その66〜その70

ひでをエッセー・その68
「原節子に会う!」

  狛江のお宅の玄関の引き戸を開けると上がり框に「昭和の大女優」が立っていた。というのが頭のかたすみに残っている50数年前の情景だが、週刊朝日12月11日のグラビア「原節子、逝く 本誌秘蔵 大女優の素顔」を見たら、原さんの立つ玄関は、開き戸である。記憶はまことにあいまいである。しかし、会って言葉を交わしたのは事実である。

 原さんは1962年の『忠臣蔵』を最後に映画界を引退されたわけだけれどその時記者会見をされたり雑誌や新聞に発表されたりしたわけではなかった。
 ある時、雑誌記者のわたしは、デスクに呼ばれ「来年(63年)の東宝のスターカレンダーから原節子が消えたそうだ。ということはだ、いよいよ映画界からの引退が確定したということだ」と、取材を命ぜられた。いまネットで調べると1962年までの11年間連続して原さんは東宝カレンダーの正月号を飾っている。そうだとすると、わたしが入社一年目の時のことだ。

 当時のわたしは映画は大好きだったが、西洋映画ばかり見ており、いかに美人といっても原さんはわたしより19も年上、取材で美女に会えると小躍りしたわけではない。むしろ「カレンダーに出なくなるのが大事件なのかね」くらいに思っていたと思う。しかし、鬼より怖いデスクの命令だから仕方がない、先ずは社内の先輩たちに話を聞いてみた。すると原節子に会うというのは並大抵のことではないというのである。

 それで、直にあたるべく、アポイントをとらずに狛江市のお宅に出かけたのである。広い庭があったが、豪邸というより庶民的な郊外の家という感じだった。ただ立派な門があったように記憶するが定かではない。そこを突破して玄関にいたり、ベルを押したのか、こんちわと叫んだのか、許可を得て戸を開けると、ちょっと暗い前方ななめ上から原さんの目が迎えてくれたのである。

  ところが『アサヒグラフ』の名刺をだし、名を名乗ると、原さんは怪訝な表情になり、やがてくすっと笑ったように思う。
  実は、わたしが伺った時刻に保険屋さんが来ることになっていたのだそうだ。それですんなりお会いできてしまったわけだった。しかし、せっかくのチャンス、一生懸命"口説いた"けれど、結局は写真撮影もインタビューもふられてしまった。

  最後に「テレビドラマに出演されるお気持ちはありませんか」ときくと、「いいお話があれば考えますけれど」そう言われたのだけは鮮明に覚えている。

 会社に帰ったあと、映画界に強い先輩から「君、会っただけでも、目っけものだよ」といわれた。
以来、ずっと、取材や手記を書いてもらえないかということは頭にあって原さんに関する記事や噂話には敏感になっていた。若い記者を"けしかけた"こともあった。これは多くの記者や編集者は皆同じだったろう。
 東京新聞の11月27日朝刊に俳優の堀内正美さんの話が出ていたが、「原さんが心を許した数少ない映画人に(97年に亡くなった)中尾さんという結髪さんがいた」そうで 、原さんが引退後も鎌倉の家に行く 仲だった。中尾さんは 帰宅すると「また記者に尾行された」と笑って話していた、という。

 耳にしたいろんな情報のなかにこんなのがあった。鎌倉の原さんの家の近くに住む小学生が偶然原さんに会いおやつをご馳走になったというのだ。少年はお母さんに「すげえ綺麗なばあさまだった」と報告したのだそうだ。

  原さんが亡くなったのは9月5日。そして各メディアが伝えたのが11月25日から。わたしは週刊誌の広告なども含めて見ているのだが、「原節子に会った最後の記者の今だから話そう」というような記事はまだみつからない。「会えざるの記」はみたけれど。
  あれだけのスターなのだから引退後も何人かの記者は原さんには会っているはず、とわたしは想像していた。
  いささか品がない言葉だが、わたしはやはり「会えただけでも見っけもの」だったか。





