神田祭吟行記

神田祭吟行記 二〇〇九年五月九日(土)    一二三壯治記

神田祭を追いかけて
 セミの会には、俳句以外にも趣味を持つ人が多い。なかでも吉村桂さんは、神田祭囃子の
笛を稽古していて、神幸祭(宵宮)と神輿宮入の二日間、日ごろの成果を見せるという。ここは
会友として、応援に駆けつけるほかない。
 江戸時代、神田祭は「天下祭」とも呼ばれた神田明神の大祭で、将軍や大奥の上覧もあっ
た。当時は九月斎行だったのが、明治二十五年に五月に変更された。祭神は俗称で言うと、
大黒様、恵比寿様に平将門公の三座。神輿と山車に、附け祭の「大江山凱陣」や「大鯰と要
石」の行列(日本橋三越前から出発)も加わって、江戸っ子好みの派手で賑やかな一週間とな
る。

  町内に洋装少なし天下祭      桂

 宵宮の五月九日、桂さんは神田松枝町に派遣され、「羽衣」という女性五人の山車に乗る。
松枝町はかつてお玉ヶ池を含むエリアで、幕末には千葉周作の道場があったことで知られる。
今は岩本町に吸収され、祭の時だけにわかに旧い「町内」が復活する。
 
  祭り笛かつて栄えし松枝町     壯治

山車には能の「羽衣」と同じ装束の人形が立ち、からくり仕掛けで出ては入るを繰り返す。山車
の左右は能の橋掛りと同様、松の絵が描いてある。能鑑賞が趣味のかおるさんは、いち早くそ
れに気づいて教えてくれた。

  囃子方紅鮮やかに山車の上      かおる

 桂さんたち囃子方は法被姿に手拭をかぶり、一糸乱れず笛太鼓を鳴り響かせる。写真が趣
味の有史さんは、今日はカメラを俳句のペンに持ち替えて活写する。

山車に立つ羽衣の裾風抜ける有史
 町内会長らしき古老が挨拶に立ち、「喧嘩は絶対にしないように」と釘を刺す。それを合図に
神輿と山車が動き出した。江戸っ子の風天子さんが、「三社祭の喧嘩はひどいからねぇ」と楽し
そうに言った。

  けんかだけはだめと諭されみこし出る    風天子

 それから我々も山車、神輿(鳳輦(ほうれん))の後に付いて町内を一回りした。神輿は代々続
く老舗に立ち寄り、商売繁盛祈願の手締めを繰り返す。祭はまだ、寄り合いのようなこぢんまり
した雰囲気の中にある。踊る阿呆と見る阿呆は、厳然と分かれている。

  梳き上げし眼もときりゝと祭髪      夢

  脛太き男と揺れる大神輿        凡天

 旧松枝町にはお玉池稲荷の小さな祠や銭湯のお玉湯が残り、昔を偲ぶ数少ないよすがとな
っている。

  お玉湯に鳳輦暫し止まりけり      舞九

 伝説によると、於玉ヶ池は太田道灌が江戸城主だったころ「桜ヶ池」と呼ばれていたが、池畔
の茶屋の看板娘「お玉」が恋のもつれから池に身を投げて死んだことから、そう呼び慣らされ
るようになったという。なんとなく真間の手古奈を思い出させる話だ。

  耳底に神田囃子やコッペパン  建一郎

 神田に生まれ育った建一郎さんは、よくこの界隈の話をされる。母校の話や神保町でレスト
ランとラーメン店を営む有名な兄弟の話が楽しい。孟母三遷ではないが、神田は「日本のカル
チェラタン」と呼ばれるほど文化の香が漂い、教育的な環境としても申し分ない。
 神輿は、子供たちが担ぐ小さなものに代わった。これも代々、神田っ子たちの通過儀礼のよ
うに受け継がれてきたのだろう。
 
  遠き日の子供輿の手沢(しゅたく)かな     ひでを

■神田明神から聖堂へ
 松枝町を離れて、秋葉原から神田明神の方へ向かう。「アキバ系」や「メイド喫茶」などの流
行を生む街も、神田祭では神輿の渡御ルートでしかない。

  祭衆マクドナルドに待ち合はす      夢

 神田明神前の甘酒屋〈天野屋〉で待ち合わすことにしたのは、吟行初参加の片岡道子さんで
ある。店はさすがに混み合い、地下の酒室で店員がきびきびと働くのを見た。

  甘酒にいやされてをり門前町        道子
 
 道子さんの姉君は神田明神に踊りを奉納されるのだという。コミュニティを失いつつあると言
われる東京人も、神田祭とさまざまな形で関わっている。
 ここでセミの会もフリータイムとなり、神社を参拝・見物する組と喫茶店で休憩する組とに分
かれた。

