千葉県佐倉市吟行記  二〇〇九年三月十八日(水)  一二三壯治記


広大なり、佐倉城址公園
 千葉県佐倉市に遊ぶ。往きは京成本線快速を利用した(JRよりお得)。

  若布売り京成電車に今はなし   ひでを

佐倉は江戸時代、徳川譜代の重臣・堀田家の所領だった。幕末に老中首座を務めた堀田正
睦(まさよし)(一八一〇〜六四)は、T・ハリスと日米通商交渉を行い、やがて失脚。維新戦争で
は、言うまでもなく幕府軍ゆえ城を失った。佐倉城址は、今、桜木に囲まれた公園として親しま
れている。
吟行のスタートも、その佐倉城址から。広大な跡地には、天守閣跡、堀跡などが残り、国立歴
史民俗博物館が建つ。が、まず昼飯である。堀田正睦とT・ハリスの像が狛犬のように立つ径
を入ると、お城の礎石が点在している。それを椅子代わりにして、寿司や握り飯をぱくついた。

  春光や佐倉城址の石の上   かおる

 天守閣跡は、輪郭に沿って桜の木が植えられている。花の盛りには、「市民さくらまつり」が
開催される。今年は春が早く、桜の蕾もだいぶ膨らんできた。

  光り合ふ木の芽草の芽天守跡    夢

 藪椿が咲き落ちて、城と同じように主座を桜に明け渡そうとしている。
 一周すると、二の門跡近くに正岡子規の句碑があった。年譜によると、明治二十七年(一八
九四・子規二十七歳)に佐倉を訪れた。『総武鉄道』という紀行文から一部を引用しよう。

  佐倉の町は平野の中に一段高き処なりと見るに
   
    霜枯の佐倉見上ぐる野道かな  子規

  …(中略) …阪上より印旛沼を見るべし。阪を下れば堀あり 堀の内は昔の城にて今の営
所なりとか

    常盤木や冬されまさる城の跡  子規(碑はこの句)

 同じ場所で子規も句作したことを思うと、感慨もひとしおである。

  子規の碑を眺めてをりぬ西行忌   建一郎

 右の句について、ひでを宗匠の句評は「子規の句碑と西行忌を結びつけたのが面白い」。俳
句を詠むことは、西行から子規へ、そして現代にまで続く短歌俳句の歴史に列することのよう
に思う。ちょっとオーバーか。
 佐倉城址に歴史民俗博物館が誘致された理由はわからないが、多少なりとも歴史への視点
を尊重する風土というものが影響したのかもしれない。

  黒曜の矢じりとがりて竹の秋   桂

  亀鳴くやのぞきからくり地獄絵図   舞九

 博物館は、一階と地階に原始時代から近代まで五つの展示室、二つの企画展示室を持つ。
短時間では見学できないほど広大かつ広範だ。一度、別の機会に入館したことのある筆者
は、初めから見学をあきらめて、姥が池、菖蒲園、ビオトープなどをぶらぶら。近くでたまたま
野焼きの消火を目にすることに。

  野焼して焦眉の急の大地主   壯治


謹直なり、武家屋敷
 城址公園を出て、市街地の方に下る。途中、佐倉東高校の脇を通った。かの長嶋茂雄氏の
母校として知られる。

  鷹鳩と化して長嶋茂雄かな   建一郎

夢さんから、長島氏との縁談を勧められた同級生の話を楽しく拝聴する。筆者の世代には、ス
ーパーヒーローである。夏の高校野球地区大会決勝戦で敗れながらも、長島の放ったホーム
ランが強く記憶されたという。「佐倉に長島あり」と。

  かのミスター暴れし郷やさくら咲く   壯治

 土地に気風があるとすれば、佐倉は士風の色濃く残る土地柄のような気がする。侍ジャパン
ではないが…。そんな先入観を持って武家屋敷を訪ねる。案内の女性が「裏に崑崙(こんろん)
椿が咲いています」と言う。

  涙香の小説めきて黒椿   ひでを

  血の色の崑崙椿武家屋敷   舞九

確かに「涙香」や「血の色」を感じさせる。植えた旧河原家は大屋敷である。どうやら上級武士
だったようだ。崑崙椿は、その格に応じた象徴ででもあったか。他に中屋敷の旧但馬家、小屋
敷の旧武居家が並ぶ。身分に応じて住居の規模・構造を厳しく定めたのは、武士らしい質素
倹約の精神にもよる。

  武家屋敷妻の涙のにじむ竈(くど)   桂

 日用品、調度品の展示もあり、すぐに映画の撮影ができそうだった。旧武居家では、鶯の声
が聞こえた。声があまりに整っているので、スピーカーから流れているのかと疑った。

  うぐひすや武家の屋敷の縁にをり   木の葉

 ゆったりとした時間の中で暮らしただろう武士の日常を思う。木造の建物も心が落ち着く。な
かなか立ち去りがたいが、もっと市街も見歩きたい。慌しい現代人に戻ろう。

  青空に点描しるき辛夷かな   かおる

帰りしな旧但馬家の土を盛った築地垣に、土筆が取られもせずに生えているのを見つけた。
桂さんがひょいと垣根に飛びつき、土筆を摘み始めた。

  つくし摘む畦やはらかき風日和   夢

閑散たり、佐倉駅前
 時計は五時近い。計画していた〈佐倉順天堂記念館〉はあきらめざるをえない。JR佐倉駅前
を目指して歩く。
 市街の地図を見ると、北の京成と南のJR両線に挟まれたエリアが旧来の城下町のようだ。
天然の壕とした高崎川を越えJRの駅に近づくにつれて、どんどん寂れていく印象だ。商店街と
いうほどの通りもない。

  つちふるや佐倉の街に更紗買ふ   木の葉

 木の葉さんが辛うじて趣味の店を見つけて買い物をした。日が傾き、少し寒くもなった。早く
温まろうと駅前で句会場を探すが、地元の人が営む小料理屋などは見当たらない。大チェー
ンの居酒屋が二軒ある。初めに入ろうとした店は予約で一杯だと断わられた。仕方なくもう一
軒に聞くと、こちらはがらがらで、すぐに奥の部屋に通された。

  啓蟄やどの居酒屋も席とれず   ひでを

 ひでを宗匠の推理では「歓送迎会のシーズンで、向こうは一杯だったんだろう。だけど、こっ
ちはどうして空いてるんだ」。さては料理が…と疑ったが、そう不味くはなかった。
 一方で歴史遺産を大切にする土地柄があり、それが商業の発展を妨げているとも言える。
東京からの距離が何ごとかを決めてしまうような時代の、これも遺産か。





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