  棺蓋ひいよよ拡がる花野かな    ひでを









ひでをエッセー・その67
「ギリシアに旅して 9月中旬〜下旬」
 

  たとえば、神託で知られるデルフィの神殿近く、観光客がぞろぞろ歩いている道の木陰で、大きな二頭の犬が“北”の字をつくって眠っている。呼びかけても耳すら動かさない。ギリシアには野良の犬や猫がたくさんいたが頭や喉を撫ぜてやれば満足している。がっついていないのである。
 犬猫ばかりではない。午後の2時にもなると観光客相手以外の店は閉まって街はがらんとしてしまう。シェスタの風習が続いているのだ。店をあけていても、アテネの飲食店街以外はあまり呼び込みなどは見かけなかった。
  ミコノス島の旧市街。延々と続く美しい路地。土産物屋、服飾店、貴金属店、そしてタベルナ(居酒屋)などが軒を連ねているが、店員は、ちょっと見て行ってというように笑いかけるぐらいだ。お隣の国トルコやクレタ島の南のエジプトとはえらい違いだ。わたしはショールを買おうと思い、中年の主に近付くと、主は値段から素材、三代にわたる店の歴史を手短に述べ、すっと消えてしまった。買う段になって主を探しに行くと店の奥で昼メシを食っていた、というあんばいなのだ。

  「ギリシャ人はもっと働け、でないと金は貸せぬ」とドイツ人らはいう。しかし、ギリシャ人のほうは生活習慣を変える風は一向にないようにわたしには思えた。
  「金融危機だからカードは使えないかもしれんぞ」と出発前友人たちは心配してくれたが、旅行中そういうことは一度もなかった。ホテル代を払う時「マスターカードとユーロとどちらがいい」と聞いてみると「どちらでも」とフロントの男はにこやかに答えた。
  しかし、ギリシャ人によるカードの現金化には今でも厳しい制限がある。

  「お金のないのは政府であってギリシャ人は豊かなんですよ。国民の75%が持ち家があり60%以上が別荘をもってます」と、長年ギリシアに住んでいるというガイドの日本人女性は言う。ギリシャ人のご主人は55歳から年金暮し。ふたりのお子さんは成人されており、夫婦での海外旅行が楽しみと言う。給料や年金は、皆減らされたがなんとか暮らしていけるのだという。そして「物価は安い上、ギリシア人は果物でも野菜でも旬のものをたのしみます。日本のように冬でもキュウリやナスがあるのとはちがいます。今、リンゴが出回り始めました。今日のホテルの夕食のデザートはリンゴのパイかもしれません」と付け加えた。

  ちなみに、街角のキオスクで買うペットボトルの水(500ミリ)は0.5ユーロ。観光地でも同じだった。
  小中学校の夏休みはフルに3ヶ月。宿題などは全くないそうだ。なんともすばらしい。

 (ギリシアはヨーロッパ文明の原点。キリスト教だってギリシアを経て広がったのだし、新約聖書は最初ギリシア語で書かれていたではないか。そもそもヨーロッパの名前もギリシア神話からきているではないか。「その原点をとどめる遺跡や文化を守ってきた爺様≠ェあんベー悪くなったなら,出世なさった子や孫がちったぁー金の面倒みたって罰はあたらねぇだろ」というのが私の気分)
 
  ギリシアでの若者の就職難は深刻らしいが、日中、所在無気にたむろしている風景には出会わなかったし、ホームレスを見かけたこともなかった。しかし、「頭脳の海外流出は大きな問題です」とガイドさんは心配していた。