  ニッキ飴手土産にする祭かな      かおる

  飴細工ひねる手休め氷水        有史

 天野屋の脇から大鳥居をくぐって本殿まで、懐かしさを誘う食べ物の出店が続く。本殿前に
展示用の神輿と山車が並び、さらに本殿両脇から裏まで出店がひしめく。シシカバブを売るト
ルコ人の店まであった。

  鎮座する神輿の上のあくび猫       道子

 一方、喫茶店組はさらに附け祭の行列コースと湯島聖堂に寄るコースとに分かれた。日本橋
の附け祭には、ひでを宗匠と風天子さんが向かった。
 湯島聖堂に入ると、祭囃子の音が遠のいて新緑のざわめきが近くなる。

   楷の樹の従容として青嵐         舞九

 「楷の樹」とはヒノキに似た常緑樹(トネリバハゼノキ)で、孔子の弟子・子貢が師の墓に植えた
ことから「孔木」とも呼ばれる。聖堂は言わずと知れた孔子廟であり、かつ徳川家の学問所も
併設されている。
 司馬遼太郎は、『街道をゆく 神田界隈』にこう書く。〈湯島台に聖堂があったればこそ、神田
川をへだてた神田界隈において学塾や書籍商がさかえたのである〉。聖堂のシンボルである
孔子の像(三メートルもあろうか)がいよいよ巨大に見えた。じっくり尊顔を拝すると、どこか見覚
えがある。

   五月晴よろこぶさまの孔子像        木の葉

 初めに気がついたのは、かおるさんだった。「よろこぶさんに似ている」と。すぐに夢さん、木
の葉さんが「ほんとだ!」と応じて、華やかな笑いに高まった。「よろこぶさん」とは、今回はあい
にく来られなかったが、当会を代表する紳士である。

  風薫る孔子の像の鼻の孔       壯治

よろこぶさんをあまり知らない道子さんが、少し離れて旧学問所(今は斯文会館)の階段で句作
に励む。

   葉桜や女がひとり学問所       建一郎

 斯文会館では、今も論語の素読や講義が行われている。

■暮れなずむ神保町で
 句会場の神保町〈ランチョン〉には、夕方五時半についた。途中、ニコライ堂に立ち寄り、駿
河台下の交差点では小川町町内会の神輿の練りを見物する。
 先にビールだけいただくことにする。もう喉が渇いて我慢できない。すぐに宗匠と風天子さん
が合流。次いで、一時中座していた凡天さんも加わる。

   天狗となまず同居は嬉し夏祭       風天子

 附け祭には、東京藝術大学の学生が製作した「大天狗」や「像」の彫刻も御出座。風天子さん
の話を聞いたとき、同行しなかったことを少し悔んだ。
 附け祭の象徴とも言える「大江山凱陣」の鬼首は、『江戸名所図会』の絵そのままに復元され
ている。行列に伴うのも出羽三山の山伏、雑芸団、異国人風の仮装と、当時の一番人気が察
せられる。
 ビールのお代わりを重ねていると、太鼓の音が〈ランチョン〉の店内に響いた。祭の余興かと
見たが、大相撲中継でよく見かけるふっくらした呼び出しの若い衆に先導された、明日から始
まる夏場所の触れ太鼓だった。相撲甚句の名調子も交え、初日の取組を順次披露する。

  ランチョンに入り来たるや触れ太鼓      ひでを

  大江戸や祭り果てれば触れ太鼓       凡天

 耳福、眼福を得て、酒肴の味わいもますます深まった。アイスバインという豚すね肉の煮込
み料理は初体験。三、四人で食べるのにちょうどよいボリュームだった。
 九時ころランチョンを出て、二次会場を探す。タンゴ音楽が聴ける〈ミロンガ〉を予定していた
が、あいにくの休業。近くの喫茶店〈古瀬戸〉に入る。十一時まで開いていて、ワインやビール
程度は出る。
 三十分ほど待つうちに、祭笛を吹いて活躍した桂さんが到着。慰労会に変わった。桂さんは
一仕事終えた、いい表情をしていた。明日も神田明神社で宮入の神輿を迎えるために「一日、
吹く」のだと言う。「か・つ・ら」を詠み込む句回しも始まったが、なんとなく祭の高揚感が為せる
座興のようだった。

  男らの千手神輿を天に挙ぐ        桂


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