相模湖周辺吟行記 二〇〇八年七月十六日(水) 一二三壯治記
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相模湖・ボートでゴー
相模湖は、昭和二十二年に造られた人造湖だそうな。満水時には東京ドーム約二八〇個分
の湖面積になり、横浜市民への給水と水力発電に利用されている。
もう一つ、湖にちなんで誕生した相模湖町は、旧甲州街道の趣を残す宿場町としての顔もあ
る。小原宿が近い。
二つも条件が揃えば、吟行にはもう十分。夏らしく湖でボートでも楽しもうと計画を立てた。
梅雨あけを待ちかねて乗る高尾行 建一郎
相模湖駅は、JR中央線高尾駅から中央本線に乗り換えて二駅目である。駅舎を出ると、山
間ながらじりじりと夏の日が照って暑い。気温は軽く三〇度を超えている。
昭和の雰囲気を残す小さな商店街を抜けると、国道をまたいで道は一気に下り坂となる。相模
湖の湖面が眼前に光る。ところが、予約を入れていた貸ボート屋まで、なかなかたどり着けな い。さなきだに蒸し暑い山道。さんざん引き回した挙句、別のボート業者に相談する破目に。道 端の花々がせめてもの慰めである。
山百合や当てなく坂を登りをり 木の葉
頼りない先達(幹事)はいつものこと。ひでを宗匠以下五名、みな苦笑の態である。だが、別
のボート業者がいい人で、「うちの船着場にボートを呼んでやるから、ここで待ってなよ」と木陰 のベンチを貸してくれた。こんないい出会いがあるから、ルーズな幹事でも許される。
モーターボートは、すごい音を立ててやって来た。三人ずつ二組に分かれて乗る。およそ二
十分で、湖をほぼ一周する。
遠き日の夏の香乗せて水の上 映子
ボート行き行き行き舳先天を指す 壯治
湖上から眺める山の端は、翠(すい)黛(たい)と呼ぶにふさわしい。ボートのスピードに身を弄
ばれながら風を切る。ひとときの涼を得た。
ひとときは湖の子となれ青嵐 凡天
夏休み前とあって、我々のほかにボートの客はいない。岬のように突き出た岩陰で釣り人を
一人見かけただけだった。湖を借り切った気分でますます爽快。
遊船やおとなしそうなブルーギル ひでを
本陣・座敷で端居
再び駅に戻り、相模バスで小原宿本陣に向かう。車中で名物の「丹沢あんパン」をほおばる
うちに到着。別の季節なら、歩いてもよい距離だった。
本陣の街道端にのうぜん花 木の葉
本陣とは、江戸時代、参勤交代の大名が泊った宿のこと。信州の諸大名や甲府勤番の役人
が利用したという。小原宿の庄屋・清水家が管理し、瓦葺二階建ての建物は今も人が住んで いると思えるほど宏壮な佇まい。背後の山が屏風のように迫り、建物の威容をよりいっそう際 立たせている。
頂に雲従へて山滴る 建一郎
中に入ると土間からまっすぐ勝手へと続く。靴を脱いで上る。板の間と畳の感触にホッとし
た。
二階は養蚕小屋になっている。薄暗い室内には、古い織機もあった。その他、駕籠、長持、
大八車など、さまざまな乗り物、生活用品が上下階にランダムに並ぶ。
一階奥の間は、上段の間、中の間、控の間に分かれ、庭に面している。大名たちは上段の
間に泊まったらしい。我らがセミの殿御姫御もはや座敷、濡れ縁に腰を下ろし、寛ぎながら庭 を眺めている。
端居して動かざる背の円きこと 壯治
庭の築山には、徳川家から拝領したドウダンツツジや泰山木も植えてある。ただ、なんとなく
寂れた印象を禁じえない。無粋な話をすれば、経費節減の影が見える。
小原宿荒れ庭に来る揚羽蝶 映子