  わたしたちを乗せた小型バスがよく舗装された道を走っているとき、森を切り開いたところに、ビニールばかりで出来たような家々が見えた。「ジプシー(ロマ)です」とガイドさんが言った。そして「政府は住宅を提供していますが、なかなか定住しないんです」といい、「不動産に興味がないんですね」と説明してくれた。漂泊の民の面目躍如ではないか。「いまは鉄の値段が高いので、主に廃品業をしている」そうだ。
  話がうまく明快なこのガイドさんの言い方にはロマへの非難めいた感じがまったくなかった。ヨーロッパの他の国々ではロマは、スリかどろぼうのように言われ、ご用心!と注意されることがよくある。「あのひとたちは悪いことはしません」とガイドさんが断言したのが、わたしには気持よかった。 もちろん少なくともギリシアでは、というのであろうけれども。 「それにしてもあの家は汚いですね。まるでゴミの山ね」誰かが言った時、わたしは20代にまとめて五、六冊読んだロマに関する本を思い出していた。そして「家のなかを見て見たいな」と思った。汚い集落なら誰も近づこうとしまい、と彼らは考えているのではないか。それは若い女の子が一人汽車に乗っている場合、時々わざと頭や体を掻く真似をする、ノミ、シラミのいる女なら好色漢も近づかないからだ、と本の一冊にあったのを思い出し勝手に連想した。
  テラスで昼飯をしていたとき、若いロマの女が薄いシャツの上から大きなお腹をさすりつつ「この子のために花を買って」とチューリップを一輪さし出した。1ユーロだった。わたしはロマの物乞いに出会うと、ホテルのチップ程度の小銭を渡すことにしている。ただし相手が集団の場合はしない。今気がついたのだがロマの男の物乞いには会ったことがない。誇りのためであろうか。
 
  この旅は8人のツアーだが旅行社が売り出しているものではなく、自分らで作ったスケジュール。各自の希望を10泊12日間に詰め込んだのでかなりハードなものになった。旅の前半はアテネに一泊してミコノスとデロス、サントリーニ、クレタの島々を回っアテネに戻る。後半はコリントス、デルフィ、テオレマへ見てまたアテネに帰る。結局、アテネの同じホテルに三度計四泊したのだが、これが“体力維持に”に役立った。着替えなどを半分置いていけるからである。
  後半は小型バスとガイドをやとったが、アテネ市内と島巡りは自分たちだけの旅。スケジュールが確定したのが七月。そこに金融危機、政治的混乱、そして難民問題。友人たちは心配してくれたが、観光立国らしく、それに仲間に英会話のベテラン、旅行のベテラン、計算のベテランがいたせいか 、たいした事件≠ヘ起きなかった。
  食事する店は各自の情報をもとにその日の当番幹事がきめるのだが、不思議なことに、もめたことは一度もなかった。崖の上に立つ、プールの水以外はすべてまっ白のホテルのレストランでも、路地裏のテーブルが少し傾いだタベルナでも、予想より安くてうまっかった。わたしはギリシアは二度目で最初の時は旅行会社のツアーだったが、料理については「トルコの方がうまい」ということで友人四人と一致していたのである。だがうれしい誤解。
  イカ、タコ、海老、エイ、イワシ、雑魚?などのフライ、ソテーなど、それを島々の地酒のワイン(白がいい)で流し込むのである。居酒屋派にはたまらない。やはりツアーの“おしきせ”とは、気分もふくめて全く違う。
 「ギリシア人は大食いだから8人なら、一つの料理は二皿で十分ですよ。いろんな料理を味わうほうが楽しいでしょう」と言うアドバイスをギリシア文学の専門家から受けていた。パンも美味しいし、これにサラダがあれば十分だった。
  クレタ島の首都イラクリオンの、ベネチア時代からの港に近い大きな海鮮タベルナは家族連れで賑わっていたが、そんなテーブルの一つに運ばれていく皿に盛られたイカフライの山を眺めて、皆仰天してしまった。それで幹事は注文を一皿にしてしまったのである。八人で一皿!
 
  島から島への移動に快速船を二度利用した。いずれもジェットフォイルで、わたしはこんな巨大なのに乗るのは初めてだった。晴天だが白波の立つ荒海を飛んでゆき、揺れはほとんどない。しかも、ミコノスとクレタの途中ナクソス島に寄港した。わずか数分の接岸だが素晴らしいオマケだ。ここはディオニソス(パッカス)生誕の地と伝えられている。となれば、船の売店のビールやワインで乾杯しなければならない。

