牛久沼周辺吟行記 二〇〇八年五月二十一日(水) 
        一二三壯治記



牛久に決まるまで

「関八州めぐり」も回を重ねて、場所選びに悩むようになってきた。季節がよければどこでもよ
いと思うのだが、何かしら理由付けや目当てがないと「俳句が作れない」という意見もあり、な
かなか厄介だ。
「牛久か、栃木市はどうだろう」
 ひでを宗匠からのこんな電話が始まりだった。どちらも筆者曾遊の地である。牛久は牛久沼
を持つ水郷地帯、栃木市は蔵の町といった印象が残る。
「牛久沼は、あまりきれいなところじゃなかったですよ」
「そうか。だけど神谷バーが経営してる〈シャトーカミヤ〉というのがあって、ワイン工場跡を見学
したり、レストランで飲んだりできるらしいぞ」
「牛久ワインでしょ。前にも行ったけど、冴えなかったなあ…まあ、いいです。もう一度ネットで
調べてみます」
 そう言って電話を切り、さっそくインターネットで牛久とシャトーカミヤを検索した。するとなるほ
ど、シャトーカミヤは創業者神谷傳兵衛記念館やワイナリー、レストラン、庭園などを持つテー
マパークで、左党、食通揃いの当会メンバーも黙らすことができそうだ。牛久沼も、コースによ
っては見どころが多いとわかった。
「牛久にしましょうか、〈シャトーカミヤ〉がよさそうなので…」と、翌日すぐ宗匠に電話で伝えた。
「なんだ、昨日とはエライ変わりようじゃないか」
「どうやら前に行った方とは違うようでした。前は、沼べりのワインレストランで不味い鰻を食わ
されたんです」
「そうかい。お前さんがいいなら、牛久にしよう」との宗匠の言葉で決まった。
 宗匠、この時はおくびにも出さなかったが、牛久には別の思い入れがあった。ヒントは次の一
句にある。

  牛久沼五月の鷹をみつけたる  ひでを

牛久へ着いてから

 牛久駅へは、常磐線快速で上野から五十五分の距離である。総勢八名が降り立つ。初めの
目的地、牛久沼近くの三日月橋までバスを利用するはずが、二時間後にしか出ないとわかり、
タクシーに切り替えた。が、そのタクシーもなかなか来ない。
「昼飯時だで、運転手がみんな飯食ってるだんべ」
 同じくタクシーを待つ土地の老婆が教えてくれた。
「まあ、ほんとにこの会は行き当たりばったりねえ。他の会なら、幹事が吊るし上げを食うとこ
ろよ」と、夢さんが幹事役の筆者をからかう。
吟行はハプニングがあるからおもしろい。かの芭蕉翁も『奥の細道』の旅の間、一夜の宿を借
りるのにさえ難儀し、馬小屋の片隅に枕することもあった。名句〈蚤虱馬の尿する枕もと〉は、
そこで生まれた。それに比べればタクシーが拾えないことなど、優雅なものである。
 約三十分後、ようやく三日月橋に着く。橋は、牛久沼に注ぐ川の一つ稲荷川に架かる。近く
には公民館、アヤメ園、画家小川芋銭描く河童の碑や記念館(雲魚亭)、小説『橋のない川』の
作者住井すゑゆかりの館(抱樸舎)などがある。この辺りなら、句材もたくさん拾えようと目論ん
だ次第。
 たとえば、田植えを終えたばかりの田を見ては――

