一冊なんてこともあった。それで教科書を借りて授業の進み工合に合わせて母がペンで写すのである。ある時、教科書の追加の配布があり、今度は私の番だと思っていると、代わったばかりの担任から「君は、お母さんが写してくれるから、それでいいだろう」と言うようなことをいわれ、私はまた落選してしまった。がっかりしたのは母もおなじだったろう。いや、母にはそのことをいわなっかったかもしれない。そして、担任教師の言葉にうかつにも「ウン」と言ってしまったことを嘆き悲しんでいたのである。
この先生は、生徒たちからは慕われていたようである。後年、五十を過ぎてからだったか鹿児島市に行ったおり、昼間の時間があいていたので、小学校の奉職者名簿で調べてもらった古い住所を頼りに、先生を尋ねたことがあった。
先生は、すでに退職されていたが、日に焼けてすこぶる元気そうであった。そして、朝自分で釣ってきた魚と、自分で育てた野菜でもてなしてくださった。
俳句の正月の季語である「寳船」から「寳島」へ、そして小学校時代の教科書と先生へと、連想を楽しんでいて、担任の先生が「君には、お母さんが写してくれるから(教科書は)それでいいだろう」といったのは、その当時私が理解していたのとは意味合いが違うことに、いま突然気がついた。
寳船〆のラム酒の酔ひ心地 ひでを
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パレスチナ自治政府のアラファト議長の没後10年を記念する行事が、11月11日、自治区のラマラで行なわれたというニュースを読んだ時、カリスマ性に富んだ、大きな猫のような人懐こい顔が目裏に浮かんで来た。
議長が来日した折の記者会見。マイクの前に腰を下ろし、沢山の記者をあのギョロ目でしばし睨めまわしたあと、大きな声で、
「サンポーイチリョウゾーン!」
というのが聞こえた。
一瞬、場内に戸惑いの空気が流れ、ややあって、日本人記者たちから笑い声が上がる。と同時に議長の顔に笑いがひろがった。
三方一両損。落語でよく語られる大岡裁きのひとつ。パレスチナもイスラエルも共に譲歩しあって平和を築こう、それには日本も一肌ぬいでくれということであったろうか。会見の内容などはすっかり忘れてしまったが、アラファトさんの名前に接すると、私はいつもこの時の光景を思い出す。
ラマラの議長府でのアラファト没後10年の行事に参加した学生の一人は「(アラファトさんは)パレスチナの象徴だった。生きていたら、状況は違っただろう」と話したと朝日新聞(11月12日)が現地から伝えていた。
ところで三方一両損という言葉、私の周辺で聞いてみると知らない人が結構多い。これは意外だった。念のため二、三、辞書にもあたってみたが載っていない。
(( 落語 三方一両損 三両の金の入った財布を拾った左官屋が一緒にあった書き付けから落し主である大工の長屋を訊ね返そうとする。ところが、いったん自分の懐から出た金は自分のものではないから受け取れないと言いはり、二人の言い合いは殴り合いの大騒動に発展。ついにはお白州に持ち込まれる。金に恬淡とした江戸っ子職人の心意気に惚れ込んだ越前守の裁定は、三両を預かったうえこれに自分の一両を足して四両とし、ふたりに二両づつ褒美として受けたらせたというもの。落し主は三両が二両に、拾い主は黙って受けとれば三両だったものが二両になったので双方一両づづの損。越前も一両の出費、というわけ。))
三方一両損の考えは、なにかといえば白黒を決めつけたがる今の世の中にあって、もう 少しありがたがっていいのではなかろうか。
露の世の露ほどのこと折り合はず ひでを
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朝ヴェランダに出たら小糠雨に床が濡れている。昨日の新聞、テレビ、ネットのどれもが雨は夜まで降らないと伝えていたのにである。それでラグビー場に行くのは諦めた。だが、ココロはゆれていた。
観ようとしたのは ニュージーランドの原住民マオリの血をひく選手だけで構成されたマオリオールブラックスと日本。ファン必見の一戦なのだ。だが私が持っている入場券は自由席。早く行かなければ屋根の下の席はとれまい。寒さも後期高齢者にはきびしそうだ。やはりテレビ観戦の方が良さそう。
しかし 昼過ぎになると雨は止んでいる。だが西の空をみると雨雲が重たくのしかかっている。それに一週間前、神戸で行なわれた第一戦では日本に全くと言っていいほど良いところはなかった。手の届かぬ葡萄を酸っぱいと決めつけた狐の、負け惜しみを先取りしているのだ。
ウジウジと ダガ と シカシ を繰り返しているうちに試合開始の2時となった。
「当日券は完売」「昨夜から並んだ徹夜組もかなりいたそうです」のアナウンスにココロを突つかれる。それにしても今日の日本チームの動きは素晴らしい。しかし、名手五郎丸がキックを外すなど最初の得点機を幾たびも失い、30分近くが経過したところで15対0のビハインド。また狐が得意気にささやく。
ところがこの後すぐ日本がトライを決めた。私は立ち上がり秩父宮ラグビー場まで行こうと決意した。タクシーで行けば後半の後半は見られるはず。前にもそうしたことがある。だが、いま私はパジャマ姿であった。なにかまうものか。ハイカラーのジャッケトにコートの襟を立てて行けば……。しかし、その時、前半終了の笛が鳴った。え、あと10分近くあると思っていたのに。それに、老いの木登りとか、年寄りの冷や水とかの言葉が頭に浮かんで来てまた座ってしまった。まさに老懶ろうらん(老いたるなまけもの)だ。
試合は後半日本が逆転したものの最後の最後にマオリオールブラックスが、華麗なパスとランをみせて再逆転してわずか2点差で勝った。
夕刻になっても雨は降らなかったが、私は傘をもって、こんどは断固としてプールに出かけたのである。
走る走る走るラグビーの男 巳之流
秋山巳之流さんは私を俳句に引きずり込んだ人。私も出席した句会でこの句は投句された。ラグビーを詠んでこれ以上の句を知らない。
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