  難民問題は、旅行に何の影響もなかったように思われた。ただ船が予約した船と違っていたり、一時間以上遅れたりしたことと、もしかして関係があったかのかもしれないと、今になって思う。トルコとの国境に食い込むような小さな島コス島にシリヤ難民が押しかけたときギリシア政府は船でシリア人を運んだが、そのときのテレビで見た船はわたしたちが乗った船ほどに大きかったからである。
  サントリーニ島で車で送り迎えをしてくれた気持ちのいい青年がいた。港で別れるとき、仲間の一人が「この島の生まれですか」と聞くと、青年は「ウクライナ人です」はにかむように答えた。づしりと重く響く言葉だった。後日アテネでインドから来ている“経済難民”のはなしも聞いた・・・・。
 
  ギリシア最後の日 、一人で国立考古学博物館をゆっくり見物した。満足して外に出ると、大粒の雨が降って来たので、タクシーに飛び乗った。ホテルまで12ユーロだという。高いと言うと、雨だからと言う。雨だとなぜ高くなるのか、と言うと、渋滞するからだと言う。メーター通りでと言うと、運転士はメーターを操作し、「渋滞で一番高くなる場合は12ユーロくらいなんだ」と弁解した。渋滞もあったけれど8ユーロだった。これが、この度の旅行の唯一の金銭トラブル≠セった。わたしはちょっぴり雨天料金≠加算してやった。
 
 
 ギリシアを去る日の朝、もう一度パルテノンを見るべくアクロポリスの丘に登った。昨夜の雨で空気はしっとりとしており、ひとり佇んでいると上着なしでは寒いくらいだ。わたしは、再びここに立つことができるよう、たくさんの神々に祈った。
 


      列柱の濡れてギリシアに秋のくる     ひでを





 以上は、一旅行者の体験記、管見です。旅行される場合はギリシアに強い旅行会社から情報を得ることをおすすめします。わたしたちもそうしました。







ひでをエッセー・その66
「ゴーヤの風」


  うなぎの寝床の、玄関を頭とすれば、台所につながる首にあたる、少し括れたところが、わが家では風が一番良く通るのを発見したので、椅子とスタンドを運んできて猛暑に耐えているのである。ここから寝床の尾っぽの方をながめると、暗く細長い穴倉のような部屋の先の、開け放ったガラス戸の畳一畳ほどのところだけが光に満ている。

  そこがベランダで、わたしのささやかな自慢の坪庭なのである。いまが盛りのゴーヤと棚をわけあっている葡萄は初めて収穫するものだが、すでに甘い実を綺麗に膨らませている。棚は、三浦半島に借りている家の家主の竹林からわたしが切り出して来て組み立てたもの。蔓というものは相当に強いものらしくがっちりと棚を押さえ込んでいる。つまり竹と協力しあっているのである。
  ところで、今年不思議なのは蚊がいないことである。連日の猛暑に蚊も参っているのだろうか。それとも昨年のエボラ熱騒ぎのせいで、なんらかの対策が講じられているのであろうか。蚊がいないのは結構だが、ゴーヤの花は雌雄別であるからアブなどの虫が来ないとわたしが授粉させなければならない。踏み台の上に立つのもちょっとおっかなくなってきた。
  昼のニ時をすぎるとゴーヤの葉はもう萎れ始める。鉢植えのつらいところだ。もっとも、葉が萎れたために、気づいていなかった、大きな実が急に現れるという楽しみはある。面白いのは、水を遣るとたちまちカーテンが繕われていくことだ。

  緑のカーテンで冷やされた(と信じている)、わずかの風が家に入り、玄関にぬける手前の括れた部分で、川の流れが川幅が狭くなると速くなるように、強まるのである。そこに座ってぼんやり紅茶でも飲んでいると、リビヤとか、チュニジアとか、イランとかの砂漠の国のオアシスの街にでもいるような気になる。幻想に囚われているのか、眠っているのか‥‥。
  五時を過ぎて水撒きをする。今度はゴーヤばかりでなく全部の鉢だ。布袋草が咲いていたりする。そしてそのあとは自分の番だ。最近はリモンチェッロの水割りに、はまっている。



    水遣れば繕ひ急ぐゴーヤの葉        ひでを
 


     晴天が憎らしげなる布袋草     ひでを










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