  田面(たづら)撫でる風のやさしさ夏来る  風天子

  コーラスの流れる田んぼ風薫る  かおる

 たとえば、河童像のあるアヤメ園に行く春を惜しんでは――

  河童ゐて目高の群を驚かす  ひでを

  藤の花ふたつ垂れたり二人寝る  壯治

 少し遅れて木の葉さんが到着。総勢九人になった。

   よろこびを分かちあひたる友とをり 〈無季〉 木の葉

 人数が増えて、全員の位置確認がますます面倒になる。農道を歩いて、雲魚亭や抱樸舎の
ある方へ向かう。
 それぞれ、情に親しき景を得ては――

  薫風の道を真赤な耕耘機   舞九

  夏の川渡る橋あり抱樸舎   建一郎

  芋銭の碑かっぱの顔に夏光る  風天子

ここで、小川芋銭(一八六八〜一九三八)と住井すゑ(一九〇二〜一九九七)について触れてお
こう。芋銭は江戸赤坂に武士の子として生まれた。維新後、父親の帰農に伴って牛久に移住。
初めは洋画家として出発したが、後に日本画に転向する。幼少期、牛久で接した自然や風景
が、あるいは原風景となって日本画家としての素養を育んだのかもしれない。晩年には、『河
童百図』を描き、それによって「河童」が芋銭の代名詞となった。雲魚亭は芋銭の居宅兼アトリ
エで、建坪二十坪ほどの和建築である。玉解く芭蕉の葉が何ごとかを伝えている。
住井すゑは、平成の世まで生きた。うかつにも知らなかった。もっと前の時代の人のように感じ
ていた。全七部に及ぶ大作『橋のない川』第一部の出版が、すゑ五十九歳の時とあるから晩
成の人であったらしい。牛久村に転居して(昭和十年・三十三歳)から、作家として立つための
思想と行動力を磨いたことが年譜によって伺える。信条は「土を愛しみ、水をいたわり、火を敬
う」であったという。九十五歳の大往生。以て瞑すべし、か。
雲魚亭を出てから、怖れていたことが起こった。集団がばらけてしまったのだ。筆者は、ひでを
宗匠、木の葉さんと抱樸舎を拝見し、住井すゑの実の娘と思しきお婆さんから説明を受けた。
「この庭から東京大空襲が見えたんですよ」という言葉が印象深かった。
ここで、さらに木の葉さんがはぐれた。他のメンバーとも携帯電話で連絡を取りながら、再び牛
久沼の方へきびすを返す。行きには水張田だったのが、整然とした植田に姿を変えていた。そ
の先に霞む牛久沼とメンバーらしき人影を見つけたときは、いささかほっとした。

牛久沼の風に感じては――
   衣更ふ袂(たもと)に遊ぶ沼の風   凡天

  風薫るサーフィン横切る牛久沼   凡天

  いつせいに柳の絮の飛ぶ日かな   夢

牛久を去るまで
 〈シャトーカミヤ〉のビアレストラン〈テラス・ドゥ・オエノン〉は、四時半に予約していた。三時半
に着き、園内をゆっくり見学する。木の葉さんもそこで合流。

  夏の宵たどりつきたる神谷バー   木の葉

 まだ陽は高い。手入れのよい庭に、季節の花がさまざま咲く。

  入口にしやくなげの咲くワイン蔵   かおる

 神谷傳兵衛記念館の地下蔵に入る。ワイン醸造の樽や瓶がほこりをかぶったまま置き去り
にされている。

  地下暗し黴に神谷が夢の跡   壯治

 地上に戻ると、日は西に傾きかけている。これから暮れなずむ西日を眺めながら、酒盃を傾
ける刻一刻が至福の時である。

   赤ワイン白ワイン酌み暮れかぬる   夢

  マロニエにフランスワイン地のビール   舞九

 料理はビアホールのようにカジュアルだが、わずかに繊細さも感じる。ラムソーセージ、チキ
ンソテー、ポテトフライ、酢漬け野菜など、みな自家製ならではの隠し味が楽しめた。

   馳走食ぶレトロ館の初夏の夕   建一郎

 その間に句を作り重ねる。酒と肴に刺激されて、言葉と韻律が湧き出てくる。これが我らセミ
の会の句作スタイルと言ってよい。宗匠の講評が終わるころには、夜の帳が降りている。

   血のワインにラムのステーキ修司の忌   ひでを

 後で知ったのだが、宗匠と交流のあった故寺山修司氏は、夫人の実家が近い牛久をよく訪
れたという。冒頭に掲げた宗匠の「五月の鷹」の句は、実際に牛久沼で鷹を眼にしただけでな
く、寺山氏の有名な句を面影にしている。

  目つむりていても吾を統(す)ぶ五月の鷹   修司

「それにしてもトンビでなく、鷹に出会えたとは!」と、宗匠は最後までご機嫌だった。





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