京都の話になるが、明治維新になって大久保利通卿が嵐山を再訪した折、その荒れた様に
驚いた。土地の人に聞くと、「徳川様の世には、嵐山を保つのに幕府から多大な寄付を賜っ た。ご一新後それが途絶えたので、この有様になった」と答えた。大久保卿は深く感じ入って反 省し、徳川家の治世に学ぶと共に援助を復活させたという。とかくに歴史遺産、自然遺産を守 るのは、生半なことではない。
空模様が怪しくなってきた。山の天気は変わりやすいというが、今年は都心でも天気の激変
による雷雨、驟雨が多い。
荒れ庭に雨を望むや今年竹 凡天
歩き疲れたせいか、どうも尻に根が生えたようだ。開け放った夏座敷を通う風が心地よい。
夏座敷一年竹を風渡る ひでを
俳句寺・夕立で雨宿り
俗称「俳句寺」の正覚寺へ寄ることにした。境内に有名無名二百余りの俳人の句碑があると
ころからそう呼ばれる。
俳句寺は相模湖から流れ出る相模川を越えた対岸にあり、タクシーで七、八分の距離だ。小
高い山の斜面を台状に切り開いて建っている。亭々とした常緑樹、広葉樹に覆われ、近くまで 行かないと本堂は見えない。
俳句堂碑に寄り添ひし百合一輪 映子
山百合、紫陽花、擬宝珠の花などが咲く。庭は手入れが行き届いている。ただ、いかにも句
碑が多く形も大きさもまちまち。
俳人の遍路寺訪へば片かげり 凡天
大正七年(一九一八)八月、民俗学者の柳田国男がこの地の調査のため寺に泊まった。その
十日間、禅寺らしく葱と南瓜ばかり食べさせられた経験が、次の一句になって残る。
山寺や葱と南瓜の十日間 国男
それを機縁に「俳句寺」としての方向が定まったらしい。ただ、あまりにも有象無象の句碑を
集めすぎて俗化が進むと、禅寺らしい清貧さを逸脱するような気もする。
初蝉や車を洗ふ住持ゐて 壯治
シニカルな評者の眼で見るのは、これくらいにしておこう。それこそ無粋である。
とかくするうちに、ぽつぽつと来た。坂道を鐘楼の方に向かおうと思ったが、それから急に雨
脚が強くなってきた。雷も鳴る。手帳が大きな雨粒で濡れた。
夕立やふたりかけこむ寺の軒 木の葉
またも軒を借りてしばらく端居。いっとき篠付くような雨脚になったが、かえってのんびり休む
口実ができたようでありがたい。
雨音を聴き、雨だれがうがつ土の孔を眺める。急にできた水溜りの回りを蟻が幾つも這い回
っている。
「蟻は泳げないだろう」と、宗匠。
「泳げるでしょう」と、筆者。
興味津々で見ているうちに、一匹の蟻が水にはまった。直後はもがいていたが、やがて犬か
き(蟻かき?)のような動作で泳ぎ、難なく岸に達した。我々がイギリス人だったら、きっと何か賭 けていただろう。禅寺の縁側で、俗の極まった賭け事もなるまい。
蟻泳ぐ地獄の底は知らぬ気に ひでを
句会場は帰路立川駅で降り、駅モール内の中華街で探すことにした。相模湖駅までは一台
のタクシーにピストン輸送してもらい、ようやく狙った列車に間に合った。
立川駅モール街〈グランデュオ立川〉は、八階建で七階が中華街になる。木の葉さんが、携
帯電話で友人と情報交換しながら店を選ぶ姿は、さながらスパイ映画のようだった。その中で いちばん広い「菜香」という店に入る。
飲茶広東料理で、包子(パオツ)、炒(ジャオ)料理をさまざま楽しめた。宴がたけて、即興の句
も次々に出来た。謎めいた次の一句が筆者の興味をそそった。
夏の雲月光仮面の女かな 建一郎
不可解ながら棘のように胸を刺す句がある。
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